ドゥンス・スコトゥスのテキストも久々に見ている。モノは『意志の原因』『愉悦の対象』という二つの論考を収録した仏訳本(La Cause Du Vouloir Suivi De L’objet De La Jouissance (Sagesses Medievales), trad. François Loiret, Les Belles Lettres, 2009)。そういうタイトルの独立した論考があるのではなく、最初のものは『命題集注解』第二巻の二五章、二つめは同じ注解書の第一巻第一章第一部問一をそれぞれのタイトルで収録したもの。どちらもスコトゥスの自由意志論の重要なテキストとされているけれど、とくに前者については大幅に違う三つの異本を収録していて資料価値も高い。さしあたり、その三つの比較(これはとても興味深いところなのだけれど)はとりあえず後回しにして、まずは二つめのタイトルである『愉悦の対象』を読んでみた。というわけで早速メモ。
「唯名論者オッカムはスコトゥスの実在論を批判した」という通念的な理解は、実際に少しでも両者のもとのテキストに触れてみるとひどく単純化したものであることがわかる。どちらも微妙な違和感が伴うからだ。そうした違和感を少しでも整理しようという論考が、JT・パーシュ『普遍と個体化をめぐるスコトゥスとオッカム』(JT Paasch, Scotus and Ockham on Universals and Individuation, Academia.edu)。普遍をめぐる理論には(1)極論的実在論(プラトン的に外部世界に普遍が存在するという立場)、(2)内在論的実在論(個の中に要素として普遍が存在するという立場)、(3)トロープ理論(同類の特性が個のそれぞれに存在するだけだという立場)、(4)唯名論(普遍は一般概念にすぎないと見なす立場)に分かれると論文著者は言う。これをもとにスコトゥスとオッカムがどこに位置するのかを探ろうとするのだけれど、それぞれに曖昧さ・混乱があってこれはなかなか容易にはいかない。
ロジャー・アリュー『スコラ学者たちの中のデカルト』(Roger Ariew, Descartes among the Scholastics, Brill, 2011)を読み始めている。著者の個人論集で、デカルトとスコラ学の関係を多面的に扱った論考が居並んでいる。これはなかなか興味深い。そのうちの第二章が、スコトゥス派の話に当てられている。エティエンヌ・ジルソンの功罪の一つは、デカルトの時代についてトマス派を持ち上げ、スコトゥス派を顧みなかったことだとされる。著者によると、その理由の一つは、当時のローマでトマス派が支配的だったことを受けて、他の地域もそれに従ったに違いないとジルソンが推測したことにあるという。さらに、ちょうどジルソンが生きた一九世紀末から二〇世紀初めにかけてトマス主義が隆盛を極めたことで、結果的にその影響によってジルソンにおいてもトマス主義偏重が強められたのではないか、ともいう。実際には、16、17世紀のパリ大学などにおいてはむしろスコトゥス思想が一般的になっていて、トマス主義を重んじる傾向にあったイエズス会とは様々な点で(文化的、政治的に)対立していたという。イエズス会のコレージュ開設をパリ大学側が阻止しようとしたりしていたのだとか(1595年、1604年、そして1616年以降)。ちなみに、デカルトは当初イエズス会での教育を受けていたわけだけれども、その思想はむしろスコトゥス主義と親和的な要素を多々もっているとされる。