フランシスコ会系の思想をわずかながら追いかけているのだけれど、また新たな人物登場(笑)。コーンウォールのリチャード・ルフス。この人物に関するレガ・ウッドの論考(Rega Wood, ‘Richard Rufus of Cornwall on Creation: The Reception of Aristotelian Physics in the West’ in “Medieval Philosophy and Theology, vol. 2”, 1992 →PDFファイルはこちら)を読む。リチャード・ルフスはヘイルズのアレクサンダーやボナヴェントゥラとほぼ同期で、フランシスコ会を知的一大勢力にすることに貢献した人物だという。ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』の初期の注解者でもあり、思想的にはアリストテレスの受容に関してなかなか微妙な立ち位置である様子。この論考では、「世界の永続性」「無からの創造」といった、アリストテレス思想とキリスト教との一大反目点について、ルフスのちょっと変わった解釈を、しかも著作別(つまりは年代別)の変化の様子を交えつつ詳しく紹介している。というわけで早速、若干のメモ。
先週末のメルマガでも触れたラ・ロシェルのジャン。ボナヴェントゥラの先輩筋にあたるこの人物についてのごく小さな論考(一見ほとんど中間報告のようなもの)を読んでいて、こちらの勘違いもあって軽い衝撃を受ける(苦笑)。以下はその顛末。論考というのは、デニス・ライアンという研究者の「ラ・ロシェルのジャンにおける存在と本質の区別の定式化」(Denise Ryan, ‘ean de la Rochelle’s Formulation of the Distinction between Being and Essence’, in “Maynooth Philosophical Papers(4)”, 2007, pp.123-129)というもの。まず、ジャンの『霊魂大全』(Summa de anima)において、quod est(実際にあるもの:存在)とquo est(実際にあるものの拠り所となるもの:本質)という、トマスが用いていた区別が、物体的なものと非物体的なものの違いの文脈で語られているという説明がある。次いで、この区別がもとはボエティウスに遡ることが示され(ふむふむ、これはよく言われること)、一度忘れられていたこの定式がフィリップ・ル・シャンスリエ(13世紀初頭、パリ大学の学長)によって再び見出されたことが紹介されている(おー、これは勉強になるなあ、と感心)。続いて論考はアラブの伝統に目配せし、アヴィセンナの有名な「中空人間」の思考実験(これはジャンのテキストにも取り上げられている)に言及し、デカルトのコギトとは文脈も目的も違うことを解説する(そりゃそうだ、と納得)。アヴィセンナにおいて魂と肉体が意外に密接に関係していることを示し、アヴィセンナの用語において「本質」ではなく「モノ」が使われていること、両者が必ずしも同じ意味ではないことを指摘してみせる(おお、と思う)。ついで今度は非物体的存在についての質料形相論をめぐるトマスとボナヴェントゥラの対立を取り上げてみせる(あれれ、ジャンはどうなったの?と訝る)。そして結論部分で、なんとトマスのquod estとquo estの区別のソースは、ジャンの『霊魂大全』だったのではないかという仮説を示してみせるのだ!いきなりだったので、ちょっと面食らった(どひゃ−)。こちらが、執筆年代を少々勘違いしていたせいもあるのだけれど……。トマスの『存在者と本質について』は1252年から56年頃(もっと前だと思っていた)、ジャンの『霊魂大全』は1235年から36年頃(もっと後だと思っていた)なのだそうで、さらにトマスがジャンの著作を読んでいた可能性を示す証拠はほかにもあるという。うーむ、例によってこの是非はすぐには判断しがたいけれど、確かにそれはちょっと面白そうではある。ちなみにこのデニス・ライアン氏は、ジャンの『霊魂大全』の校注・英訳を博士論文で手がけていると記しているから、そのうち出版されるかもしれない。期待していよう。
これまたオリヴィについての調査の一環として、シルヴァン・ピロンの論文「南部のストゥディアおよびパリにおけるフランシスコ会の自由討論」(Sylvain Piron, ‘Franciscan Quodlibeta in Southern Studia and at Paris, 1280-1300’, in in Chris Schabel dir., “Theological Quodlibeta in the Middle Ages. The Thirteenth Century”, Brill, 2006)を読む(PDFはこちら)。うむ、いろいろ勉強になる。自由討論は雑多な問題について教師と学生が自由に討論するというもので、この形式を最初に導入したのは、やはりフランシスコ会派のジョン・ペッカムだったという。1272年から75年ごろのオックスフォードでのこと。これが続くマチュー・アクアスパルタなどにも受け継がれていき、各地にも拡がっていく。13世紀末から14世紀初めにかけて、これは大学だけでなく、地方の修道院などでも行われるようになるらしい(このあたり、何やら「哲学カフェ」とか「白熱教室」とかのプロモーションをも彷彿とさせるけれど……(笑))。この論考は、記録として残っている写本(自由討論集)をつき合わせながら、きわめて実証的に、中央(パリ)の大学での自由討論と、オリヴィを始めとする説教師・学士などが行った地方の自由討論との共通基盤や相違などを、全体像として浮かび上がらせようという興味深いもの。後者の場合にはオーディエンスも単に修道士たちだけではなく、一般の者にも開かれていて、しかもアカデミックというよりも実務的・日常に関係した問題などを扱うようになっていくらしい。対する大学の自由討論は、同様にオープンではあっても当然ながらアカデミックな層に限定され、扱われる問題はより神学的・哲学的で、いろいろな政治的な思惑なども絡んでくる。とまあ、こう簡単にまとめてしまうとナンだけれど(苦笑)、実際の論考が取り上げている話は実に多岐にわたっている。中心的に多くの文章が割かれているのはオリヴィについてだ。異端嫌疑のいきさつや、オリヴィによる初のインデクスの導入の話、具体的な議論の概要、晩年にいたるその自由討論の内容的変化など、様々なトピックを紹介しまとめている。