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政治哲学の曙 2

アンドレ・ド・ミュラ『政治哲学の統一性』。後半部分についても基本線を押さえておこう。ドゥンス・スコトゥスは質料を不定形の受容体とは見なさずに、形相とは分離した(分離可能な)一つの客観的存在と考えた。これはそのまま政体の議論にも平行移動される。つまり、政治形態(形相)とは別に、群衆(質料)はそれ自体ですでにして組織だっており(その組織化の原理に自然法や社会契約の考え方が胚胎している)、一つの客観的存在と見なすことができるという考え方だ。後にスアレスに引き継がれるこの考え方は、大きな断絶をなしている。それまでの神権政治の考え方(それはつまり形相がすべてを統制するという立場)に代わり、群衆が政体もしくは指導者を選択するという考え方、民主政治の萌芽が、まさにそのスコトゥスの質料論にあったのではないか、というわけだ。オッカムにおいてはいっそうラディカルに、すでにして組織だった群衆(社会的身体)に対して、指導者(教皇や君主)を立てる必然性すらなくなってしまう。近代的政教分離の萌芽、アナーキズムの萌芽、……。

もちろん民主制自体は古代からあるわけで、どうやら著者は、そちらでも理論的支えをなしていたのはアリストテレス思想だったと見ているようだ。そちらの質料形相論では、質料と形相とに同じ実体の二つの面を見ていた。その質料形相論は、アナロジカルな思惟の構造を決定づけたという意味で、西欧においてもっとも包括的かつ普遍的な思想だった、と著者は考える。スコトゥス=オッカムの思想はその一つの亜種をなしているにすぎない、みたいな。とはいえ、近代初期の政治思想を長きにわたって支えることになるのは、その亜種にほかならなかった、と。

スアレスにおいては、群衆は自然な目的(つまり共通善)によってすでに統合された「神秘体」を形作っているとされ、その「民主制」こそが自然本来の状態だとされる。そこにおいて君主には政治的統一の権限が委託されるわけなのだが、実際には一度委託されてしまうと罷免できないという意味で、神秘体の側からすると、いわば自然法・自然状態の放棄なのだとスアレスは論じているらしい。なるほど自発的隷属の起源が、そこに見て取れるというわけか……。著者はこれとの関連でスピノザ、ホッブス、ロック、ヒューム、ミル、そしてルソーを、一気に駆け抜けてみせる。

著者の議論全体を集約し下支えしているのは、なんといっても、スコトゥスやオッカムの質料形相論が、彼ら自身の政治思想、ひいてはその継承者たちの政治思想を「アナロジカル」に支えているという、その一点に尽きると言えそうだ。著者はみずからの方法論を「思惟の構造の分析」と称して、そうしたアナロジカルな思惟の拡がり具合を例示したりもしている。うん、細部にはおそらくツッコミどころもありそうだけれど、巨視的にはなかなか面白い議論。アリストテレス思想の近代までの拡がり具合を、政治思想の面から示してみせた、というところが刺激的だ。

スコトゥスと三位一体

メルマガのほうではスコトゥスは一段落したけれど、いろいろと面白い側面がありそうなので、ブログの方で継続することにしよう。八木雄二氏がいずれかの著書に書いていたと思うけれど、スコトゥスの思想的理解においては神学的な側面が重要なのだとか。というわけで、まずは手始めに、リチャード・クロスによる「神的実体と三位一体に関するドゥンス・スコトゥス」という論考を眺めてみた(Richard Cross, ‘Duns Scotus on Divine Substance and the Trinity’, Medieval Philosophy and Theology 11, 2003, Cambridge University Press)。さわりだけまとめておくと……。

三位一体論をめぐる議論はもちろん初期教父の頃からあるわけだけれど、西欧ではギリシア教父の教説はあまり伝わらず、結果的にというか、アウグスティヌスの教説が支配的になったという。著者によると、ギリシア教父たち(ニュッサのグレゴリオス以降)が考えていたのは、神の実体は「内在的普遍」であるという考え方だという。神の実体はもとより普遍であって、その同じ一つの普遍が反復的に個別事例をなしたものが位格だという立場。一方のアウグスティヌスは、神の実体は普遍ではないとし、それについて類や種を語ることはできないという立場。位格とは何であるかは曖昧で、突き詰めるとただ「何か」があるというふうにしか言えないということに……(うーむ、そうだったかなあ)。で、巡り巡ってスコトゥスは、このギリシア教父らの考え方へと接近し、それをより精細にしたような議論を展開するのだという。とはいえ、別にスコトゥスがギリシア教父のテキストを読んでいたわけではないらしい……。

スコトゥスは「普遍」について、範疇の項目(被造物一般のこと)の場合と神の本質の場合とで別バージョンの理論を用意しているという。たとえば「人間」という概念を考えてみればよいけれど、前者の被造物の場合、数的に一とはならず(概念的には十全ではなく、具体物を見れば数的に多)、心的対象・思考対象として偶有的に変成されることで、はじめて共有可能&属性として適用可能になる。これはまあ、スコトゥス哲学についてよく言われるところ。ところが後者の場合については、スコトゥスは「内在的普遍」を認めているのだという。神の本質・本性はもとより数的に一つで、その体現(exemplified)となるのが位格とされる。位格そのものは実体でも個でもないと規定され(実体や個をなすのは神の本性のほう)、かくして「神」という名辞が示す対象も、神の本性のこともあれば、位格が体現する神のこともあるとされる。こうした構図を採用することで、三位一体にまつわる多神化の危険を回避できるほか、受肉という難問すらクリアできるようになるというのだが……(以下詳細は省略)。うーん、どこか悩ましい感じの(?)この読みの正当性、スコトゥスのテキストに実際に当たって検証してみたいところ。