「主体、知性、スペキエス」カテゴリーアーカイブ

ピエール・ダイイの対象論

シスメル社のミクロログス・ライブラリーのシリーズから、ヴェスコヴィーニ&リニャーニ編『物体と空間:13-14世紀からポストデカルト時代までの、物体・形相・モノの現象学』(Oggetto e spazio. Fenomenologia dell’oggetto, forma e cosa dai secoli XIII-XIV ai post-cartesiani, G.F.Vescovini e O. Rignani, Sismel-Edizioni del Galluzzo, 2008)を読み始める。で、最初に目にとまったのが、ピエール・ダイイ(14世紀後半から15世紀初頭のフランスの神学者)をめぐるジョエル・ビアールの論考(「ピエール・ダイイの認識理論における対象の位置づけ」)。中世の認識論の伝統は長いものの、「対象」という語が多用されるようになるのが14世紀後半あたりらしく、そうした著者の一人にピエール・ダイイがいるのだという。モノ(res)ではなく、対象(obiectus)にはどういう意味が込められていたのか。著者によると、それはまず感覚についての議論に現れ、潜在性や操作(感覚作用)との関連で見た場合の事物を言うのだそうだ。そうした使い方はジャン・ビュリダンやニコル・オレームにも見られるというのだけれど、ダイイはこれをさらに進め、意志や知性についても「対象」という言葉を使っているのだとか。ダイイはトマス以来の知的スペキエス(外部世界のモノを媒介する心的な像)の考え方を部分的に認めつつも、一方でオッカムの「認識とは外部のモノそのものの認識である」という考え方にもどっぷり浸かっていて、スペキエスを介する認識と、モノそのものの直接的認識とを分けて考えているのだという。で、その両方が認識の(知的理解の)対象になりうるのだ、と……。これはビュリダンなどにはない議論なのだそうな。ま、なにやら微妙な話ではあるけれど、このスペキエスを介する認識について、ダイイは鏡に映った像を例に説明を加えているという。

直観的認識と抽象的認識の区別についても、認識対象となる事物の存在・非存在で区別していたオッカムなどとは異なり、ダイイはむしろ現前可能性(presentialitas)の有無で区別するのだという。したがって認識対象が外部のモノか、スペキエスかでもって、認識は直観的認識と抽象的認識のどちらにもなりえ、両者の区分もどこか曖昧になっていく(?)。で、このあたりの議論は実はリミニのグレゴリウスに依るところが大きいのだという。スペキエス論の流れ、あるいは認識論の伝統などの兼ね合いからすると、ダイイもそうだが、リミニのグレゴリウスなどはやはりなかなか面白そうな気配だ。

オッカム、そしてドミンゴ・デ・ソト(16世紀)など……

オッカムの唯名論の弱点について論じたピーター・キングの論考「オッカムの唯名論の失敗」(Peter King, The Failure of Ockham’s Nominalism, 1997)(PDFはこちら)と、それを批判的に再検討したギウラ・クリマ「ピーター・キング『オッカムの唯名論の失敗』へのコメント」(Gyula Klima, Comments on Peter King: “THE FAILURE OF OCKHAM’S NOMINALISM”)をざっと見てみた。メルマガのほうでも取り上げるけれど、両論考ともども、オッカムの唯名論の問題点は個物と一般概念とが取り結ぶ関係を説明できていない点にあるとしている。とりわけオッカムの場合にそうした説明を妨げるのが、個物と概念とが類似の関係にあるという議論らしい。本来これは、二つの個物を比較するときに、その比較の拠り所となる第三の項を設定し、そこに「〜性」といった抽象(普遍)概念を入れるという実在論的な説明を排するため、オッカムが示した議論だった。二つの個物は本性的に(つまりもとから)類似の関係をもつか、さもなくばもたないかのいずれかで、たとえばソクラテスとプラトンを白さで比較する場合に、「白さ」という抽象語を立てる必要はなくて、ソクラテスがもつ白さと、プラトンがもつ白さだけで事足りる、両者の類似の関係さえあれば第三項は必要ない、という話なのだけれど、複数の(というか潜在的に同種のすべての)個物と一般概念とがどう結びつくのかを考える場合、この類似の関係は途端に足枷になってしまうようだ。たとえばある一匹のオス猫を見て「動物」「オス」という概念を抱く場合、類似によってそれら個体とそうした概念が成立するには、「動物」や「オス」という範疇があらかじめなければならないのではないかということになる。範疇(概念)を先取りせずに、その成立をどう説明づけるのか。あるいは犬とかほかの生き物を見る場合に、心的操作だけでどうやってそうした「動物」や「オス」の概念に結びつけるのか。類似性の関係だけでは、心的な操作だけでそうした概念が成立するのを説明づけられないのではないか……。

クリマの論考の最後にちらっと示されているけれど、オッカムの議論におけるこうした弱点を突く批判はすでに同時代からあったようで、一つ挙げられているのは『オッカムに対する実在論の論理』(Logica realis contra Ockham)というもの。これは偽リチャード・キャンプサルの文書とされているものの実際の著者は不明で、ときにウォルター・チャットンに帰されたりもするのだそうだ。さらに重要そうなのが、16世紀のドミニコ会士ドミンゴ・デ・ソトだ。一般に経済理論や国際法の議論で知られている人物とのこと。トマスの『神学大全』の注釈も書いているそうな。本人は実在論の側に立っているようだが、その立ち位置はビュリダンなどの唯名論とも重なる微妙なものらしい(?)。実在論と唯名論の根本的な不一致は存在論にあるのではなく、意味論にあると看破しているといい、「存在論的には中庸な、意味論的実在論」を唱えるのだという。うーむこれだけではなにやらよくわからないけれど、でもとても面白そうではないか!クリマはこれを高く評価しているようで、オッカムの行き詰まりを打破する鍵の可能性すら見出している。これはぜひテキストを見てみたい。

アヴェロエスの時間論……

昨年12月刊の『西洋中世研究』(第三号、西洋中世学会編、2011)を遅ればせながら眺めているところ。「イメージを読む中世」という特集で、図像学系の論文を多数収録している。それらも面白いのだけれど、個人的に最も注目されるのは、辻内宣博「14世紀における時間と魂との関係」(pp.151-166)という論考。アリストテレスのテーゼ「時間とは運動の数である」が、アヴェロエスを経て、オッカムとビュリダンでどう解釈されているかをまとめている。アヴェロエスは、数が成立するには数えられるものがなくてはならず、数えられるものは、数えられる前は可能態としてあり、知性によって数えられることで初めて現実態になると考えているという。精神の外部にはただ運動が存在するのみで、それを精神が前後に区別することで数が数えられるというわけだ。連続的な運動を質料とし、数を形相として時間が成立する、と。オッカムはこの議論のうち「魂の活動」という面を強調し、運動を数える際の測定基準となる時間(内的な一種の単位時間のようなもの?)が精神のうちにあると考える。一方のビュリダンは、精神の働き自体は重んじるものの、外的事象としての時間のほうに力点を置き、測定基準となる運動量を考えている……。

オッカムとビュリダンの比較というのもすこぶる刺激的だが、ここでは両者の前提となっているアヴェロエスの論がとりわけ注目される。外的世界にある事物が数という観点からは可能態として扱われ、精神世界にある事物のほうが現実態だというのがとても興味深い。普通の事物であれば、現実態は個的な存在様態にこそ結びつけられるのが一般的だと思うけれど(少なくとも13世紀あたりの議論においては)、アヴェロエスにおいては、普遍概念に関してはまったく逆転してしまうということなのだろうか。でもそうなると、個と普遍の関係性、現実態・可能態の切り出し方、質料形相論が、なにやら曖昧かつ微妙にもつれ合ってしまう気がするのだが……。アヴェロエスがそのあたりをどう整理・処理しているのかとても気になる。これはちゃんと読んでみなくてはね(笑)。同論文でのアヴェロエスの引用は、16世紀のラテン語訳(ジュンタ版)アリストテレス全集注解付きからのものだけれど、アラビア語版とかはどうなっているのかもいっそう気になる。確認していこう(笑)。

↓wikipedia(en)より、アンドレア・ディ・ボナイウート(14世紀フィレンツェ)画「トマスの勝利」に描かれたアヴェロエス(おなじみの絵だが……)

知的スペキエス

今年はいろいろあったせいで、春から夏の読書計画もかなり乱れてしまっているが……。そんな中、リーン・スプルート『知的スペキエス:知覚から知識へ』第一巻(Leen Spruit, “Species Intelliigibilis – From Perception to Knowledge vol.1, Classical Roots and Medieval Discussions”, Brill, 1994にようやくざっと目を通せた。これ、今年の初めごろだったか、ツィッターのTL上でも、スペキエスについてのほぼ唯一のまとまった本格的な研究としてかなり好意的に紹介されていたように思う。二巻本のうちの最初の巻を見ただけだけれど、中世で盛んに取り上げられたスペキエス(つまり外界事象の知覚と、抽象的な知的理解との間を取り持つ中間物として仮構された一種の表象ないし像のようなもの)理論の、成立から変成をかなり網羅的に渉猟した記念碑的な本という感じだ。知覚を媒介する内部感覚的な像という考え方には背景としては長い歴史があるわけだけれど、抽象的知に刻まれるとされる「知的スペキエス」自体は、案の定というか、ストア派が大きく絡んで後世に伝えられた側面があるという話。キケロがプラトンの「イデア」を「スペキエス」「形相」と訳出したことがそもそもの発端だったらしく、アプレイウスからアウグスティヌスにいたるまで、その後の書き手たちはイデアの訳語としてそれを用いるようになっていくという。キケロの訳には、プラトンのイデアがストア派によって表象のように解釈されたという背景があるようで、さらにそれに対する中期プラトン主義の反応(イデアを神の思惟と見なす解釈)が絡み、事態はさらに複合化していった模様。結局カルキディウスの『ティマイオス注解』で「知的スペキエス」という用語がほぼ定着するのだとか。

ここから同書は中世の数多くの論者たちに見られる「スペキエス」議論の細かな枝葉に分け入っていく。で、今回の第一巻で個人的に関心をそそられるのは、スペキエスの考え方に批判的な議論が出てくる13世紀以降の話(同書の章立てでは第三章以降)。(個人的にメルマガで取り上げている)オリヴィの議論も紹介されているし、とりわけアンチ・スペキエスの先鋒となったらしいガンのヘンリクスあたりは興味深いところ。フランシスコ会派、ドメニコ会派とつい分けて考えてしまうけれど、個別の論者それぞれがなかなかに錯綜しているようで、このあたりの流れというか展開というかはとても面白い。第一巻では14世紀を経て15世紀くらいまでが取り上げられているけれど、後のほうになると馴染みのない論者もバシバシ出てくるし、ちょっとそのあたりも含めて確認してみたいことが山ほどある(笑)。原テキストを読むときの参考資料としてはもちろん、辞書的に読むみたいな活用法もできそう。というわけで、もとより総覧的な整理そのものにも惹かれるけれど、さらにこれがルネサンス期に至ってどう消滅していくかというのも、とても気になるところだ。第二巻のほうがもしかすると面白いかもしれないなあ、と今から期待しているところ(未入手だけれど)。

ラティオ・パルティクラーリス

オリヴィというかフランシスコ会系の感覚論について調べる一方で、対照するためにドミニコ会系の議論も見ておきたいと思って入手してみたのが、カルラ・ディ・マルティーノ『部分的理性 – アヴィセンナからトマス・アクィナスまでの内部感覚説』(Carla di Martino, “Ratio particularis – Doctrines des sens internes d’Avicenne à Thomas d’Aquin”, Vrin, 2008)。内部感覚というか、知覚全般についてのアリストテレスの議論を、アヴィセンナ、アヴェロエス、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナスがどう受容しどう変奏したのかを割と細かく、手堅くまとめ上げた一冊。目を惹くような斬新な議論こそないものの、実に堅実な筆運びで(博士論文がベースだとか)四人それぞれの論点の違いや微細な差異を描き出している。特に各人の著作別の記述的変化(前二者については医学系の著作なども含めて)にも目配せがされていて好印象だ。全体としてはいろいろ勉強になる。

前半は四人それぞれの知覚論のまとめ。後半はテーマ別に四人の議論を対照してみせるという構成。アラブ系の前二者で特に特徴的なのは、動物と人間の感覚受容の差異を際だたせている点だといい、アヴィセンナはそれを機能的(能力的)な違いとし、アヴェロエスは構造的な違いに帰着させているという。総じてアラブ系の論者たちは、感覚的魂が単なる感覚にとどまらず、その先、つまり理性的魂に一部準じた機能まで拡大されていると考えているという。一方、ラテン中世に属する後者二人の場合は、感覚受容をめぐるアウグスティヌス的な伝統がすでにしてあり、これとアラブ経由の思想とをどう摺り合わせるかが各人の違いを生む継起にもなっているらしい。彼らもアラブ系の論者たちと同様に、動物と人間の感覚受容の差異に注目し、狭義の感覚にとどまらない意図などの認識能力・判別力が人間と動物とでは異なっているという立場を取る。表題の「ratio particularis」は、アヴェロエスの『魂論大注解』からトマスが取り込んでいる用語。著者は特に、トマスがアヴェロエスの議論を意外に重く見ていることを文献的に示そうとしている。このあたりはなかなか興味深いところ。ちなみに同書、書籍としては200ページ足らずで、扱っている領域や論者も狭いことから、読者としては少しもったいない感じもしなくもない。こうした詳細な議論は、ぜひともドミニコ会系のほかの論者たちとかにまで拡張していってほしいところ。今後の著作にも期待……。