「医療史・医療占星術」カテゴリーアーカイブ

医学と錬金術 2

引き続き『中世の錬金術と医学』からメモ。ミケラ・ペレイラ「偽ルルス『遺言』における、完全なる医師としての錬金術師」(Michela Pereira, L’Alchimista come medico perfetto nel Testamentum Pseudolulliano, pp.77-108)はなかなか読み応えがある一編。いろいろなディテールが興味深いのだけれど、とりあえず大枠だけ見れば次のような話がメイン。14世紀前半ごろに成立したとされる『遺言』(Testamentum)(かつてはルルスに帰されていた)は、偽ゲーベル(実はタラントのパウルス)の『完徳大全』以来の技術・操作的な体系化を引き継いでいるものの、その錬金術観は医学との関係において大きな変化を遂げているのだという。そもそも西欧の中世盛期において錬金術の医学との関係性が大きく動いた契機の一つは、やはりロジャー・ベーコンによる長寿の探求だった。ベーコンが長寿のために求めたという錬金術的な霊薬(エリクシール)は『遺言』でも人体に利く薬として理解されていて、その意味では、錬金術と医学が取り結ぶ関係はアナロジーの域にもはやとどまってはいなかった。とはいえ有機体の錬金術と金属の錬金術の区別は保持されていて(この点は、同書所収のA.P.バリャーニ「ロジャー・ベーコンと長寿の錬金術、文献的考察」に詳しい)、錬金術の概念そのものが変容していたわけではなかった。しかしながら『遺言』で示される錬金術観では、金属と有機体の区別はあいまいになり、もはや金属を完成(治癒)へと導くという狭義の錬金術の枠組みや、錬金術は自然と協働するものといったメタファーにとどまることなく、ある種の完全な医学を標榜するようになっていく……。

14世紀のそうした変化には、たとえば蒸留といった錬金術的手法が、13世紀後半ごろ医師たち(外科医を含む)の間にまで拡がった背景があるらしい(これについては、やはり同書所収のマイケル・R・マクヴォー「テオドリクス・ボルゴニーニ『外科医術』における錬金術」という論考が興味深い)。彼らのそうした手法の援用に対して、錬金術側からはある種の批判が起こり、錬金術師たちは自分らの技こそがより優れた効能の薬を生み出せるのだとの自負を抱くようになった。そうした文脈の中で、たとえば例のエリクシールなどもその意味づけが変わっていき、ときには「飲用の金(aurum potabilis)」「命の水(aqua vitae)」「根源的湿度(humidum radicalis)」などの諸概念と結びつくようになり、当時の自然学的な発生論も絡む大きなテーマ系を成すようになる。なるほど、ここにもまた実用的技術から脱して理論的知に向かおうとする錬金術師らの動き(というか確執ですな、むしろ)が垣間見られるということかしら。

wikipedia (en)から、ルルスの錬金術書(16世紀初頭のものらしい)からの挿絵

医学と錬金術 1

論集『中世の錬金術と医学』(Alchimia e medicina nel Medioevo, a cura di C. Crisciani et A.P.Bagliani, Sismel/Edizioni del Galluzzo, 2003)を読み始める。西欧中世あたりには錬金術も医学も共通の知的基盤をもっていて、ある意味両者は地続きの関係にあったとされるけれど、とはいえ学問分類上、両者は明暗を分けることにもなった。このあたりの諸事情が、様々な論考を通じて浮かび上がってくる……のかな、などと期待しているところ(笑)。これも少しメモを取りながら見ていきたい。というわけで、まずは(錬金術の伝播の経路に合わせて?)ギリシア文化圏についての論考から。ベルニーチェ・カヴァッラ「ビザンツ文献における錬金術と医学」(Bernice Cavarra, Alchimia e medicina nei testi Bizantini)は、まさに古代末期からの哲学・医学・錬金術の分類をめぐる論考。ビザンツ世界では古代からの区別を受け継ぎ、理論の学(哲学)に対して実践の学(医学)は一段下に位置づけられていたわけだけれど、錬金術をその中間に「実践的哲学」として位置づけようとした人々がいた。たとえばパノポリスのゾシモス(4世紀ごろ)とか、アレクサンドリアのステファノス(6世紀から7世紀)など。はるか後世のプセロス(11世紀)ともなると、医学がむしろ理論知に位置づけられるようになり、錬金術はそこに部分的に収斂しつつ(神秘的な要素が減じ、物質的変容なども自然に属する現象として扱われる)も実践知として従属するといった微妙な関係になっていくらしいのだけれど、ステファノスあたりにあっては、人間と鉱物などがアナロジーで結びつけられ、医学と錬金術はともに「それぞれの治癒(つまりは完成)を目指す」点で同レベルの実践知と位置づけられていたという。うーむ、ステファノスもなかなか面白そうだ。

パオラ・カルージ「哲学者と水夫−−自然から見たイスラム錬金術と医学」(Paola Carusi, Il filosofo e il marinaio. Alchimia islamica e medicina alle prese con la natura)もある意味、上の論考を補佐する内容。もちろんこちらはイスラム世界での錬金術の位置づけなのだが、これが上のビザンツでの位置づけに呼応しているらしいことがわかる。論考は、医学が理論知であるとはいっても、個別事例の集成である点をもって純粋な理論知である哲学とは異なることを、アヴィセンナの文書をもとに示し、次いで錬金術が、医学とも哲学とも一定の共有関係をもちつつ、両者の中間に位置づけられる(金属に対して医師のように接し、哲学の理論をそこに応用しようとする)ことを詳述している。

土食(症)の略史

「土食」についての小論を読んでみた。ヴォイヴォット&キス「ゲオファギア:土食症の歴史」(A. Woywodt & A.Kiss, Geophagia: the history of earth-eating, JRSM, vol.95(3), 2002)というもの。読んで字のごとく土を食べるということなのだけれど、これは習慣としては現代世界でも南アフリカなどに見られるといい、人類学的にはかなり広範に世界各地で見られる現象なのだそうだ。アジアでも飢饉のときに土粥が食べられていたなんて話もあるし。ただ、この食文化的なものは別に(?)病理的な場合の土食症なるものがあり、妊婦が土を食くような事例(鉄分の不足を補うため、などと説明される)があるのだそうだ(うーむ、でもこの論考ではそれら両者を分けずに扱っているのだけれど、それでいいのかしら?)。

当然ながら西欧でも古来から文献に記載があるといい、この小論によるとヒポクラテスが妊婦の土食症に言及し、ローマのアウルス・コルネリウス・ケルススも『医学論』で、顔色の悪い一部の人々が土食者である可能性を指摘しているという。プリニウスも赤粘土を含む粥が、薬として食されていたことを記している。6世紀のアミダのアエティウスも、ビザンツでの妊婦の土食症について書いているという。中世になるとこうした記述はあまりないというが、イブン・シーナー(アヴィセンナ)などは若い男性の土食症の治療には、監禁しておくのがよいとしているらしい(おいおい)。西欧では、数少ない文献の一つとして、サレルノのトロトゥラ(11世紀に活躍した女医)のものが残っているという。出産前のケアの一環として、土食症への対応方法(土を欲しがったら砂糖で煮た豆を与えよ)を記しているらしい。

16世紀から17世紀にかけては、土食症は別の病気、萎黄病(chlorosis)なる良性貧血症の症状として観察されるようになるのだという。そういった方向は19世紀まで続き、一方で南アフリカでの土食の習慣など(フンボルトによるオトマコ族の話など)、民族学的・人類学的な報告も増えていく。症状か慣習かはともかく、それらの原因も複合的とされ、この論考では一種の「退行現象」的なものではないかとの指摘も。

wikipedia(en)より、サレルノのトロトゥラ。12〜13世紀ごろの写本から。

ルネサンス期の新しい治療法

先日(7日)の立教でのシンポジウム(「人知の営みを歴史に記す」)。午前中の二つの発表を聞いただけ(スカリゲルを扱った坂本邦暢氏のものと、フェルネル、シェキウス、ゼンネルトを取り上げたヒロ・ヒライ氏のもの)だし、ちょっと日にちも経ってしまったこともあり、細かな感想などは割愛するけれど(苦笑)、いずれにしても霊魂論あるいは発生論のような限定的な話題ながら、ルネサンス期の医学史の面白さは十分に伝えられていたように思う。もとより霊魂論や発生論は、天空論などコスモロジーをはじめ自然学全般の議論と深く関わるという意味で、なかなか壮大な見取り図が描ける面白いテーマではある。でも個人的には、医学史の別の領域とか、あるいはより実践的な側面などにもいっそうの興味が湧いてきた。そんなわけで、ここでやっているようなネットに転がっている文献の拾い読みも、少し範囲を拡大していこうかなとも思う次第。ルネサンスもやっぱ面白いよなあ。

ということで、今回はスタータ・ノートン「ルネサンス期の実験的治療法」というアーティクル(Stata Norton, Experimental Therapeutics in the Renaissance, Journal of Pharmacology and Experimental Therapeutics, vol. 304(2), 2003)(PDF はこちら)を取り上げよう。古典的文献を権威として仰ぐ一方で、観察的見地からそうした権威的記述の一部を修正していこうとする動きは、医療や薬学の分野ですでに中世盛期ごろから見られることはすでに何度か見てきているけれど、ルネサンス期にはそれがさらに実験による検証作業にまでいたるらしい。実際、同論考でも触れているように、パルケルススなどがその医療化学(iatrochemistry)において、一種の実験的検証に手を染めていたという話は有名だ(要するに錬金術師らによる応用化学としての製剤調合)。彼などはガレノス流の説明や薬草学的伝統に異義を唱えていたというのだけれど、その一方で、いわばもっと無名な医療行為者たちも、薬草治療のほかに合成・抽出した化学薬品(硫酸とか)なども使い始めていたらしいということで、同論文はヒエロニムス隠修士団(イタリアで1350年頃に成立し、医療行為に従事した隠修士団で、17世紀まで続く)を取り上げている。具体的には、ジョバンニ・アンドレア修道士なる人物が1562年にルッカで編纂した写本(400ページにわたって各種治療法が記されているという)を紹介しているのだけれど、そこにはやはり、伝統的な見識と当時の最新の知見との混在が見られるといい、とくにその新しい治療法の評価方法では、統計学的なものではないにせよ、因果関係を特定する上でそれなりに理に適った方法(と後世で認められるもの、具体的には再現性、関連性の強さ、特異性、時間的相関、傾度、蓋然性、証拠の無矛盾性、アナロジーによる推論など)が用いられているという。実験そのものによる検証も用いられ始めているというが、このあたり、例示されているものに関しては、現代的基準からするとなかなか素朴な(?)記述だったりもする。ま、それはそれで興味深いものではあるのだけれど(笑)。

自然的医療と超自然的見識

西欧中世の修道院で綿々と営まれてきたという医療行為。それは自然学的な原因と治療法の知識にもとづく実践的なものだったらしいというのだけれど(たとえ食餌療法など)、一方で病気や治療が神の決定に属しているというスピリチャルな(超自然的な)見識も支配的だった。となると、両者の摺り合わせがどう行われていたのかという疑問が出てくる。で、そのあたりについて検討を加えた小論がこれ。ベンジャミン・C・シルバーマン「修道院医療:自然学とスピリチャルヒーリングのユニークな二元性」(Benjamin C. Silverman, Monastic medicine: a unique dualism between natural science and spiritual healing, Hopkins Undergraduate Research Journal, No.1, 2002)というもの。これによると、修道僧たちは、自然学的な医療もまた超自然的なベースの上にあると考えていたという。物質世界は神が人間の利用のために作ったものであり、自然学的な医療の効果ももとをただせば神の意志にもとづいている……特に初期教父の文献にそうした見識が見いだせるのだといい、同論文ではアレクサンドリアのクレメンス(「医療によって得られた健康は、人の協力ばかりか神の摂理をも起源ととしている」)、ヨハネス・クリソストモス(「医者と医療をもたらしたのは神」)、アウグスティヌス(「人体に適用される医療は、神がその効力を与えるのでなければ役に立たない」)、バシレイオス(「医術を拒絶するのでもなく、さりとて全幅の信頼を寄せるのでもなく、理性が許すなら医者を呼ぶが、かといって神への願いを忘れてはならない」云々)などを引いている。こうして、自然学的な医療と超自然的な見識とは共存することになったのだ、と。

6世紀ごろから12世紀まで、各地の修道院では様々な専門的・準専門的医師たちが活躍することになるのだけれど、とりわけ後期になると、修道院を離れて俗世で営利的な医療行為に及ぶ者が増えていき、教会側は聖職者によるそうした医療行為への取り締まりの目を光らせるようになる。自然学的な医療行為が異教起源であることさえ問題にされるようになっていくらしい。1130年のクレルモン公会議では営利目的での医療研究が禁じられ、1163年のトゥールの公会議では、聖職者が2ヶ月以上修道院を離れることが禁じられ、また医療の実践や教育も禁じられるという。もっとも、この点は文献が曖昧らしく、実は全面的な禁止ではなかったとする解釈もあるらしい。ただ、禁止措置が実際にどう影響したのかははっきりとはわかっていないようだ(このあたりは、1277年のタンピエの禁令の解釈などとも重なって、歴史の難しさをまたしても感じさせる)。とはいえ、中世末期に修道院の医者や施療院がドラスティックに減少したのは事実らしく、自然学的医療と超自然的な見識との共生は崩れていくほかなかったという(もちろんそれは、近代的な医学へと道を開く一つの要因になるわけだろうけれど)。

↓wikipedia(de)より、中世の瀉血の挿絵(詳細不明)