『迷える者への道案内』など、神学的・哲学的議論がともすれば目につくマイモニデスだが、実は医者としても活躍している。で、そのマイモニデスの医学書について取り上げた小論というか小アーティクル(一種の紹介文かな)を読む。フレッド・ロスナー「中世の卓越した医師、モーゼス・マイモニデスの生涯」(Fred Rosner, The Life of Moses Maimonides, a Prominent Medieval Physician, Einstein Quarterly Journal of Biology and Medicine, Vol.19, 2002)というもの。マイモニデスも相当波乱に満ちた生涯を送っている。迫害を逃れてフォスタット(カイロ)に渡ったところで父親や兄弟を失い、そこで生計を立てるために医者を稼業して始める。その後サラディンが十字軍との戦争で留守にしていたヴィジエ・アル・ファディルの宮廷医として指名され、やがてその名はエジプト内外に広く知られるようになり、サラディン亡き後もその息子に仕えた。医学教育をどこで受けたかなどはほとんどわかっていないというものの、著作にはヒポクラテス、ガレノス、アリストテレス、ラーゼス、アル・ファラービー、イブン・ズフル(12世紀のセビリャの医者)などが頻繁に引用されているという。
15・16世紀の中世チェコの医学書をもとに当時の診断について特徴をまとめた英語のごく短い論考を読む。ダヴィド・トミチェク「中世後期の文献に見る診断」というもの(David Tomicek, Diagnostics in Late Medieval Sources, Prague Medical Report, Vol. 110 No. 2, 2009, p. 120–127)(PDFはこちら)。中世のチェコとはまた、なかなかエキセントリック。ほとんど馴染みがないだけになにやら新鮮だ(苦笑)。最初のところで西欧中世の病気の定義についてのまとめがあり、15・16世紀にまで受け継がれたその特徴として、病気を四体液のアンバランスで捉えようとするガレノスの理論と、病気を超自然の介入によるものとする宗教的な概念とが挙げられている。さらには民衆レベルでの病気の擬人化なども指摘されている。それに続き、論考のメインの主題であるチェコの15世紀の写本、16世紀の印刷本の解説が展開する……というかこれは単に紹介どまりという感じで少し物足りない気も。気になる記述としては、論考の主眼点でもある次の二点が挙げられる。つまり、当時はとりわけ尿の検査と脈をはかることが重要視されていたということと、診断が個別的な病気を特定するという方向よりも、むしろはっきりとした徴候に乏しい健康そのものの問題領域に関わろうとしてたこと(たとえば発熱があった場合に、それを見てどの種類の発熱かを問うのではなく、熱っぽい状態そのものが症状として問題にされた云々)だ。この後者の点には、病気と健康を相補的な二極として見るガレノスの影響が色濃く出ている感じがする。
次に取り上げられるのは占星術師たちの社会動向。15世紀末にシモン・ド・ファールという占星術師が著した『著名占星術師文選(Recueil des plus celebres astrologues)』を紹介している。この書は、占い師が糾弾される歴史的局面にあってその擁護のために書かれたものだという。取り上げられている占星術師たちにおいて顕著なのは、「個人占星術(astrologie judiciaire)」(社会とかの大枠を占うのではなく、個人のいわゆる星占いだ)の術師たちが増加していること。そうした術師たちの多くは、聖職に就こうとしてなんらかの理由で就けなかった人々だという。医者と兼業している人々も多く含まれているものの、多くは凡庸な医者ということらしい。アーバノのピエトロなどの見解とはうらはらに、医療と占星術は実践レベルでは必ずしも結びついていたとはいえないようだという。うーむ、なるほど。やはり複雑な計算を要するホロスコープ占星術はエリートのもの、しかも主に中間層的な(?)エリートに担われていたということのようで、確かに社会的に広範に拡がりはしても(とくにイタリアなどで)、実際のところより手軽に巷でもてはやされていたのは、むしろ初期中世に流布していた月の運行ベースの占星術だったりするのだとか(とくにイングランドで)……。
本文はこのあと、ホロスコープ占星術の基本についての話が、セビリャのヨハネス訳によるアルカビティウス『入門の書』の内容をもとにまとめてあり、さらにマルセイユのレイモンによる占星術擁護の議論、ホロスコープ占星術の実例などが続く。チャートを用いる占星術は、扱う要素が多様になるため、術師の自由裁量の幅が意外に大きいのだそうな。また、現存する中世のホロスコープが少ないのは、難しいせいで一部の知識人しか扱えなかったためだろうという。なるほどね。確かに複雑とうか面倒そうだ(苦笑)。13世紀ごろの革新で最も顕著なのは医療占星術で、グイエルムス・アングリクス『見えない尿について(De urina non visa)』のように尿検査を占星術的に扱った著作のほか、メルベケのギヨームやアーバノのピエトロなどによる偽ヒポクラテス『天文学(Astronomia)』の各種ラテン語訳などが出ているという。
またまた『コンスタンティヌス・アフリカヌスとアリー・イブン・アラッバース・アルマグージー』からのメモ。ジェリット・ボスの論考(Gerrit Bos, Ibn Al-Gazzar’s Risala fin-nisyan and Constantine’s Liber de Oblivione, pp.203-232)は、イブン・アビー・カーリッド・アル・ガッザールというチュニジアはケルアン出身の医学書(10世紀)のうち、『リサーラ・フィー・ンニシアン(健忘症論)』の内容を紹介し、そのラテン語訳者がコンスタンティヌス・アフリカヌスだった可能性を検証するという小論。この『健忘症論』の内容紹介がなかなか面白い。第一部は理論的な原因特定編。まず、脳を三つないし四つの脳室に分けるという見解が出てくる。脳室自体はヘロフィロス(BC4世紀ごろ)に由来する概念だそうで、ポシドニオス(1世紀)あたりから魂の働きをいずれかの脳室に特定するようになったという。ガレノスあたりからすでに、記憶に関する機能は、後部の脳室にまでいたる精神的プネウマが担っているとされ、精神的プネウマの中継役は小脳虫部だとされていた。こうしたガレノスの見解は、アラブ世界の当時の医師たちがすべからく採用していたといい(西欧でもそれは中世まで受け継がれるわけだけれど)、イブン・アル・ガッザールもやはりガレノス説に立脚し、健忘症の原因を冷・湿の粘液に見ている。つまり、その冷たく湿った粘液が過剰に後部の脳室を満たすことによって病気が生じるというわけだ。で、第二部では、原因と対照をなす処置を施すという原則に則り、とくに「温」を活用した処方を列挙していく……。