ここでついでながら、最近見たイアンブリコスの数学論の参考文献を挙げておく。クラウディア・マッジ「イアンブリコスの数学的実体論」(Claudia Maggi, Iambrichus on Mathematical Entities, in Iambrichus and the Foundations of Late Platonism, ed. E. Afonasin et al., Brill, 2012 )という論考で、総合的にイアンブリコスとその周辺を読み込んでいる労作。いくつかのポイントが整理されているが、そのうちの一つ(同論考の第四節)によると、すべてが一者からの発出であると考えるプロティノスに対して、イアンブリコスは一のほかに二(多をもたらす)をも原理に含め、二元論的な考え方へと戻っているのだという。
イアンブリコスの『共通数学について』(De commvni mathematica scientia liber; ad fidem codicis Florentini edidit Nicolavs Festa, Lipsiae, 1891)を読み始めたところ。このarchive.orgのものは少し乱丁があるけれど、まあそれはご愛敬。まだほんのさわりの部分を読んだだけだけれど、数学の特殊な抽象性についてわりと突っ込んだ話が展開していて興味深い。プロクロスの議論と同じように、数学的な対象、すなわち数というものは、感覚対象(種)と知解対象(類)の中間にある抽象的な対象として扱われる(II章)のだけれど、それは感覚から分析的に析出されるものなどではなく、鷲づかみのごとく一気に、いわば直接的・直観的に捉えられるものと見なされている(VI章)。たとえば「一」と「他(複数性)」などの対立物は、一方を捉えることで、そこに他方が現前していなくても捉えられる。こうしたことは対立物一般について言え、たとえばモノの大小なども、感覚から抽象されるのではなく、感覚に先だって把握される。で、その起源を探ろうとすればそれは魂そのものに帰結する、と。あらかじめそうした対立物を理解するための仕組みが、そこに備わっているということのようだ。ここでのテーマは数学なので、イアンブリコスはその魂の機能そのものには立ち入っていかないようなのだけれど、少なくとも数学的対象は、そうしたアプリオリな理解に関係しているようだ、というわけだ。
ルクレツィア・イリス・マルトーネ『イアンブリコス「魂について」—断章、教義』(Lucretia Iris Martone, Giamblico. «De anima». I frammenti, la dottrina, Pisa University Press, 2014)を読んでいるところ。イアンブリコスの霊魂論の断章本文の校注・翻訳(同書の中間部分)を含む、総合的な研究書。イアンブリコスの霊魂論がドクソグラフィー的(魂をめぐる諸説を集めたもの)だという話は前から聞いているけれど、その残っている断章を見ると確かにそういう感じではある。アリストテレスの教説に対してプラトンおよびプラトン主義者の説を対置していたり、さらにはプラトン主義陣営内ので異論なども拾ってみせている。もちろんそれら以外の学派や思想家たちについても取り上げている。
前にも出たけれども、原論の注解書でプロクロスは、数学が扱う対象(より正確には幾何学が扱う対象)を感覚的与件でも純粋な知的対象でもないとして、両者の中間物、つまり想像力の対象として規定している。注解書でこれに触れている部分は、序論第一部の末尾あたりから序論第二部。現在鋭意読み進め中。で、これに関してとても参考になる論考があった。ディミトリ・ニクーリン「プロクロスにおける想像力と数学」(Dimitri Nikulin, Imagination et mathématiques ches Proclus)。所収はアラン・レルノー編『エウクレイデス「原論」第一巻へのプロクロス注解書の研究』(Études sur le commentaire de Proclus au premier livre des éléments d’Euclide, éd. Alain Lernould, Presses universitaires du Septentrion, 2010)。プロクロス注解書に関する2004年と2006年の国際会議にもとづく論集で、先の普遍数学史本の著者ラブーアンをはじめ、様々な論者が多面的にアプローチしているなかなか興味深い一冊。で、ニクーリンの論考は、なにやらわかったようなわからないような感じの「感覚的与件と知的対象の中間物」について、その諸相をプロクロスの本文に即してうまく整理してくれている。
再びプロクロス『パルメニデス注解』第二巻(Commentaire Sur Le Parménide De Platon: Livre II (Collection Des Universités De France Serie Grecque))から、短くメモ。類似と相違の話が長々と続くのは、要するにそれが、すべての存在するものがしかるべき範型に「与る」という、「参与」の問題を論じるための前段階をなしているからのようだ。類似と相違は中間的な形相としてあり、他のあらゆる形相がおのれの像を産出するために、類似と相違を必要とするという。まず、形相に与るもの(存在するもの)とは、形相に対する像であるとされ、一方の形相は範型(モデル)に位置づけられる。ではそこで像となるのはどんなものだろうか。まず知的なもの(知解対象)は像にはなりえない。なぜなら知解対象はもとより(範型から)分割できないものだから。知的なものについては原因と結果、単一と一組などとは言えても、範型と像のアナロジーで語ることはできないとされる。感覚的なもの(身体)についてなら、これは像にほかならないと言うことができる。プロクロスはここでもう一つ、知的なものと感覚的なものとの間をなすとされるものを持ち出してくる。思考的なもの(魂)だ。これもまた像であると言える。なぜかというと、魂は知性に対して、時間が永遠に対するのと同じような関係にあるからだ(プラトンによれば、時間は永遠の像をなしているのだという)。一方でそれは、永遠なるものと創造された世界との両方の一部をなす中間的な存在でもある。かくして、像ではない知解対象、像でしかない身体(感覚的なもの)、像と範型とにまたがる魂という三分割の構造が示される。類似と相違が中間的な形相だという話もそうだけれど、プロクロスはこの中間部分の議論がとても特徴的な感じだ。この後、話は本題の「参与」へと進む。要は、範型と像の間には様々な強度の違いがあり、範型に与る度合いの大小に応じて、各々が類似と相違を体現するのだ、とされる(以上、742-16から747-38)。