仏ヴラン社から出ている学会誌『カイエ・フィロゾフィック』2017年第4四半期No.151(Aperçus de la pensée stoicienne (Cahiers Philosophiques), J. Vrin, 2018)を見てみた。特集が「ストア思想の概要」。二つほど、個人的関心にかかわるものについてメモしておく。まずはレティティア・モンテイユ=レング「古代ストア派における同一性と強度」。ストア派の霊魂論は、魂をプネウマから成る物体、外部との絶えざる相互作用に置かれたものとして扱い、異なるレベルの組織化がなされうるものと見なす。一方で魂の揺るぎなさの度合いに応じて、モラル的な一貫性も増すと考えられており、その基準はどこに設定されているのか、という問題を問い直すのがこの論考の主旨。魂は動的なものであるため様々に変化しうるけれども、主に四つのレベルでの組織化が施され、安定化するとされる。心理学的なパースペクティブ(霊魂論ではあるけれど)と倫理とが、ストア派においては地続きに捉えられているらしいところがとても興味深い。物質論的モラルの可能性か。
前に紹介したヒポクラテスの『空気、水、場所について』は、少し前に一通り読了(Hippocrates’ on Airs, Waters, and Places and the Hippocratic Oath)。そこではまさしく環境が人体に影響を与え、健康・不健康の原因となるばかりか、民族の諸特徴までも作り上げるという仮設が雄弁に語られている。たとえばヨーロッパ人とアジア人(小アジア)の違い(16節)。アジアに住む人々は好戦的ではなく、剛健さもなくて穏やかだが、それは季節の変化の差が大きくなく、寒暖がゆるやかで、心的に乱されることが少なく身体的にも変化への対応が小さくてすむからだ、みたいなことが記されている。そういう季節的な激しい変化に晒されるほど、ワイルドな心性や勇壮さが培われる、とされている。またそうした気質の差は、統治形態の差をももたらす、とも。アジアの人々は法による統治、王政の一極支配が適するとされ、戦闘的な民はむしろ自治に適している云々。また、そうした環境要因説に即して語られるスキタイ人についての記述も面白い(17節〜22節)。遊牧民である一部のスキタイ人は、季節が激しく変化しない環境の場合、全体として肉付きがよくなり、瑞々しくなり、下ぶくれのようにもなる。ゆえに武器の使用には向かず、男たちはときに馬にも乗れないほどにもなる云々。さらに彼らが黄褐色なのは寒さのせいだともされる。また肉付きがよくて水分を多く含み、身体が柔らかく冷たいがために、性行動も活発ではなく子だくさんにはならず、また馬上生活は股関節に影響を与え関節炎をもたらしたりもし、そうした各種の要因が相まって生殖力の低下をもたらしている云々。このように全体的に環境要因説がこれでもかという具合に前面に出てくる。これはとても興味深いところだ。
続いて今度は、ヒポクラテスの『診断』(προγωστικόν)を希仏対訳の校注本(Hippocrate: Pronostic (Collection des universités de France Serie grecque), trad. Jacques Jouanna, Les Belles Lettres, 2013)で読み始めている。こちらはより実利的な診断のポイントを、おそらくは医学生向けに列挙したもの。目視が重要とされ、とくに徴候から病が軽微なのか重篤なのか判断することに重点が置かれている。どのような症状が生死を分けるのかというのが、重大な関心事になっていることがわかる。死ぬか生きるかの判断は、当時の切実な問題だったのだろうと伺い知れる。まだ前半だけだが、取り上げられるテーマは章ごとに、顔色、褥瘡、手足の動き、息、汗、肋下部、水腫、局部の温度、眠り、排泄物、尿、吐瀉物などなど。同書についても、できれば後でまとめてメモしよう。
ガレノスの著書から、通常の医学ものではないものを読んでみた。『嘆かないことについて』(Περὶ Ἀλυπησίας )という一篇。底本はレ・ベル・レットル刊の希仏対訳ガレノス全集の第4巻(Galien, Oeuvres complètes: Ne pas se chagriner (Collection des universités de France), trad. V. Boudon-Millot et J. Jouanna, Les Belles Lettres, 2010)。おそらくは旧友と思われる人物に宛てた書簡の体裁で書かれた、心の平静を保ち続けるための道徳論だ。旧友から、ローマの火災(解説によると192年にあった大火らしい)で自著の医学書・薬学書のほか、貴重な書が多数失われたというのに、なぜそんなに嘆かずにいられるのかと問われたガレノスが、おのれの人生観を語り出す。自分が事足れりと思えるだけの財さえあればそれでいい、というのがその核心部分なのだが、そういう信条を抱くようになるには受けた教育が大きいと言い、すこしばかり教育論的でもある。前半は失われた書の数々を振り返ってみせ、どこか自慢げなのかと思いきや、後半はそういうわけで過剰な欲を抱かない生き方を、どこか穏やかに推奨してみせる。ガレノスの希文はちょっと凝っているのか読みにくいので、辞書引きその他で時間がかかるけれど、なにかこの文体からも、飄々とした孤高の学者という風情が湧き出てくるような気がして好感がもてる。校注者ら(V. ブードン=ミヨー、J.ジュアンナ)が巻頭に載せている序文によれば、この文章はガレノスの生涯やその書物の収集などについても貴重な資料となっているのだという。