「人為(技術)・記憶・媒介学」カテゴリーアーカイブ

支持体とか技法とか(レンブラント展)

昨日だけれど、なかなか時間が見つからずに先延ばしにしてきた「レンブラント – 光の探求/闇の誘惑」展にようやく足を運べた。今回の展示で興味深いのは、なんといっても版画が主体だということ。しかも単に有名作品を漫然と並べるのではなく、レンブラント(や同時代人たち)が駆使していた技法(エッチング、ドライポイント、ビュラン(エングレーヴィング))の効果の違いや、あるいは使用する支持体(通常の版画紙、羊皮紙、和紙)の違いがとてもよくわかるという、とても面白い展示になっている。こちらの解説ページにそうした技法や支持体の解説があるけれど、和紙とヴェラムに刷った場合に、インクのしみ込み具合が通常の西洋紙(当時はボロ布で作られてた)よりもいい感じになっている。ヴェラムと和紙の間はそれほど大きな差はない気がするのだけれど、和紙が多用されているということはヴェラムよりもそちらが多少とも廉価だったのだろうか。確認できていないけれど、ちょっとそのあたりが気になるところ。また、エッチング、ドライポイント、エングレーヴィングの差については、たとえばこちらのrembrandtpainting.netのetchingのページに解説があって、例が挙げられている。展示では、後から手が加わったものと、それ以前のものとの比較などもあり、媒体の違いと併せて作品を「過程」として見せるという感じの主旨らしく、いままでにあまりなかったような印象を抱かせる。こうなってくると、関連する論文などを読んでみたくなってくる。レンブラントあたりともなると、いろいろと書籍や論文も出ているみたいだけれど、一方で技法や支持体からの研究というのはそれほど多くはなさそうな印象。たとえばざっと検索して出てくる「計算インテリジェンスの支援によるレンブラントのエッチングの年代特定と鑑定」(“Dating and authentication of Rembrandt’s etchings with the help of computational intelligence”, Cultural Heritage and Technologies in the Third Millennium (ichim01), Vol. 2 (September 2001), pp. 485-492. →PDF )なんて論考(というか作業報告)では、年代特定と真偽判断に、紙の組成からのアプローチを採用している。そんなわけで16、17世紀のヨーロッパでの製紙法の概要にも触れていたりする。うーん、これはこれで参考になるけれど、でもどちらかといえば、物質的な面からのアプローチを絡めつつ展開する美学系・芸術論系の話を読みたい気がするのだけれど(笑)。

↓wikipedia (en)より、今回の展示にもあった「三本の十字架」

ハイデガーのモデル

ハイデガーの技術論ということで、『技術への問い』(関口浩訳、平凡社、2009)から表題の講演を読んでみる。技術の本質について考察したハイデガーの代表的技術論だ。ハイデガーは自然を伏蔵性(Verborgenheit)から不伏蔵性へといたらしめることを「開蔵」(entbergen)と称し、これを人間が自然に向ける基本姿勢と見なす。どうやらこれは、自然の諸側面になにがしかの有益性を見出すというプロセスのことらしい。そして人間は自然の側からの「挑発」でもって、そうした開蔵を促される。なるほど、ここには相互関係があるというわけだ。で、技術はその開蔵の「ひとつのしかた」なのだという。自然はかくして人間にとっては<使えるもの>(「用象」(Bestand)という用語が当てられている)としてアフォードされ、認識される。ややこしいのは、この場合の自然、つまり<使えるもの>には人間もまた含まれてしまうということ。つまり現実的なものはすべて「用象」になってしまう。この「挑発」の構造を支えるものは何か。それがあの有名な立て組み(Gestell:同書では集-立と訳出されている)という構造だということになる。人は外的な関係の構造上、立てて組まずにはいられない、集めて立てずにはいられない、と。

ハイデガーはこの後、立て組みにもとづくこの技術という開蔵のしかたが、一つの命運として生きるしかなく、不伏蔵的なものの本質(たとえば、そのものとしての自然とか)にアクセスする可能性は閉ざされてしまうとし、人間には不伏蔵的なものを見誤る危険がつきまということを指摘する。別の開蔵のしかたはあらかじめ閉ざされているというわけか。ひとたび用象となってしまえば、対象として捉えること(つまりは本質的に理解する)はできなくなる、つまり人はもはやモノ(他の人も含めて)を使えるかどうか、どうすれば使えるようになるかでしか見なくなる……。なにやらすべてがエコノミーだ、エコノミーがすべてだとか乱暴なことをぬかすような経済学者を連想してしまう(笑)。人間を取り巻くすべてを用象にしてしまえば、結局はあらゆるものがインフレ的に一元化し脆弱にならざるをえない、ということなのだろう。

ではどうするのか。ハイデガーはここでいきなり反転的な楽観論を語り出す。危険のあるところには救うものもまた育つというのだ(出典はヘルダーリンだという)。集-立が技術を本質的に支える構造であるとするなら、そこに、本質が別の形で姿を現す可能性もあるのではないか、集-立そのものから「叶えるもの」(本質=真理の語源的解釈から出される用語だが……)という開蔵の固有性(本質)も出来するのではないか、というのだ。両者はちょうど表裏一体のような関係にあるとされているのだが、このモデルはどうなのか……。ハイデガーは、そうした裏側の本質的部分の出来を見据え、ささやかにその成長を見守るしかない、といったことを考えているようなのだが、その希望の道筋はあまりにもか弱い。この危険と希望のあまりの落差(とされを平然と語るハイデガーの淡々とした口調)にはちょっと面食らう。というか閉口してしまう。すべてが一元化し猛威を奮うような世界にあって、そのような希望もまた呑み込まれてしまわない保証はどこにもないのではないか。ハイデガー自身も「技術時代には危険は示されるのではなく、むしろなお伏蔵されるのであるが」と留保をつけているではないか。別様の開蔵の可能性は、ただlaisser-faireにまかせておいていいのか、そこにもまたなんらかのプログラムが必要なのではないか。そんなことを改めて強く思う週末読書だ……。

再び技術と主体

このところ、アーサー・クローカー『技術への意志とニヒリズムの文化』(伊藤茂訳、NTT出版)を読んでいる。基本的にはIT技術というか、サイバースペース的な話なのだけれど、原発などの近代技術全般を絡めて考えてみるともっと息の長い議論になりそうな気がする。というのも、これが扱っているのはハイデガーの立て組み概念の読み直しということだから。この著者によると、立て組みという概念は、外的なものを人間が「常備在庫」に仕立てるよう、存在そのものが呼びかける衝動だという。常備在庫(この用語が興味深い)化は、つまりは外的な対象物を「開発・変形・蓄積・配分・転換」するということであり、その(半ば自動的な?)サイクルに、人間の身体・自然(本性?)がそのエネルギーも含めてすべて注がれることになり、その結果何が起きるかというと、マルクスが半ばスルーしニーチェが別様に問題化したような人間主体の虚無化が促される、と。著者はこれをITっぽく「ヴァーチャル化」としているけれど、それは自動的なサイクルに巻き込まれることで主体そのものの関わりが希薄化・希釈化していくプロセスということになる。技術的な存在としての人間は、最終的に「純粋空間の中に姿を消してしまう」(p.86)ということになるらしい。著者いわく、それを予言したことがハイデガーの功績なのだ、と。外的対象を常備在庫に変えるという力学を支えているのは意志であり、上の半ば自動的なサイクルの中で、ひたすら意志を志向する「意志への意志」となってしまい、やがては対象すらともなわない意志が空虚に回りつづけるだけになってしまう……。

著者はこれをネットワークの時代の主体問題と見、現代がその新たな転換点を迎えているという形で肯定的な捉え直しを模索しようとしているようだけれど、事態はそれほど軽やかには進みそうにもない気がする。サイバー文化(デジタルアートなど)がどうこう言う前に、ハイデガーの問題系のもっと重苦しい部分に注目しなくてはならないのではないか、つまり、ハイデガーはその立て組みを人間の本質的な部分に絡めて論じているのではなかったかという点あたりから、再検証しなくてはならないのではないか、と。アリストテレス的な知のあり方が、人間にとってきわめて本質的なものであるのかどうか、主体の希薄化は果たして不可避的なものなのか、それともなんらかの方法で迂回できるものなのか。そうした問題を再考するために召喚できる思想がほかにないのかどうか(先の八木氏の本にあったような、パルメニデスの可能性も含めて)。「人ごとのようだ」とネットで揶揄される東電の会見の、どこか主体的虚無を部分的にせよ体現したような話し手の淡々とした表情を見るにつけ、技術と主体の問題がなにやらとても根深そうだということが改めて想起されてくる。

技術のホーリズムへ?

フランスのサルコジ大統領は3月末の来日会見で、「原発は地震は耐えたが津波にやられた。津波が問題だったのだ」と述べていた。おそらく日本側からの説明がそういうものだったのだろう。けれども、先日7日の夜の大きな余震後、この余震の影響を受けた福島以外の原発が軒並み綱渡り的な状況になったことで、問題が津波だったとは断定できなくなった。少なくとも疑問符が付いた……そう、原発はそもそも地震に耐えたのかという問いが浮上した。

原発には耐震処理がなされているという話は以前からあったように思う。問題なのは「耐震」が何を意味するかだ。なるほど、確かに建物自体が崩壊するような事態はなかった。単に家屋ならばそれで「耐震」ということで問題はないだろう。けれども、原発などなんらかの生産設備は、そもそも地震によって機能が損なわれてしまわないことを「耐震」と呼んでしかるべきなのではないか、と思われる。電源が簡単に落ちてしまうような設備を「耐震」とは言えない。そういう意味での「耐震」を基準にするなら、現時点での原発は必ずしも合格点とは言えない。構造体としてのみ捉えてしまい、機能面を加味した全体的な生産設備(それもクリティカルな)として「耐震」を考えていなかった可能性は否定できない。少し前のポストとも重なるけれど、構造体として捉えるとは、いわば一面(一点)だけをピックアップして考慮するということであり、生産設備を全体として捉えることができていないということ。リスク管理としては、もはやそうした点的な対応では不十分で、全体的・包括的な捉え方が求められる……。今の場合でいえば、「電源込み」で耐震設計をするとか、電源の取り込み口を複数化しておくとか、システム全体で「耐震」ないし「免震」を実現する……。

ではなぜ、そうした全体的思考はなかなか育まれないのか。この問題に関連についてはアンドリュー・フィーンバーグ『技術への問い』(直江清隆訳、岩波書店)が様々に示唆的だ。目的に奉仕するという意味で技術は「中立」だとする通念に対して、著者はそれが実は「自分たちの自律性を守ろうとする専門家や組織の側の一般的な防衛反応」(p.130)にすぎないと喝破する。技術が「中立」に見えてしまうのは、当該技術をめぐる以前の利害関心がデザインに内在化していくように、社会・組織と技術の体制が変化していくからだと指摘している(同)。その特殊な一例としてあげられているのが、まさに原子力の事例だ。アメリカでは、大衆が抱く不安・反発によって、原発が1960年代のデザインで80年代ごろまで固定されたままという事態を引き起こしたという。しかしこの場合、非合理だったのは大衆の側でもなければ、事業を推進した側でもなかった、と著者はいう。両者の再帰的な関係がそういう膠着状態を招いたというのだ。環境運動は技術の副作用を減少させようとするが、往々にして「技術プロセスから製品や人に、事前の防止から事後的な後始末に、批判の目をそらせようとする傾向が見られる」(p.137)という(なぜそうなるのかは触れていないようだが……)。一方の運営する側はこれを受けて「トレードオフを含むコストとして認識」(この技術を使わないと、その先に待ち構えているのは貧困だぞ、と)し、相手を追い詰めていく。

著者によれば、このトレードオフモデルは一種の偏向(バイアス)であり、そこで突きつけられるジレンマ(「環境的に健全な技術VS繁栄」など)の統合こそが重要だという。それが政治的なイデオロギーの対立に見えるというのは本質的問題ではなく、技術の本質からすると(シモンドンが引き合いに出されているが)、そもそも技術的発展の目標とはそうしたジレンマを避けることにあるはず、と。その上で、こうしたトレードオフではない別の価値観へのシフトを模索することが求められる、ということを著者は論じている。一例として、アメリカ政府が汽船のボイラーに課した安全規則が挙げられている。それは「人間の生命の価値と政府の責任についての非経済的な決定」(p.143)だったという。話を目下の問題に戻すならば、おそらくはもう一度、上の技術プロセスと事前の防止の方へ立ち戻ることが肝心だということになるだろう。この著者が示すようなバイアスを生む土壌すらをも見据えて……。それは当該技術を全体(関連技術や組織論も含めたまさにマクロな体制)から捉え直すというスタンスと切り離すことはできないはずだ。

不確定なものの「想定」

今回の原発事故についてよく聞かれる「想定外」という表現。以前は「想定の範囲内」なんて言葉が流行ったりもしたけれど、なにやら想定という言葉は、いつしか「有無」ではなく「範囲」を伴って使われるようになってしまっている……。ある特定の事象に思い至るかどうか、というスポット的なものではなくなり、ある特定の事象が思い至るエリア・面に入っているかどうかという、網をかけるような発想。この違いは大きい。前者の場合、その特定の事象に「思い至らなかった」、想定は「なかった」という「欠如・不在」のイメージが前面に出るのに対して、後者の場合、「一応いろいろ考えてはいたんだけれど、特定事象がそれから漏れてしまった」というニュアンスで、想定の「存在」の面が強調される。当該事象が思惟のうちに存在しなかったこと自体は同じでも、表現としてそれを取り巻く思惟に範囲を含ませることで、思惟の欠如が存在にすり替わってしまう。ここにすでに、その事象を問題として取り上げる姿勢の不誠実さがにじんでいるようにも見える。

もちろん、非常事態についてのいろいろな想定はあっただろう。けれどもそれを面のようなイメージで語るのは言葉の綾であって、こうした事故などの想定はやはりもっとスポット的・ピンポイント的なものでしかないように思える。個別の事象に思い至り、それに対応する対策を逐一構築するというのが基本であり、ある事象の想定と別の事象の想定が有機的に連動・連関しうるとは必ずしもいえない。結局、事故などの不確定なリスクについては、想定が及ぶ事象というのはもとよりきわめて限定的なものにしかならない。事故の可能性は無限にあるはずで、すべてを記述することは不可能であり、蓋然性の高いものを中心にどこかで絞り込むしかない。けれどもこのような絞り込みを伴う以上、「不確定要素を想定する」という行為自体は無数の取りこぼしを伴わざるをえない。しかしながら現実には、蓋然性の低いとされる事態も起こりえないわけではなく、そうした場合に既存の想定が応用できないことも十分ありうる。想定していたもので実効的な応用が利くとは限らないからだ。

このあたり、きわめて構造的な問題なのだが、なんだかかつていろいろ言われていた知識ベースのエキスパートシステムの話と重なってくるかのようだ。溝口理一郎「工学のオントロジー」(『環境のオントロジー』(春秋社、2008)によると、エキスパートシステムは「あまりにも直接的に解くべき問題を意識しすぎたため、他の問題を解くために、既に存在する知識ベースの一部を再利用するということが非常に困難」(p.69)だったとされる。その原因は知識ベースにおける「開発者が仮定している暗黙の前提の存在と、限られた世界の特定の問題の解決用に特化されているという二つ」(p.70)だという。知識工学はその後、「共有可能な知識ベース」「広範囲にわたる標準化された知識を多くの人の利用に供する知識ベース」(同)へと向かったという。こうして「対象世界自体の概念構造をモデル化するオントロジー」(同)が目されるようになった、と。

オントロジー(存在論)という名称がすでにして示唆的だが、要するにこれは一種の全体的なモデル化のイメージ。クラスをなんらかの形で表し(諸属性を定義づける)、インスタンスを生成して(現勢態を作る)、アクセスする(利用する)という、工学システムの設計などでソフトウエア的に使われる手法だけれど、おそらくは事故などの非常時の対応についても、エキスパートシステムからオントロジーにシフトしたのと同じような転換が求められるのではないか、という気がする。リスク対処法の抜本的な転換だ。イメージとしては、機械の場合には設計から組み上げ、運用・メンテナンスの諸段階があるわけだけれど、それらのすべてに一貫したリスク管理体制を組み込み、あるいは機械そのものにとどまらない、運用する側の組織までをもシステムの一部と見なしてリスク管理体制を構築するといったようなことが必要なのではないか、と。一例で言うならば、原発のようなリスクの高いものに事故が起きた場合に、通常運転時のスタッフとは別の、専門の訓練を積んだリスク管理部署が入れ替わって、機材その他を含めて現場を仕切るような体制を、本気で考えていく必要があるかもしれない。