「人為(技術)・記憶・媒介学」カテゴリーアーカイブ

中世の「メディア」

これも昨年末に刊行された『西洋中世研究 No.2』(西洋中世学会編、2010)。特集が「メディアと社会」ということで、早速取り寄せてみた。いやおうなしに期待も高まる(笑)。で、この特集を構成する5つの論考は、どれも期待にたがわぬ力作揃いだった。赤江雄一「中世後期の説教としるしの概念」は、14世紀のジョン・ウォールドビーという修道士の説教を題材に、説教が天と地を繋ぐ媒体としていかに機能したかを考察するというもの。とても興味深いのは、クィンティリアヌス(1世紀)の記憶術をなぞったかのような方法を、そのもとのテキストを知らぬまま(15世紀にやっと再発見されるため)活用しているという指摘。古代の記憶術の伝承が別の形であったのだろうか、とこちらの好奇心を大いに刺激してくる(笑)。木俣元一「メディアとしての「聖顔」」は、マンディリオンとかヴェロニカとかのキリストの聖顔のイメージが、13世紀のイギリス写本で展開する様を追っている。ヴェロニカ信仰がバチカンではなくイギリス側の事情で展開していったらしいことが指摘されている。聖遺物ではなく、イメージだというところがまたなんとも興味をそそる。

青谷秀紀「プロセッションと市民的信仰の世界」は、いわゆる行列もまた天と地を結ぶ媒体であった様を、南ネーデルランドを舞台に描き出している。公的なスペクタクルとして、処刑と行列の記述が併存しているという史料から、罪と贖罪というテーマが浮かび上がってくる。そしてそれは権威・権力の確立にも密接に関係している、と。伊藤亜紀「青を着る「わたし」は、14世紀末から15世紀に活躍した女性作家クリスティーヌ・ド・ピザンについての論考。挿絵に登場する本がつねに青の衣装を纏っていることから、その多様な意味を掘り起こそうとしている。土肥由美「受難劇vs.聖体祭劇」は、文字通り両者の諸特徴を比較し、そこに担われている社会的・宗教的意味を浮かび上がらせようとする試み。14世紀半ば過ぎに聖体祭行列に「演劇的所作」が持ち込まれることで成立したとされる聖体祭劇では、磔刑の描写は象徴的なものにとどまった(ホスチアとの関連が指摘されている)とか、初期の受難劇がユダヤ教に対するキリスト教の優位やメシアの正当性を表現しているとか、興味深い指摘がいろいろ続いている。

特集以外の寄稿論文はまだ読んでいないのだが、これも面白そうな題目が並んでいる。あと、巻末に40ページも費やされている新刊案内が重量・中身ともにすばらしい。今回は史学系の論考が多かったけれど、No.1がそうだったように、やはり分野混淆的にいろいろ掲載してほしいものだと思う。思想系や音楽学系とかも頑張ってほしいところ。これからも期待しているぜ>西洋中世学会(笑)。

アルベルトゥス:「予言についての問い」

予言がらみということで、少し前に入手していたアルベルトゥス・マグヌス『予言についての問い』(Alberto Magno, “Quaestio de prohetia – Visione, immaginazione e dono profetico”, a cura di Anna Rodolfi, Edizioni del Galluzzo, 2009も眺め始めている。予言の諸相についてアルベルトゥスが記した書。本文も面白そうだけれど、まずもってアンナ・ロドルフィによる序文がなかなか勉強になる。特にその前半は、予言をめぐる考察小史という感じ。スコラ学的に予言についての考察が増大するのは13世紀。とはいえそこに至るには長い前段階がある。思索の嚆矢はやはりアウグスティヌス。「ヴィジョン」の3分類(身体的、精神的、知的)に呼応して、予言もまた3分類されるというわけなのだけれど、こうした視覚を中心とする考察に対して、のちのカッシオドルスは、むしろその告知の面を重視し、予言者の資質などをめぐる考察を展開してみせる。大グレゴリウスになると、予言者とは未来を見通す人のことではなく、むしろ神的な啓示・秘儀を伝えることのできる者と定義し、こうして予言には未来だけでなく、過去や現在についての言説も含まれるようになる。

13世紀には、予言を認識論的に捉えようとする議論が出てくるという。それに影響を与えたのはアヴィセンナ。特に問題になったのは想像力という側面だという。さらに預言を神からの発出と論じるマイモニデス。こうして預言と想像力(というか像)の関連が西欧でも取り上げられるようになる。かくしてアルベルトゥス登場。彼は自然的預言と超自然的預言の差異を、哲学者と聖人の差異、つまり方法論的な違いに見出そうとするのだという。さらに夢(予知夢)と予言の違いについての論もあり、アラビア系思想が予知夢を重視し、予言とそれとはともに魂が天球の影響を受け止める二つの様態だとするのに対して、アルベルトゥスは予知夢を預言の堕落した形態として批判的に見ているという。上の二人とは違って、予言を神学にもとづいて捉えようともしていないのだとか(あくまで自然学的事象という立場?)。ふーむ、やはりアルベルトゥスはアヴィセンナなどをただ受け入れるのではなく、批判的に構えているというわけか。その具体的な有様をちょっとだけ覗いてみたいところだ。

モノ暮らしの起源

これは期待通りの一冊。キアーラ・フルゴーニ『カラー版・ヨーロッパ中世ものづくし』(高橋友子訳、岩波書店)。基本的にいろいろな「モノ」に囲まれた現代人の暮らし。その大元がもしかするとヨーロッパ中世にあるなんて話は、すでにいろいろなされているけれど、まとめて読むと改めて感慨深いものもあるなあ。メガネや本、楽譜、トランプ、チェスボード、ボタンや下着、フォークなどなど、その大筋の形が定まっていくのが中世。もちろん最初は修道院とか、財力のある富裕層で消費されるだけだったわけだけれど、私たちの生活の馴染みのモノが、はるか上流でそれがどのように使われていたのかを垣間見るとうのもなかなかの一興だ。この小著(もっと大部の本かと思っていた)、類書もないわけではないけれど、同書は記述も細かくてとても面白い紹介になっている。たとえば冒頭のメガネの章では、メガネの発明家が捏造された話なども取り入れているし、またカラー図版をふんだんに紹介して、図像学的な見地からのその変遷なども詳しく解説していく。この図像学的な解説部分が個人的にはとても気に入った。ちなみに解説を大黒俊二氏が記しているけれど、これは同書の訳者の遺作なのだそうだ。

「実用品の進化論」

外出先での待ち時間が異様に長かったせいで、空き時間読書として持ち歩いていたヘンリー・ペトロスキー『フォークの歯はなぜ四本になったか』(忠平美幸訳、平凡社ライブラリー)をほぼ一気に読了。ペトロスキーというと、以前『本棚の歴史』がなかなかよかったっけね。今回のこれはもともと95年に邦訳が出ていたもの。ここではフォークとかクリップ、ポストイット、ファスナー、大工道具などなど、実用品を中心に技術史をまとめ上げている。なかなか見事な網羅振り。そしてなんといっても、モノの進化というか変化の根底にある、どこか不条理ともいえる力学に光を当てているところが素晴らしい。必ずしも優れた技術が生き残らず、凡庸なものが勝ち残ったりするのはなぜかというあたりの、どこか悩ましい問題に、様々な事象を動員して答えようとしているかのようだ。そしてこれをもっと抽象度を上げた話に練り上げれば、たとえばシモンドンみたいな話になることもわかる。技術史のレイヤーにとどまりながらも、上層の技術哲学のレイヤーがほの見えているような、そんな感じの好著。

「声と文字」

遅ればせながら読んだ大黒俊二『声と文字』(岩波書店、2010)。うーむ、これまた、中世の言語状況や文字状況を扱った名著かも(笑)。前半はカロリンガ・ルネッサンスの周辺を、二カ国語併用状況(ラテン語と俗語)という観点で整理するもの。特に文字使用の問題が中心的テーマになる。でも、あまりほかでは扱われない(気がする)、イングランドのアルフレッド王(9世紀末)の学芸復興にも焦点を当てているのが素晴らしい。この時代のいわゆる古英語が、いったんはかなり標準化されていたことなどがなかなか興味深い。後半は一転して今度は13世紀ごろからの実務文書におけるリテラシーの進展が取り上げられている。フィレンツェとかの識字率の高さはまったく驚かされるし、ラテン語こそが書字言語として俗語を文字に導いた、という興味深い指摘もある。また小型本のはしりが13世紀ごろの説教本であることとか、ミクロ流通本(ある種の私家版)の成立の話とか、いろいろ関心を惹く事象が数多く紹介されている。一面から見ると、モノ(書物、文字)との関係でヒト(言語、慣習、態度)がどう変わっていくのかに想いを馳せるための一冊、という感じで、より大きなパースペクティブを予感・待望させたりもする。