「人為(技術)・記憶・媒介学」カテゴリーアーカイブ

記号過程を拡張(拡大適用)する

森は考える――人間的なるものを超えた人類学春ごろからぼちぼちと行っている新しい人類学読み。その一環として(夏読書でもあるけれど)、エドゥアルド・コーン『森は考える――人間的なるものを超えた人類学』(奥野克巳・近藤宏監訳、近藤祉秋・二文字屋脩訳、亜紀書房、2016)を読み始めたところ。まだ最初の二章なので、全体の4分の1程度なのだけれど、すでにして好印象。前に見たヴィヴェイロスなどよりも格段に読みやすく、また考察の出発点をなす具体的な事例がきっちりと示されているところも好感が持てる。パースの記号論における「イコン」「インデックス」「象徴」の区別を通じて、記号過程を人間的でないものにまで拡張しようというのが同書の基本スタンスと見た。とくにイコン的、インデックス的なものは、人間が非人間的な生命と共有しているものだ、とされている。同書に挙げられている例では、たとえば現在のナナフシ。ナナフシが枝とそっくりであるというのは、そういう種類のナナフシの祖先が最もよく外敵から身を隠すことができ、生存に最も適しえたということなのだけれど、それは同時に、外敵にとっての目くらましという点で、ある種の記号過程(ここではイコンとしての記号関係)を成していたと言うことができる。そしてこのことは、次のような事実を告げもする。すなわち、イコンが成立するためには差異(この場合にはナナフシと枝の差異)が必要であるとされる通常の記号過程の理解とは逆に、そのおおもとには区別のなさ、差異に気づかないという状況がなくてはならない、ということだ。このような見方を採用するなら、それは記号過程の理解を押し広げることにもなる。かくして人間を越えた自然界における記号作用というものの、根本的な特徴が見いだされるのだ、と……。

サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福この、人間以外のものにも記号過程を認める・見いだすという視点は、これまた読みかけのユバル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』(柴田裕之訳、河出書房新社、2016)にもどこか通底しているように思われる。ビジネス書に分類されている同書だけれど、別の視点から事態を見るという契機を与えてくれるという点では、とても興味深いものがある。たとえば、狩猟から農業への、いわゆる農業革命を扱った第二部。そこには小麦が世界的に拡散した記述がある。当然、人間がその苗を植え、育てるようになったことが大きいとされるのだが、一方でこの現象を小麦の側の生存戦略として見るならば、むしろ小麦が人間を飼い慣らすことによってみずからの種の生存を拡大したとも言いうる、とされる。けれども、農耕民族が狩猟民族に比べて、特段に豊かな生活を送っていたわけでもないようで、ゆえに小麦はみずからの種の繁栄に関して、人間にかならずしも大きな見返りをもたらしてはいない……。それはある種の専横関係であり、同著者によれば、農業革命は一種の詐欺とも言えるのではないか、ということになるのだが、いずれにしても、この逆サイドからの視点によって、見える風景が一変するというところが重要であり、また、それはある種の記号過程として、人間を縛り付けることにもなる。いったん農耕生活が始まってしまうと、人間はそれに依存せざるをえなくなる。そのあたりは同書では突っ込んだ議論が示されるわけではないけれど、むしろそうした依存の固定化に、イコンから創発するとされる象徴(それは人間に固有のものだけれども)をも含めた、なんらかの記号的専横関係を読み取ることができるかもしれない、などと夢想する夏の宵だ。

デッラ・ポルタの自然魔術本

自然魔術 (講談社学術文庫)最近は『ピカトリクス』の邦訳(『ピカトリクス―中世星辰魔術集成』、大橋喜之訳、八坂書房、2017)も出るなど、魔術についての学術的な研究環境も大きく前進している気がするが、「魔術」つながりということで(笑)、文庫化されたジャンバティスタ・デッラ・ポルタ(16世紀)の『自然魔術』の邦訳を覗いてみた(自然魔術 (講談社学術文庫)』、澤井繁男訳、講談社、2017)。もとは1990年の青土社刊。書名こそ魔術という名がついてはいるけれど、錬金術や蒸留などの、操作的記述が色濃い一部の章を除き、中味は自然的事物についての知識の集成という側面が強い。古代から中世までの自然学的な知識を集成した百科全書的なもの、という感じか。でも、薬草ほかの記述は、ディオスコリデスなどに依拠していたりして、なかなか興味深いものがある。抽象的・体系的な議論にはほとんど関わらず、実用的と称することのできるような記述が多い。当時の実用書を目指していたような印象だ。実際、この『自然魔術』のほか、デッラ・ポルタのいくつかの書は、当時ベストセラーになっていたとのこと。また、学識者にはあまりウケなかったともいう。学知の普及者としてのデッラ・ポルタ、というイメージか。でも残念ながら同邦訳は抄訳。訳出されていない部分とかが気になるところ。たとえば、同書には「不可視の筆記について」という面白い章があるが(スパイっぽく秘密のメッセージなどを送る方法について記されている)、YouTubeにあるような、卵の内部にメッセージを入れる方法とかが含まれていない。ちょっと残念。訳者あとがきによれば、1589年版の『自然魔術』全体はこの抄訳の3倍ほどになるらしいのだが、それくらいなら全訳を刊行できないものかしら、という気もする。全訳の刊行を期待したいところ。

翻訳実践と学知

翻訳のダイナミズム:時代と文化を貫く知の運動スコット・L・モンゴメリ『翻訳のダイナミズム:時代と文化を貫く知の運動』(大久保友博訳、白水社、2016)の第一部と第二部を読んでみた(全体は三部構成で、残る第三部は現代の数学の翻訳事例や共通語としての英語の問題が論じられるようだ)。第一部は天文学の文献を題材に、古代ギリシアの学知がいかにアラビア圏に翻訳され、さらにそれが中世ラテン世界に入っていったかを、比較的細かく描いたもの。第二部は一転して、近世から近代にかけての日本での、西欧の自然学の受容について論じたもの。全体を繋ぐのは、それらの学知の流入が翻訳という営みによって支えられていたという点で、同書はその翻訳の諸相を割と細かく描き出そうとしている。とはいえ、第一部はあまりに広大な歴史空間であるだけに、史的文脈・人的交流についての概論的な記述だけでも膨大な分量になってしまい、個別事例として挙げられた天文学的文献についての記述が制限されているきらいもある。実際、天文学的文献の翻訳に関する具体的事例はありまなく、言及されるおのおの文献そのものがどういった体のものだったか(先行する文献とどう異なっているか)とか、天文学そのものの進展といったあたりは、同書を見るだけでは今一つ浮かび上がってきていないようにも思われ、それが少しばかり残念だったりもする。

けれども、翻訳という側面についてクロースアップしているところは、邦訳の類書がそれほどない中でとても貴重ではある。個人的にはアラビア語訳に先立つ、ギリシア文献のシリア語への翻訳、ネストリウス派の独自の去就、というあたりがとくに興味深い。また、中世ラテン世界からルネサンス初期についての記述でも、西欧がおのれの遺産からアラビア経由の痕跡を積極的に消していった、というあたりの話は際立っている。原典主義がいわばイデオロギー的に確立していくなかで、アラビアの文献を派生物扱いとする野心が煽られ、ギリシアを祖と見る「権威」のシステムによって、たとえばアリストテレスは単なる「テキスト集成」にとどまらず、テキストの祖として逆接的に価値を高めることになる、と。

第二部の日本の話になると、スパンが限定されているせいか、通史的な視点と具体的な翻訳事例とのバランスはぐっと良くなる気がする。そこでの主眼は、日本における西欧のテキスト受容が、中国語文献の受容の延長線上にあったという話(連続の相で見ているところに、この場合は好感がもてる)。初期の、イエズス会士による中国語訳文献の流入から始まって、そのフィルターが結局は西欧の初期近代科学が中国に伝わらなかった阻害要因だったという話、さらにはそのことが、日本が朱子学的(国内で換骨奪胎され土着化した)教養をもとに、中国とは別筋に、思想というよりも技術面で西欧の知識を取り込む素地をもたらしたことなどが、その語りのメインストリームをなしている。それに続く、訳語に見る科学的言説の形成の話も、とても興味深い。本木良永による太陽中心説の受容、志築忠男とニュートン物理学、石川千代松による進化論、そして宇田川榕菴による化学……。極めつけは、その榕菴による元素名の訳語の話。これが序章の冒頭で示されている日本の元素表の独自性の話とつながって、ここでいったんループが閉じられているようにさえ思える。

注解と形而上学

注釈と形而上学

L'unite De La Metaphysique Selon Alexandre D'aphrodise (Textes Et Traditions)久々にアフロディシアスのアレクサンドロスについての論を眺めているところ。まだ全体の3分の1にあたる、序論と第一章を見ただけなのだが、すでにして心地よく刺激に満ちている印象。グヴェルタズ・ギヨマーク『アフロディシアスのアレクサンドロスによる形而上学の一体性』(Gweltaz Guyomarc’h, L’unité de la métaphysique selon Alexandre d’Aphrodise (Textes Et Traditions), Paris, Vrin, 2015)というのがそれ。アヴェロエス以前のアリストテレス「注釈者」として名を馳せていたアレクサンドロス(3世紀)は、実は「形而上学」を独立した学知として認めさせる上で大きな役割を担っていたのではないか、という仮説が冒頭で提起されている。その仮説の検証を楽しむ一冊、というところ。

アリストテレスの『形而上学』は古来から、一貫した著作というよりも雑多な文章の寄せ集めではないかという疑問が絶えず発せられてきた(さらには、アリストテレスが真正の著者ではないかもという疑いも消えずにいた)。けれどもそれを証す決定的な証拠もなければ、逆を証す証拠もなく、結局その問題は、そこにいかなる著述意図を読み込むかにかかっていた。で、この論考の著者は、アレクサンドロスの読みもまた、まさにそうしたものではなかったか、というのだ。解釈を施すこととは、『形而上学』になんらかの一貫性・意味を与え、それが体系的な著述であったことを示すことにほかならなかった、というわけだ。その意味で、アレクサンドロスはまさに「形而上学」なるものを「しつらえた」といえるのではないか、と。そこには背景として、諸学派(ストア派、エピクロス派、プラトン主義、逍遙学派などなど)が群雄割拠するヘレニズム後の古代世界にあって、生き残りをかけた学派同士の戦いがあり、注解には他学派の人々に対する説明・知的伝統としての伝達・学派の若者らへの教育という側面もあった。かくして全体として見れば、アリストテレスの他の著作と同様、『形而上学』についてもまた、なんらかの単純化・図式化と、議論の精緻化とが施されていかざるをえない。ひょっとして、アリストテレスの言う「第一哲学」に「メタフィジクス」という言葉を宛てたのも、アレクサンドロス(もしくはその周囲の任意の注解者)かもしれない……。このように、アレクサンドロスによる読みは歴史的文脈に位置づけられ、『形而上学』が著作として一つの全体の相のもとに成立していることが説き証されていく。論証としてはいささか弱い面も否めないものの、なかなか興味深い視座だ。続いて今度はその著作の一体性が、学問としての形而上学の一体性へ(第二章)、またその学問が対象とする存在そのものの一体性へ(第三章)と拡張・敷衍されていくことになるようだ。

再びリカルドゥス:知覚論

Questions Disputees: Questions 23-31 Les Demons (Bibliotheque Scolastique)先日取り上げたメディアヴィラのリカルドゥスの悪についての論。その問題31がなかなか面白い。「悪しき天使はわれわれの感覚に働きかけることができるか」というのがそれで、リカルドゥス自身の議論はこれを肯定するわけだが、まず、感覚に働きかけるとはどういうことか、感覚とはそもそもどのようなものかを問うところから始まっている。アヴィセンナが典拠だという、脳室の精緻な分類がまずは示され(このあたり、実に解剖学的だ)、次いでそれら各脳室に、それぞれの感覚の機能(というか潜在力:virtus)が割り当てられる。共通感覚(5感を統合する総合的感覚)は前頭部前野に、映像的記憶の蓄えは前頭部後野、認識の機能は脳中央のくぼみの下部(間脳、視床下部)、推論機能は同じくぼみの上部、記憶の想起の機能は後頭部だとされる。諸機能がそれぞれ脳の特定部位をあてがわれているところは、13世紀末のテキストながらなかなか近代的。

一方、これらの機能が活性化するためには、そうした潜在力に対して反応する媒体・媒質として精気(spiritus)がなくてはならないとされる。それは心臓で作られ、その後に脳に運ばれるという。精気は器官に対しては離在的であるとされる。魂とは別もので、脳に上っていく過程で繊細さを増し、感覚的魂の影響を受けるよう適応していくという。器官どうしの間を行き来し、たとえば空気という媒質を太陽の光からその潜在力を引き出すように(ものの形を可視にし、色を露わにするなど)、魂の働きかけと脳の各部の潜在力を媒介し現働化する。ガレノス的なこの精気概念の典拠とされているのはクスタ・イブン・ルカだ(10世紀のバグダードで活躍したキリスト教徒の医者)。悪魔が感覚に働きかける方途は、一つにはこの精気を通じてだということになるようだ。

とても面白いのは、仏訳ではこのspiritusをcorpuscule(小体・粒子)と訳している点だ(ゆえにリカルドゥスの人間論を「粒子的人間論」というふうに称したりもしている)。可滅的で繊細な、魂とは別の質料的なもの、ということで小体・粒子と解されるということなのだろうけれど、問題31の解説序文(アラン・ブーロー&リュック・フェリエ)によれば、生来的精気(spiritus physicus)の教義は12世紀末に、シトー会のステラのイサクやリールのアラヌスなどが盛んに取り上げていたものの、リカルドゥスはそれをさらに練り上げているとのこと。