「人為(技術)・記憶・媒介学」カテゴリーアーカイブ

みたび、シャルル・クロ

Oeuvres Completes (Cros)シャルル・クロの全集(Charles Cros, Oeuvres complètes, (fac-similé de l’édition du Club français du livre (1955), Éditions du Sandre, 2011-2016)から、「諸惑星との意思疎通手段の研究(Études sur les moyens de communication avec les planètes)」という例の論考を読んでみた。他の惑星に仮に人類と同程度の知性をもつ生物がいたとして、それとコンタクトを取るにはどうすればよいか、またその後のより密な情報を交わすにはどうすればよいかを考察した一篇。まずは光で信号を送るアイデアが示され(拡散する光を一方向にのみ集め、しかも極地から放射するというアイデア)、次いで相手がそれを自然現象と誤解しないよう、人為的に間隔を空ける(その間隔は要検討とされている)ことなどが提唱される。さらに続いて、その信号でもって何を伝えるかが考察される。クロは、真っ先に伝達できるのは数字だろうとし、3つを単位とする光の点滅パターンで数字を表すことを考えている(2つとかの可能性も示唆している。二進法?)。

こうして記数法が両者で共有されたら、その明滅のリズムでもって「知覚可能・思考可能なあらゆるエッセンス」を表すことができる、とクロ。数しか伝達できない、数を通してのみ理解し合うという制限がある中で、それ以上のやりとりに進むには二種類の方法しかない、とクロは言う。一つは、幾何学のやり方で平面図形を一連の数字に変換し、それを連続的に送るという方法。変換は数学で用いられるものを使うという(要するに数式化して送るということ?)。もう一つは、図形を点描として(ドット絵のように?)送るという方法。この点描の場合については、必要なビーズ(真珠玉)の数を表した一連の数列を送り、それらが並列に並べられると図形が浮かび上がるようにする、というアイデアを提示している。いずれにしても、まずは簡単・単純なものから送るべし、とある。それによって先方に解読のコードを解いてもらおう、試行錯誤してもらおうということのようだ。で、このアイデアに類似の方式がすでに機械織りなど工業において使われている、とクロは明記している。ほかにも点描のアイデアはいろいろ可能だとも述べ、自説を議論へと開いている。このあたり、19世紀当時の科学的・社会的な現実の反映(着想源としての織機)と理論上の制約(コードの共有という厄介な問題を迂回)などが複合的に姿を現しているようで、そう考えるとなんとも味わい深いものがある(笑)。現代の読み手は、やはりこのテキストを当時の社会的文脈へと開いていくよう誘われる気がする。次は、やはり収録されている知覚論も見てみよう。

シャルル・クロと知覚論

シャルル・クロ 詩人にして科学者―詩・蓄音機・色彩写真少し前に取り上げたシャルル・クロ(そのときはクロスという表記にしたが、これは誤り。正しい読みはクロとのことなので、訂正しお詫び申し上げる)。邦語での唯一の研究書というが出ていると知り、早速見てみることにした。福田裕大『シャルル・クロ–詩人にして科学者―詩・蓄音機・色彩写真』(水声社、2014)。シャルル・クロの詩人としての側面と、科学者としての側面とを、立体的に浮かび上がらせる試み。とくに科学者としての側面については、各種の技術史的なクリシェに絡め取られたクロの固定的イメージを越えて、その実像に迫ろうとしている。クロの科学研究として同書でとくに扱われるのは二大主要業績とされている色彩写真と蓄音機。クロの研究は全体的に理論家としての側面が強く、いずれも実際の機器の開発に至っているわけではないというが、同書を読む限り、そこには視覚・聴覚の内的な機能面を要素に分解してまた組み立て直すという、科学本来の(こう言って良ければデジタル指向な)方法論のある種の先鋭化が見られるようにも思われる。著者はというと、そこにベースとして、特徴的な知覚論の存在を見いだしている。つまりクロにとってのそうした研究は単なる技術開発ではなく、もっと奥深いところで、知覚そのものの探求に結びついているというのだ。「知覚器官の実際の組成ではなく、それらが駆動させている機能に目を向け、このはたらきを再現しうる一個の力学的モデルを構築することによって、曰くそれを「演繹的に」検証しようとした」(p. 245)。

機能としての知覚。なるほど、これはとても興味深い視点だ。色彩写真でも、当初クロは、今風のカラー写真ではなく、なんらかの装置を用いて色彩を再現するという方法を考えていたのだという。三原色へと色彩を一度分解して、それを再構成できるのであれば、そこに装置が介在していても構わない、ということのようで、つまりクロが模索しようとしていたのは、視覚が認識する色彩のプロセス全体であり、開発の対象もそうした認識プロセスに組み込まれるシステムであればそれでよかったのだ。蓄音機の発想についても同様で、いったんなんらかの痕跡に置換された音を、その痕跡をもとに再現するという一連のプロセス(さらには最初期のピアノ演奏の自動記録装置にも同じ発想が見られるという)は、聴覚機能のまさしく外在化で、聴覚とその記録・再生装置とがシステムをなすような技術が模索されていたのだ、と。前の『ル・モンド・ディプロマティック』紙の記事で取り上げられていた惑星通信論はこの論考では取り上げられていないのだが、クロの全集も最近入手したので、そのうちそちらについても読んでみて報告しよう。

未知との遭遇のための意思疎通

ちょっと遅ればせの話だが、フランスのクオリティ・ペーパー『ル・モンド・ディプロマティック』の8月号は例年、ちょっと面白い夏休み記事を掲載する。今年のそれはフィン・ブラントン「地球外生命体とのミニ会話ガイド」だった。中国が世界最大級の電波望遠鏡の建造を終えた話に絡めて、まったく未知の知的生命体がいたとして人はどうコミュニケーションを取るかという話を再考し、19世紀の史的な試みを紹介している。どこかの星に宇宙船が不時着したとして、最初のコンタクトを取る段階では、環境にある素材で基本的な幾何学図形をつくり、光による信号を発してみるというのが基本だというが、ではより高度な内容を伝えるにはどうすればよいか。この問題は歴史的にも、太陽系の構成などがわかり、他の星も地球と同じようなものかもしれないと考えられるようになって以来(つまり他の知的生命体がどこかにいると考えられるようになってから)の問題なのだという。著者はこれを情報工学史の裏側として取り上げている。

まず初期コンタクトの問題に、巨大なヘリオスタット(いわゆる集光ミラー)を用いて宇宙空間にまで反射光を送出するというアイデアを出した人物がいた。19世紀のドイツの数学者・天文学者、ガウスだ。当時はほかにも、サハラ砂漠で巨大な穴をほって軽油で満たし、火を点ければ火星人から見られるといった荒唐無稽なアイデアが多数生まれたという。フランス、英国、ロシアなどの科学者がそういったアイデアに名を連ねている、と。けれどもそれらはあくまでファーストコンタクトの段階の発想。とにかくハード面が重要だという立場だ。さらに進んだ信号を送るためには、そのコード化が必要になる。つまりソフト面だ。その嚆矢ではと目される一人が、なんと19世紀フランスの詩人シャルル・クロスだという。今や有名とはいえないこの詩人、実は三色版法(カラー写真)やフォノグラフの初期形態の考案者でもあったという。

で、そのクロスは、ガウスなどが提唱し注目されていたその光信号の発信装置でもって、リズムパターンをもった光を送ることでたとえば数字を伝えることができると考えた。しかも二進法で煩雑に送ることにとどまらず、メッセージ内容の圧縮のアイデアすら出しているのだという。それができれば画像すら送れる、とクロスは考えていた、と。まさに情報工学の黎明だが、一方でそこには着想源もあって(それを挙げないのはフェアではない)、それはジャカール(ジャカード)織機だった(いわばパンチカード式のコンピュータの原型にあたるもの)という。詩と技術と科学の発想とが渾然一体になり、そこからこうして黎明的な技法が捻出されていく。ここに科学史的な醍醐味を見ずにどうするのか、という感じではある。記事はさらに、ランスロット・ホグベンの別様のコード化による簡単な数式を送出するアイデアや、20世紀のハンス・フロイデンタールの記号法などが紹介されている。でも個人的にとても惹かれるのはこのクロスだったりする。2010年刊の全集などもあるようだし、ちょっとその著作を覗いてみたいところ。

ジョルダーノ・ブルーノの魔術観

De la magie (nouvelle édition)このところ久々に、モノ(技術的対象)と人間との一種の混成状況を扱うものを少し読んできたが、そこで問題になっているのは、そうした混成状況がある種の操作性だったり倫理だったりを纏うという、脱人間論(機械化)的な議論と、それでもなお人間が主体としての揺るぎない地位を占めているという議論との、ある種の揺れ動き、あるは往還運動であるように思われる。で、言わずもがなだが、この議論には何度も繰り返されてきたような既視感がある。ルネサンス期あたりの魔術の関わりなどはまさにその一つではないだろうか……というわけで、16世紀の魔術論をジョルダーノ・ブルーノの小著『魔術について』(De Magia)を、手っ取り早く仏訳版(Giordano Bruno, De la magie (nouvelle édition), trad., Danielle Sonnier et Boris Donné, Éditions Allia, 2009)で読む。この小著は、ブルーノの生前には発表されず、19世紀末になってようやく日の目を見たものだそうで、ブルーノの主著である対話篇などとは趣きが異なり、どちらかといえば私的なメモといった風のもの。中味は、いわゆる魔術書ではなく、なんらかの秘伝や術が解説されているわけではない。むしろその背景をなす哲学的・自然学的な議論が大半を占めており、その個々のトピックは多岐にわたるわけだけれど、基本的には、主体の他者への働きかけが物質を介してなされている(物質だけでは他の物質に働きかけえない)という考え方が読み取れる。一方で形相が作用の主体をなすという点も揺るぎない。物質を結びつけるシンパシー、連携、結合などはすべて形相からもたらされる、と。いくぶん怪しげな部分(悪魔への言及など)を差引くならば、これはまさにモノと人間の混成状況での操作性論・倫理学の先駆け的なものとしても読めるというわけだ。

巻末には仏訳者らによる解説があるのだけれど、そこではブルーノにとっての同書が、マルクスにとっっての『フォイエルバッハに関するテーゼ』にも匹敵するものではなかったかとの指摘がある。つまり、純粋な理論による世界の秩序の考察を、世界を変えるための真の活動でもって乗り越えるための、手段として魔術があった、というわけだ。とはいえ、それはあくまでマニフェストなのであって、同書で展開する魔術論は抽象的なものにとどまり、魔術的なものがもたらしうる宇宙の霊的な連続性の証拠にこそ、ブルーノの関心はあったのだろうとも述べている。このあたりの話の是非はすぐには判断できないので、さしあたり置いておくけれども、印象としてはそれが「観想的魔術」(G.ノーデという研究者の用語)だったという解説は妥当のようにも思える。

また余談になるけれども、個人的には、魔術(いわば技術的介入)の操作がもたらすモノのシンパシーないし調和の喩えとして、楽器の話が出てくるのも興味深い。狼はロバや羊にとってのおそれをなす対象だが、ロバの皮を張った太鼓は狼の皮を張った太鼓(!)よりも音の厚みでまさっている、とか、羊の腸を張ったリュートは、狼の腸を張ったリュート(!)とは、調和した音を生み出すことができないとか……云々。狼を用いた太鼓やリュートがあったとは思えないけれど(?)、表現として面白い。これまた解説によると、少し時代が下ってからのディドロも、同じようなレトリックを駆使しているといい、人間ほか生き物全般を振動する弦に喩え、「魂と感覚をもったチェンバロ」(18世紀末なのでリュートは下火だった)などと表現しているのだとか。これもちょっと要確認かな(笑)。ディドロの唯物論も気になるところではある。

ハイブリッド倫理学へ

技術の道徳化: 事物の道徳性を理解し設計する (叢書・ウニベルシタス)これまたざっと前半を見ただけだが、なかなかの好著。ピーター=ポール・フェルベーク『技術の道徳化: 事物の道徳性を理解し設計する (叢書・ウニベルシタス)』(鈴木俊洋訳、法政大学出版局、2016)。原著は2011年刊。著者はオランダの技術哲学者とのこと。技術哲学と倫理学の結合を目論むというもので、ここでも人間とモノを一体・ハイブリッドとして捉え、それを倫理(道徳性)の主体もしくは担い手として据えようと提唱している。というわけで、これもまた一種のマニフェスト本だ。けれどもその筆致はとても手堅く、安易に横滑りなどはしていかない。それが好印象をもたらしている。主要な着想源の一つにはラトゥール(「道徳性は事物にも宿る」)があり、さらにポスト現象学もある(主客の二分法からの脱却)。技術が媒介的な存在であるとする点で、先に挙げた昨今の実在論などからすれば媒介主義的ということになってしまうのかもしれないが(現象学がベースにあることからしてもそう)、全体的な流れとしては、そうした主客の二分法を逃れ、技術的産物と人間とが渾然一体となった世界観を提示し、そこから再び倫理学を再構築しようとしているあたり、ある種同じ方向性を向いている(旧来の学知から同じように距離を取っている)ように思われる。

で、そうしたハイブリッドの考え方を突き進めていくと、当然ながら従来の諸概念の解釈にも様々な変更が必要になってくる。まさしくそこが読みどころ、考えどころという感じだ。同書の議論の途上では、たとえば「自由」の再定義が提案されている。自由とは任意の規定から逃れるということなどではなく、「自分を決定づけているものに対して関与する能力」(p.106)であるとされている。人間の「実存の居場所」において、「物質的文化によって実存が共形成される仕方に関わる」(同)ことだというわけだ。このスタンスはまた、フーコーの議論を敷衍したものであることが、第4章で克明に示されている。