「数の学」カテゴリーアーカイブ

イアンブリコスと数学 1

イアンブリコスの『共通数学について』(De commvni mathematica scientia liber; ad fidem codicis Florentini edidit Nicolavs Festa, Lipsiae, 1891)を読み始めたところ。このarchive.orgのものは少し乱丁があるけれど、まあそれはご愛敬。まだほんのさわりの部分を読んだだけだけれど、数学の特殊な抽象性についてわりと突っ込んだ話が展開していて興味深い。プロクロスの議論と同じように、数学的な対象、すなわち数というものは、感覚対象(種)と知解対象(類)の中間にある抽象的な対象として扱われる(II章)のだけれど、それは感覚から分析的に析出されるものなどではなく、鷲づかみのごとく一気に、いわば直接的・直観的に捉えられるものと見なされている(VI章)。たとえば「一」と「他(複数性)」などの対立物は、一方を捉えることで、そこに他方が現前していなくても捉えられる。こうしたことは対立物一般について言え、たとえばモノの大小なども、感覚から抽象されるのではなく、感覚に先だって把握される。で、その起源を探ろうとすればそれは魂そのものに帰結する、と。あらかじめそうした対立物を理解するための仕組みが、そこに備わっているということのようだ。ここでのテーマは数学なので、イアンブリコスはその魂の機能そのものには立ち入っていかないようなのだけれど、少なくとも数学的対象は、そうしたアプリオリな理解に関係しているようだ、というわけだ。

ちょっとこれは随時メモでも取りながら読み進めることにしよう。

プロクロスによる数学と想像力

Études sur le commentaire de Proclus au premier livre des éléments d'Euclide前にも出たけれども、原論の注解書でプロクロスは、数学が扱う対象(より正確には幾何学が扱う対象)を感覚的与件でも純粋な知的対象でもないとして、両者の中間物、つまり想像力の対象として規定している。注解書でこれに触れている部分は、序論第一部の末尾あたりから序論第二部。現在鋭意読み進め中。で、これに関してとても参考になる論考があった。ディミトリ・ニクーリン「プロクロスにおける想像力と数学」(Dimitri Nikulin, Imagination et mathématiques ches Proclus)。所収はアラン・レルノー編『エウクレイデス「原論」第一巻へのプロクロス注解書の研究』(Études sur le commentaire de Proclus au premier livre des éléments d’Euclide, éd. Alain Lernould, Presses universitaires du Septentrion, 2010)。プロクロス注解書に関する2004年と2006年の国際会議にもとづく論集で、先の普遍数学史本の著者ラブーアンをはじめ、様々な論者が多面的にアプローチしているなかなか興味深い一冊。で、ニクーリンの論考は、なにやらわかったようなわからないような感じの「感覚的与件と知的対象の中間物」について、その諸相をプロクロスの本文に即してうまく整理してくれている。

それによると、プロクロスのこの数学的対象の議論は、どうやらイアンブリコスの『共通数学について』という書の議論を取り込んだものらしく、さらに遡ればプトレマイオスの『アルマゲスト』に行き着くということらしい。中間物というだけあって、その対象は感覚的与件に見られるような、生成流転の途上にある不安定な特徴を備えるとともに、推論にもとづく思惟の対象であるロゴスの特徴も併せ持つ。たとえば円が与えられたとして、現実の円形のものが感覚的対象であるなら、知的対象は円という抽象概念であり、数学的対象はというと、延長をもち分割可能な、想像力における一種の像(σχῆμα)をなし、と同時にそれは現実にはない完全な円として思い描かれる。質料形相論的には、それは想像力を質料として成立する実体として、物理的世界の対象とは別物の扱いになっているという。プロクロスはまた、その質料をなす「想像力」をアリストテレスが示唆する「受動知性」(霊魂論、III, 5, 430a10-25)と同一視しているともいう。うん、このあたりは個人的にもなかなか興味をそそる部分だ。

『原論』第五公準

ポアンカレ予想 (新潮文庫)これも夏読書の残滓だけれど、ドナル・オシア『ポアンカレ予想 (新潮文庫)』(糸川洋訳、新潮社)。まだ途中までしか読んでいないのだけれど、現代数学史というか、サイエンスルポとしてとても面白い。で、これのわりと最初のほうに、エウクレイデス(ユークリッド)『原論』の第五公準(『原論冒頭に記された公準の一つ)の話が出てくる。第五公準は「二つの直線にもう一つの直線に交わるとき、最初の二つともう一つの直線がつくる同じ側の内角の和が直角二つ分よりも小さい場合、最初の二つの直線をどこまでも伸ばしていくと、その直角二つ分より小さい角の側で両者は交わる」というもの。早くからこれは公準ではなく証明が必要だとされ、盛んに試みられた経緯があるという(アラブ世界など)。はるか後世の19世紀になって、これが必ずしも正しいとは限らないのではないかという話が出て、非ユークリッド幾何学を導くことになる(有名なリーマンの講演)……というのが同書のストーリー展開。なるほど、この第五公準はとても重要な出発点をなしているわけだ。で、そもそも「それが公準でない」という指摘はプロクロスの注解書でもなされているという。そんなわけでさっそく確認してみた。

底本はネット上にあるもの(Procli Diadochi in primum Euclidis Elementorum librum commentarii, ed. Gottfried Friedlein, 1873)(ついでに英訳本のPDFも)。プロクロスはいきなり、これは公準(αἴτημα)から消すべきだと始めている。定理だからだ、と。しかもそこにはいくつもの疑問があり、それについてはプトレマイオスがそれらの解決を図っているという。ゲミノスの言として、想像力をやみくもに信用して幾何学で受け入れられた理拠とするわけにはいかないという指摘もなされている。アリストテレスとプラトンの喩え話に触れた後、プロクロスはこう続ける。内角が直線二つ分(180度)よりも小さいときに、その直線(εὐθεῖα)が傾くというのは必然だが、やがてもう一つの直線と交わるというのは、本当らしいけれども必然ではない。どこまでも傾きはするが、交わらないという線(γράμμα)もありうるetc。そしてこう結論づける。いずれにしても論証で確実になるまで、いったん公準から除外するのが筋ではないか、と。プロクロスは、第五公準が実際に使われる命題(命題二九)のコメントまで、その証明についての話を先延ばしにしているようだ。

ホッパー本

中世における数のシンボリズム夏休みからのリハビリを兼ねて(笑)、ヴィンセント・ホッパー『中世における数のシンボリズム』(大木富訳、彩流社、2015)にざっと眼を通す。原著(英語)は1938年刊。訳者あとがきによると、90年代後半から2000年にかけて仏語訳や復刻版が出たりし、その流れで邦訳に至ったということらしい。なるほどこういう企画は貴重。副題(「古代バビロニアからダンテの『神曲』まで」)にあるとおり、古代から中世盛期あたりまでの数のシンボリズムを網羅的に取り上げている。全体的・俯瞰的な視座ももちろん示されてはいるのだけれど、個人的にはやはり、取り上げられている個々の事例がとても興味を惹く。たとえば縁起が悪いとされる13。これが不吉な数と言及される事例は、文献的には意外なことにモンテーニュ以前にはないのだそうだ。学知の世界では13は聖なる数であったといい、それを不吉と捉えるのは民間の伝統・伝承なのだろうという。あるいは長い一章が割かれ、これまた網羅的に取り上げられているダンテの数のシンボリズム。『神曲』が3の数をベースに構成されているといった話は周知のことだけれど、著者によるとその一方で至福の状態の象徴として8の数も屋台骨を支えているのだという。8は「原初の単一性への回帰」「最終的な贖い」を表すというのだが、これなどはとても興味深い論点。こういったことを見るに、できればより最新の知見・解釈なども解説という形で添えてほしかった気がする。

普遍数学前史 – 補遺(中世&デカルト前夜)

デカルトの数学思想 (コレクション数学史)先に取り上げたラブーアン本に続いて、再び普遍数学前史を今度は邦語で見てみる。佐々木力『デカルトの数学思想 (コレクション数学史)』(東京大学出版局、2003)。この第二部が、デカルトに至る普遍数学概念の変遷史を取り上げていて、ラブーアン本と補完的な感じになっている。もっとも、同書は1988年にプリンストン大に提出された学位論文のご本人による邦訳とのことで、この「補完」という言い方では完全にアナクロニズムになってしまうのだけれど……(笑)。佐々木本は、ラブーアン本があまり詳細に取り上げていない中世(触れていないわけではもちろんないけれど)や、17世紀のファン・ローメンなどについて比較的多くのページを割いている印象。この第二部はきわめて実証的な思想史研究となっていて、様々なディテール(それぞれの論者が当時のどの翻訳に準拠しているかとか)が実に興味深い。

中世で取り上げられるのは、アルベルトゥス・マグヌスとトマス・アクィナスのライン、さらにその関連でアヴェロエス、またそのラインと対立的なロジャー・ベーコンからのオックスフォード・プラトン主義の流れ、さらに同じフランシスコ会系からドゥンス・スコトゥスの弟子アントニウス・アンドレアエ。ある種の模範解答となったアヴェロエスの解釈は、アリストテレスの「ἡ καθόλου」を普遍学と取り、第一哲学(哲学全体の諸原理を扱うもの)に結びつけ、数学などは(狭義でならば形而上学までも)普遍学から排除しているとされる。数学は自然学と形而上学を架橋するものですらないとされている。スコトゥス主義者アンドレアエもまた、形而上学のみが普遍的であるとの解釈を示している。数学は「なんらかの特定の本性を扱い」、したがって普遍学の地位にはつけないというわけだ。

ルネサンス期についても、佐々木本はアゴスティーノ・ニフォー、フォンセカなどを取り上げていて興味深い。ニフォーは、上のἡ καθόλουを共通数学と取るアフロディシアスのアレクサンドロスと、普遍学と取るアヴェロエスの解釈を両方とも知っていた可能性があるといい、その上でこれを「他を包括する共通数学」のように取っているという。フォンセカは、数学が様式的に形而上学に類似することを指摘しつつも、普遍的なものはあくまで第一哲学という解釈らしい。このあたりはペレイラ(バロッツィの新プラトン主義的数学観に対抗)への援軍の意味などもあっただろうといい、なかなか複雑そうだ。

そしてさらに、デカルト前夜ということで比較的大きく取り上げられるのが数学者のファン・ローメン。共通数学の概念を普遍数学と称し、算術を幾何学の問題に適用することに反対したスカリゲルなどと対立しているという。ἡ καθόλουは数学的なことを含意しているとして、第一数学(数学的諸学の内部にある、他の数学的諸学の道具として用いられるもの)を提唱し、哲学における第一哲学に相当するものを数学内部に打ち立てようとしたという。哲学の優位への信念からは必ずしも自由ではなかったとはいえ、数学を相対的に「第一」で「普遍的」なものに引き上げた点が高く評価されている。同時代の代数学の発展などをも背景にあり、ファン・ローメンの「普遍数学」は、古代ギリシアの数理哲学、インドの数計算技法、イスラム文明のアルジャブル、中性ラテンの「汎計測」への志向などが含まれたユーラシア数学の集大成だ(p.428)というなんとも壮大なパースペクティブが語られている。うーむ、デカルトを目前として普遍数学前史で堂々巡りをするというのは、やはりなかなか刺激に満ちている(笑)。