「文献情報」カテゴリーアーカイブ

意志をめぐる問題

また例によって多忙な月末。とはいえそんな中、分析哲学系の論集『自由と行為の哲学』(門脇俊介、野矢茂樹編・監修、春秋社)を読み始める。メルマガのほうでドゥンス・スコトゥスの意志論を見ているせいか、このところ現代的な文脈での意志論・自由論にも改めて関心が向いてきていたところ。そんわけで同書。ストローソンほか六人の論者による八つの論考を、監修二人、訳者八人でまとめ上げたアンソロジーの力作。なかなか濃い内容のようで、見るからに壮観だ。最初の野矢氏の序論が全体のトーンや論点を紹介していてとても参考になる。で、まだ第一章のストローソンを読みかけなのだけれど、とりわけ第二章のフランクファートの選択可能性(ある行為が成立した背後に、別の行為の可能性があったというもの)議論が個人的には興味深そう。序論によると、フランクファートは自由の核心を選択可能性ではなく、行為者性に置くのだという。選択可能性に近い発想はスコトゥスの偶有論にもあって、過去や現在を決定済み、未来を未決定(つまり偶有)と考えていたそれまでのアリストテレス哲学的な時間論を、偶有とは同時的な選択性であると喝破して、そういう決定・未決定の問題から切り離したのだという話(メルマガNo.181を参照)だったのだけれど、フランクファートの行為者性というのがどうもそういう決定性の話らしく、もしそうだとするとこれは、スコトゥスとのバーチャルな対話・議論さえ夢想できそうな気がしてくる(笑)。虚言妄言失礼……。

ストア派と中世

9月末ごろに出ていたらしい『中世思想研究 52』(中世哲学会編、2010)を眺める。おー、このところ同論集は扱うテーマが拡がってきて、前にも増して面白い論考が散見されるように(笑)。『原因論』と『神学綱要』(プロクロス)の落差をトマスがどう捉えていたかという問題を論じたものや、表象力という観点からアルベルトゥス・マグヌスとアヴィセンナの比較をしたもの、アヴィセンナ(イブン・シーナー)の預言者論を扱ったものなど、うーむ、いろいろ細かな点で勉強になる。で、特集は「中世哲学とストア派倫理学」。初期教父からスコラ前夜まで(アンセルムスまで)をカバーしている。うーむ、これもなかなかに興味深く、かつ難しいテーマ。そういえば12世紀のソールズベリーのジョンあたりにも、たとえばキケロの言及などはあって、一種の「キケロ主義」があるということが以前から指摘されたりしていたっけ。セネカの影響関係というのもありそうで、各地の修道院が写本を所蔵していたという話も聞く。でも、思想的な伝播関係を厳密に追うような研究はどれくらいあるのかしら……。また、さらに広くストアという括りにすると、それだけで一気に見通しが悪くなってしまう気も(苦笑)。

今回の特集の論考を読むと、なるほどギリシア教父(バシレイオスが取り上げられている)には、ストア派の倫理学的立場をキリスト教的に吸い上げていた側面が確かにありそうに思えるけれど(土橋論文)、ラテン教父になるとまた話が違ってきて、新プラトン主義やアリストテレス思想と混じり合い、「ストア的要素」は純粋には取り出せない(荻野論文)のだという。そうなると、指摘されているとおり(山崎論文)、ストア派の直接・間接的影響そのものよりも、対象とする研究対象(ここではアンセルムス)にストア的な側面があるかどうかを見る、というアプローチに切り替えるしかないのかもしれない(というか、そのほうが論文的には生産性が上がるのかもしれない)。けれども、長期的にはやはり受容の問題に直接切り込んでいただきたいようにも思う。もちろんその難しさは容易に理解できるけれど……。また上のアプローチを取るにしても、たとえばコスモロジー的な面まで含めて俯瞰するような場合には、ストアと教父たちとの間にあるのが連続性か不連続性かという大きな問題も浮き彫りになってくるようで(樋笠論文とそれへの出村質問)、当然ながらなかなか一筋縄ではいかない(まさにそこが面白いところ……ではあるのだろうけれど)。

久々の新刊ウィッシュリスト

しばらく新刊情報の備忘録をつけていないなあということで、久々に(笑)。

このところ、中世がらみの総論的な書籍がいくつか目につく。たとえば、まず『知はいかにして「再発明」されたか』(マクニーリー&ウルバートン著、冨永星訳、日経BP社)。これは近所の本屋にも平積みになっていて、ちょっとだけ立ち読みさせてもらったけれど、図書館、修道院、大学などから、文芸共和国(レピュブリック・デ・レットルかしらね。これは「文壇」とか訳すのだぞ、などと昔は習ったものだが……(笑))を経て20世紀まで、知の組織化の歴史を大局的に俯瞰するという内容。意外に要所要所は記述が細かい印象。同じく、イスラム世界の科学・思想などをこれまた大局的にまとめた一冊らしいのが、『失われた歴史』(M.H.モーガン著、北沢方邦訳、平凡社)。著者が作家・ジャーナリストだということで、読みやすいのではないかと期待(笑)。

岩波は相変わらず中世もの(広義の)が目白押し。すでに刊行されている『「私たちの世界」がキリスト教になったとき』(ポール・ヴェーヌ著、西永良成、渡名喜庸哲訳、岩波書店)は、著名なローマ史家ヴェーヌによるコンスタンティヌス論(評伝なのかしら?)。面白そう。中世プロバーものとして個人的に大いに期待しているのは、『カラー版ヨーロッパ中世ものづくし』(キアーラ・フルゴーニ著、高橋友子訳、岩波書店)。図版とか楽しみ〜(笑)。ついでに、78年の『中世の産業革命』(ジャン・ギャンペル著、坂本賢三訳、岩波モダンクラシックス)も再刊。この人の名前、ジンペルなのかジャンペルなのかギンペルなのか、いまだに不明。そのあたり何か言及していないかしら。

それからこの秋の岩波ものの期待の星は、なんといっても『バウドリーノ』上下巻(ウンベルト・エーコ著、堤康徳訳、岩波書店)。エーコの小説作品としては4つめの邦訳。久々の中世もので、フリードリヒ・バルバロッサの養子になった主人公の冒険活劇だそうで。早く読みたいぞ。あと、個人的に『タルムードの中のイエス』(ペーター・シェーファー著、上村静ほか訳、岩波書店)なんてのも、ちょっと見てみたいところ。ユダヤ教側からのイエス像ということでしょうね、きっと。

すでに刊行されて評判らしいものとしては、『イタリア古寺巡礼』(金沢百枝、小澤実著、新潮社)や、『異端者たちの中世ヨーロッパ』(小田内隆著、日本放送出版協会)あたりもぜひ目を通したいところ。またビザンツ関連では、『ビザンツ 驚くべき中世帝国』(ジュディス・ヘリン、井上浩一監訳、白水社)なんてのがもうすぐ刊行らしい。このあたりも注目したい。専門書界隈では、『中世ヨーロッパの祝宴』(水田英美ほか著、渓水社)は相変わらずの論文集シリーズ。あと、『中世盛期西フランスにおける都市と王権』(大宅明美著、九州大学出版会)も面白そうなところではある。

今月はだいたいこんなところかしら。ま、例によって取りこぼしもありそうだけれど、それはまた今度ということで(笑)。

(17日:リンク直しました(苦笑))

エックハルト

エックハルトというとどうしても上田閑照氏の研究などが思い浮かんでしまうが(笑)、それとはまた違う視点からの研究も出てきているらしい。というわけで、松田美佳『マイスター・エックハルトの生の説教』(行路社、2010)を眺めているところ。まだ全体の3分の1ほどの、いわば「さわり」を読んだところ。エックハルトの存在概念や目的論などについて、トマスとの比較で浮かび上がらせている。なるほど、エックハルトが師匠の議論をいかに「拡張」しているかというあたりがなかなかに新鮮かも。珍しく博論をあまりリライトしていない印象の文章なのだけれど、案外こういう議論にはこうした形式が合っているのかもなあ、ということをちょっと思った。うん、ジャン・ベダールの小説(人間臭いエックハルトが描かれていた)を抜きにしても、エックハルト像というものもさらに刷新されていってほしいところ。いずれにせよ、後半はエックハルトの倫理論(これもトマスとの対照で語られていくみたいだ)に入っていくということで、これまた楽しみではある。個人的には秋に出る教材がやっと校了したので、晴れて本腰を入れていろいろ積ん読とか見ていきたいと思っているところ(笑)。

ブーニュー

閑話休題的だけれど、すっごく久しぶりにダニエル・ブーニューの本を眺めているところ。例によってあまり時間が取れないので、ちらちらと眺めている感じ(苦笑)。でもこれ、初の邦訳。ブーニュー『コミュニケーション学講義』(水島久光監訳、西兼志訳、書籍工房早山)。実はこの版元の別の刊行物をほんのちょっとだけお手伝いしてのいただきもの(ありがとうございます)。メディオロジーでドゥブレを支える理論派ブーニューの、たぶん最もとっつきやすい一冊。コミュニケーション学(もちろんメディオロジー絡みも含めて)の基本線を手堅くまとめた入門書という感じ。原書は1998年刊だけれど、2002年に改訂版が出ていたらしい。ドゥブレがどちらかというと客体的に組織論的な面に注力するのに対して、ブーニューはコミュニケーション学の側からメディオロジー的問題を眺める。そのため主体の問題などが明確に射程距離内に入ってきて、また異なった趣になっている、というのが全体的な印象。しばらく遠ざかっているので忘れていたけれど、ふいにいろいろ蘇ってきた(笑)。ちらちらとブーニュー本を読んでとりわけ個人的に思い出したのは、メディアと主体概念とが渾然一体となった生成変化的なプロセス論みたいな「変な」鬼子のようなものが出てこないかなあという漠然とした期待。ドゥブレともブーニューとも違う、どこかとんがった著者とかメディオロジー界隈から出てこないもんだろうかなんて、以前は思ったりもしたのだが……。ドゥブレは以前、着想源の一つにドゥルーズを挙げていたと思うけれど、そのあたりをもっと原点回帰的・ドゥルーズ的に極端化したもの、みたいな。うーん、まだそういうのは見あたらず、ちょっと残念?(笑)。