「現象学系」カテゴリーアーカイブ

ケアする側の創発的対応

仙人と妄想デートする: 看護の現象学と自由の哲学こちらはケアする側の対応へ現象学的にアプローチする一冊。ある意味、先のマラブー本と合わせて読むのは興味深いかもしれない。村上靖彦『仙人と妄想デートする: 看護の現象学と自由の哲学』(人文書院、2016)。現象学的な見地から看護の現場でのフィールドワークを続いている同著者の何冊目かの著書だが、この一見不可思議な印象を与えるタイトルが何よりも利いている。看護の仕事に取り組む人々が、ケア対象者の千差万別の状況に対応するには、マニュアルに書かれていることなどに頼るわけにはいかない。そこでは、著者が「実践のプラットフォーム」と呼ぶ動的な、それ自体変化していくしかない創造的な規範・ルールの束を、それぞれの対応者が作っていくしかない。それがいかに創り上げられていくのか、それが動的にいかに変化するのか、そういう領域にここでは現象学が切り込んでいく。そこから浮かび上がるのは、なんとも奥深い、それでいてどこか身近な、意思伝達の下部に横たわるリアルな層にほかならない!

破壊的可塑性

新たなる傷つきし者: フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考えるカトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者: フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える』(平野徹訳、河出書房新社、2016)を見ているところ。とりあえず、冒頭部分の第一部。マラブーの本は、以前ちょっとだけ読んだことがあるけれど、脳がもつ可塑性という概念を、どこか形態的なもの(神経系の再編など)から機能的なもの(心的機能)へと話をすり替えるような議論で、しかもそれをなにか新たな可能性の発現としてのみ解釈している感じで、正直ちょっと抵抗を覚えたものだった。それからずいぶん経って、その解釈(その書きっぷりも)が大きく変化していることを知る。アルツハイマー症による人格の激変(著者の祖母だという)を間近で見たというのがモチーフの一つになっているようなのだが、そのような「別の誰かになってしまう」という現象の存在を、外傷による人格の変化などの事例と合わせ、内的・外的原因の区別をいったん取り払って、両者を同じ分類で俎上に載せるというのが、同書の特徴的な出発点だ。両者は「破壊的可塑性」と著者が呼ぶ概念で括られる。そこから、脳科学、認知論、精神分析などの諸要素について新たな読み替えを提唱する、という戦略のようだ。

ここでの可塑性はリハビリなどで発現する形態的・機能的な組み替えなどではなく、まさに破壊による急激な、突発的な変容。その状態から「脳の苦痛」の表現が発せられているのではないかという。たとえば認知症患者には、一種の退行現象が見られるとされるのが一般的だけれど、著者によると、それは世間的によく言われるような「子供への回帰」ではない。幼年期に帰ったように見えて、それは患者本来のものではない幼年期、生きられるはずのない幼年期でしかないと著者は言う。なるほど、認知症の患者に対して、発症前との連続的な相を重視して接するというのが現行のケアの基本になっているが、ここではそれにあえて、徹底的に断絶の相を導入し、そこから見ようとしているところがとても共感できる。とくに親族など、過去の患者を知る者がその患者に接する実地体験からすると、この断絶の相を無視することはできない。患者は端的に、過去から切り離されているように見えるからだ。ここでの議論では、むしろその断絶の相を重視することで、新たな解釈(および治療?)の可能性を見いだせないかと問うている。また、脳損傷における脳の自己触発という考え方も興味深い。破壊を触発するものが脳みずからの内部に潜んでいること、なにがしかの内的力学の達成を、損傷後の患者の振るまいが語ってはいないか、という問いかけだ。かつて神経科学的に否定されたフロイトの「死の衝動」議論を、別様に復権できるかもしれない可能性が示唆されている。

ハイブリッド倫理学へ

技術の道徳化: 事物の道徳性を理解し設計する (叢書・ウニベルシタス)これまたざっと前半を見ただけだが、なかなかの好著。ピーター=ポール・フェルベーク『技術の道徳化: 事物の道徳性を理解し設計する (叢書・ウニベルシタス)』(鈴木俊洋訳、法政大学出版局、2016)。原著は2011年刊。著者はオランダの技術哲学者とのこと。技術哲学と倫理学の結合を目論むというもので、ここでも人間とモノを一体・ハイブリッドとして捉え、それを倫理(道徳性)の主体もしくは担い手として据えようと提唱している。というわけで、これもまた一種のマニフェスト本だ。けれどもその筆致はとても手堅く、安易に横滑りなどはしていかない。それが好印象をもたらしている。主要な着想源の一つにはラトゥール(「道徳性は事物にも宿る」)があり、さらにポスト現象学もある(主客の二分法からの脱却)。技術が媒介的な存在であるとする点で、先に挙げた昨今の実在論などからすれば媒介主義的ということになってしまうのかもしれないが(現象学がベースにあることからしてもそう)、全体的な流れとしては、そうした主客の二分法を逃れ、技術的産物と人間とが渾然一体となった世界観を提示し、そこから再び倫理学を再構築しようとしているあたり、ある種同じ方向性を向いている(旧来の学知から同じように距離を取っている)ように思われる。

で、そうしたハイブリッドの考え方を突き進めていくと、当然ながら従来の諸概念の解釈にも様々な変更が必要になってくる。まさしくそこが読みどころ、考えどころという感じだ。同書の議論の途上では、たとえば「自由」の再定義が提案されている。自由とは任意の規定から逃れるということなどではなく、「自分を決定づけているものに対して関与する能力」(p.106)であるとされている。人間の「実存の居場所」において、「物質的文化によって実存が共形成される仕方に関わる」(同)ことだというわけだ。このスタンスはまた、フーコーの議論を敷衍したものであることが、第4章で克明に示されている。

ホワイトヘッドと「思弁的実在論」

モノたちの宇宙: 思弁的実在論とは何かこれも最近出たばかりのスティーヴン・シャヴィロ『モノたちの宇宙: 思弁的実在論とは何か』(上野俊哉訳、河出書房新社、2016)。前回のエントリと同じく実在論ものではあるのだけれど、こちらは例の「思弁的実在論」がらみの話。先のドレイファス&テイラーの本が、主体と客体のはざまの問題を取り上げ、前概念的なレイヤーを考えるところにとどまっているのに対して、シャヴィロはメイヤスーやハートマンなどと並んで、ホワイトヘッドとダシに、はるかに先にまで行き着く思弁的実在論の擁護を試みる。ま、それが成功しているかどうかはまた別の話なのだけれど。

主体・客体のような二分割は、当然ながら人間とそれ以外といった分割に重なり、結果的に人間中心主義になるわけなのだけれど、ここでの基本スタンスはその中心をずらしていって、結局どこにも中心はないというところにまで行く。果てはモノそのもの(生物と非生物の垣根も取っ払われて)にある種の主体性、内面性、あるいは外部とのやり取りを認めるところにまでいく。一見して、これがIoTなどの概念を先取り(後追いかもしれない?)して敷衍していることがわかる。けれどもそのような議論の文脈で取り上げられているホワイトヘッドの「モノ」の議論は、それとはだいぶズレている印象なのだが……。個と全体とのコスモロジカルな連関を主眼に据えている(トップダウン的に?)ように見えるホワイトヘッド(個人的に読み囓り程度なので、もしかしたら違うのかもしれないけれど)に対して、思弁的実在論のほうは「モノが他のモノを対象として扱う」というような言い方で、インタラクションのレイヤーを考えようとしている、というか、そういうレイヤーを考えたいとの希望をひたすら語っている印象を受ける(ボトムアップ的に?)。けれども、これはどうなのか。やはりそういうインタラクションは、どこか有機体と無機物との複合体のような状況でしか考えられないのではないか、結果的に有機・無機の二分法は温存されてしまうしかないのではないか(個人的にはシモンドンあたりもそんなふうだったと思うのだが)、仮に無機物が有機体を誘うというアフォーダンス的な面があるのだとしても、だからといって無機物は真に主体化できるのか、モノ対モノの(モノが対象であると同時に主体にもなる)一元論的な関係に帰着させることには無理があるのではないか……などなど、多少とも古いタイプの読み手としては、そのあたりの思考回路から出られず、どこか遠い目でそうした議論を見ているしかないのだけれど……。

うーん、それにしてもここではホワイトヘッドが本当にダシでしかないのもちょっとなあ……(笑)。というわけで、個人的にはホワイトヘッドを改めてちゃんと読もうかと思っているところ。

フッサールと数学

数学の現象学: 数学的直観を扱うために生まれたフッサール現象学鈴木俊洋『数学の現象学: 数学的直観を扱うために生まれたフッサール現象学』(法政大学出版局、2013)を読み始める。なにげに読み出し、まだ冒頭部分(第二部の途中)だけなのだけれど、これは滅法面白い。実に読ませる。フッサールはもとは数学者だったことが知られているけれど、その現象学の成立において、数学の知見がどれほどの重要な背景をなしていたかという話を、詳細に跡づけようとする研究(と見た)。フッサールは師匠のヴァイアーシュトラスの影響を強く受けていて、数とは何かという基本問題に関して、自然数は具体的事物の集合から「抽象」によって得られたもので、それが解析学の基礎をなし、基数(集合の要素の個数)をなしているというきわめて古典的なテーゼを、カントールやデーデキントなどとともに受け継いでいるという。これに対してフレーゲなどは(カントールを批判して)、抽象を用いず、集合の「同値関係」による基数の定義(ある集合の要素が、別の集合の要素と一対一をなす場合を同値関係といい、その集合にある特定の数を帰属させることで、基数を定義づける)を示してみせた。(初期の『算術の哲学』のころの)フッサールから見たこの違いは、カントールの側においては、抽象は数学的定義としてはあいまいなもので、それは数学内部で定義できるようなものではなく、外部、すなわち哲学へと開かれなければならない問題だ、という基本スタンスがあるのに対して、フレーゲのほうは数概念を定義して論理学に還元し、いわば数学内部で処理しようとするものだとされる。けれどもこの後者は、具体的にそこにある集合それ自体を問題にしていない(別の集合との相対的な関係からしか具体的な集合を扱わない)点で、現実の数の言表の意味ではないのではないか、とフッサールは考える。

なるほど、数学の内部だけで閉じるのか(数概念の定義にとどまるのか)、それとも哲学という数学の外部へと踏み出していくのか(数概念の起源へと踏み出すのか)で、両者のスタンスは大きく異なっていくというわけなのだけれど、フッサールはその外部的な考察を心理主義(数学者の意識にとって数はどのように把握されるのか)でもってアプローチするがゆえに、小さな数からより大きな数領域へと拡張する途を歩もうとして、やがて大きな壁に突き当たる。心理主義が課す壁、つまり無限数など、心理的な起源をたどれない表象(非本来的表象)と、心理的な起源をもつ表象(本来的表象)との間の壁だ。前者を後者に包摂できなければ、自然数を超えた実数の構成がうまく吸収できない……。フッサール危うし、というわけだ。そこで彼はどうしたのか……(←イマココ)。