「現象学系」カテゴリーアーカイブ

このところの緩慢な動き

● 先週後半から風邪で調子が今一つ。調子が悪いときはいろいろ面倒なことが重なるもので、今メインで使っているandroid携帯の調子まで悪くなった。playストアが反応しなくなり、さらに異様にバッテリの減りが速い……。Webで紹介されている対策(再起動しろ、から始まって、アプリのデータ削除をしろ、Googleなんちゃらという隠れアプリのデータを削減しろ……etc、果てはGoogleアカウントを一端消して登録しなおせ、まで)をいろいろ試すも一向に改善せず。工場出荷状態に戻すのはあまりやりたくないので、そうした一連の対策を何度も繰り返すが、やはりそのまま。

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)● でも、そんな中でもぼちぼちと本読み。習性というか何というか(笑)。佐々木中訳によるニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)』(河出書房新社、2015)を読み始める。昔の竹山道雄訳(新潮文庫)などに親しんだ(詩句に乗れたかどうかは微妙だが)身としては、まさにモノトーンがいきなりカラーになったくらいの新鮮さを覚える。いきなりのこの詩情。

定本 夜戦と永遠 下---フーコー・ラカン・ルジャンドル (河出文庫)● 佐々木中氏と言えば、文庫版の定本 夜戦と永遠 下—フーコー・ラカン・ルジャンドル (河出文庫)』(河出書房新社、2011)の末尾を飾る「この執拗な犬ども」が、個人的にはとてもヴィヴィッドに反応させられた文章だったりする。最後の講義でキュニコス派のディオゲネスを取り上げたフーコーは、引用されるその文献的な乏しさにもかかわらず、種々の断絶を明らかにするというそれまでの姿勢から一転し、キュニコス的精神を西欧を貫く持続的なもの、連続の相として見出すというのだけれど、フーコーのそうした一種の高揚に、読み手としてとことん付き従おうとする著者の姿勢がなんとも言えない共感を呼ぶ……。これは徹底してゆっくりとした、濃密な時間を過ごす読書でなければたどり着けないような場所だ。読むという行為の悦楽と難しさを改めてかみしめさせる。

内省の構造――精神病理学的考察 (岩波オンデマンドブックス)|岩波オンデマンドブックス ● ずいぶん前から入手したいと思いつつ、古本でもものすごい値段がついていて見送っていた長井真里『内省の構造』(岩波書店、1991)が、内省の構造――精神病理学的考察 (岩波オンデマンドブックス)|岩波オンデマンドブックス』として出、それとともに古本も格安になった。というわけでさっそく購入。うーむ、これは聞きしに勝る重要文献かも。精神的な疾患の症例から、より一般的な深層の深みに入っていこうとする。たとえば第二章では、「つつぬけ体験」(思ったことが他人に伝わってしまうというサトラレ妄想)の症例分析から、言語化する手前の表出の蠢き、さらには自己の成立の構造にまで踏み込んでいく。まさに圧巻。

● さてandroid携帯。風邪の症状が治まってきたら、なんとそちらも少し調子よくなってきた。まず、バッテリを異様に喰っていたanndoroidシステムを、おそるおそる強制終了させたら、何度アカウントの再登録をしても同期が取れていなかったGoogleアカウントがとりあえず反応し出した。バッテリの減りが若干改善。さらにダメ押しでGoogleアカウントの再登録と再起動を繰り返したら、なにかの拍子にplayストアが反応し始めた。バッテリの減り具合もほぼ元通りに。何が問題でどうやってリカバリしたのか、まったく不明なのだが……(苦笑)。

空白と律動−−マルディネの知覚論?

メルマガのほうで見ている加藤雅人『ガンのヘンリクスの哲学』(創文社、1998)によれば、ヘンリクスは人間の視覚による知覚プロセスを、まずは可感的対象を無限定的なものとして捉え、次いでそれを限定的なものとして捉える、というふうに見なしている。で、知解もまた同じような方向性(無限定的→限定的)をもつプロセスだと考えていて、無限的的なものの理解が限定的なものの理解に先立つとしている。無限定的なものはさらに下位区分され、まずは非・限定的(限定不可能)なもの(つまりは神)、次いで未限定的なもの(つまりは個々に限定されない普遍的なもの)が捉えられる、としている。こうして、ヘンリクスの場合は神の認識がアプリオリなものとして人間の知性に立ち現れるという話になるのだけれど、この「無限定的なものから限定的なものへ」というプロセスは、もっと現代的な議論、たとえば現象学的な考察にも類似物を見出すことができるのかしら、ということを個人的に考えていた。で、ちょうど読んでいるアンリ・マルディネの論集『芸術と実存』(Henri Maldiney, Art et existence, Klincksieck, 1985-2003)の、空白(大文字のVide)をめぐる諸論考に、まさにそうしたプロセスの記述を見出すことができるように思われたので簡単にメモしておく。ちなみにマルディネ(1912 – 2013)は戦後にガン(ヘント)の大学で教鞭を執っていたりして、名前も含めてヘンリクスとなにやら因縁めいている……なんてね(笑)。

Art et existence同書所収の「芸術における空白の効力」という一文は、イスタンブールの聖ソフィア大聖堂(現アヤソフィア博物館)に始めて足を踏み入れたときの、空虚に晒されて感じる「眩暈」から始まる。それは次に「リズム(律動)」に取って代わられるという。この眩暈からリズムへの移行を媒介するものとして、空白(大文字の)があるとされる。「足元を掬われた」感覚を抱く訪問者は、逆説的にドームの天井面に支えを、あるいは安らぎを求めようとする。囲われた限定空間を求めるというわけなのだが、天井面(穹隅)はそれを許さず、そこには視線を宙吊りにするような空白があって、下から上へと滲出するかのような光に満たされるのみ……。これなどは、まさに無限的のものが限定されつつまだそのプロセスの途上にあるような、微細な視覚体験の記述として読める。上の「リズム」概念は今一つよくわからないのだけれど、同文章の直前に置かれた「中国絵画における空白と無の意味」という別の論考では、空白と充溢は朱子学的な陰陽、あるいは道教の道の概念と重ねられて、それら対立概念の相互浸透による変化を意味するとされているようだ。空虚とその限定への揺らぎ、その微細な律動こそが、なんらかの秩序をもたらす根源であるというわけ……かな。再び上の論考「芸術における空白の効力」に戻ると、この律動概念は、同書の表紙を飾っているゴヤの≪ラ・ソラナ侯爵夫人≫の分析にも適用され、明と暗の対立が織りなす律動が像の発現とゆらぎをもたらし、ひとたびそれが安定化すると、その成立過程をなしていた律動そのものは排除されてしまうのだという。このあたりもまた、無限定から限定への移行の狭間を思わせる記述がこれでもかというくらいに繰り返される。視覚において、「色の像」と「形状」とが無限的のものを順に狭めていくというヘンリクスの議論に重ね合わせられそうだ。

「部分と全体」の歴史的展開

部分と全体の哲学: 歴史と現在松田毅編『部分と全体の哲学: 歴史と現在』(春秋社、2014)を読んでいるところ。メレオロジーを真っ向から扱った、ほぼ初の論集ということらしいけれど、基本的な位置づけとしては概説書という感じかもしれない。前半と後半に大きく分かれていて、前半は歴史的展開、後半は現代的な議論を扱う構成。さしあたり前半をざっと見てみた。えらく飛び飛びではあるものの(アリストテレス、トマス、ライプニッツ、そしてフッサールへと飛ぶ)、なるほど基本線となる部分はちゃんと浮かび上がってくる。まず茶谷直人「アリストテレスにおける「部分」と「全体」」は質料形相論における部分と全体の関係性を取り上げてみせる。『魂について』の心身問題に適用される質料形相論をめぐるデイヴィド・チャールズとヴィクター・キャストンの論を比較を通じて検討し、両者の対比を、アリストテレス自身が魂と身体の二元論と一元論との乗り越えを図っていたのではという見地に重ねてみせるという趣向。なかなか興味深い。続く加藤雅人「中世とトマス・アクィナス」は、トマスのテキストから全体と部分の関係性が論じられた箇所を網羅的に取り出して分類し、それぞれの区分に関連した問題(普遍概念など)に言及しながら整理している。普遍論争におけるトマスの立場は、普遍を知性における認識様態と捉える一方、それが言語の表示様態と事物の存在様態を媒介するものと考えられることから、いわば唯名論と実在論の中間だと規定されたりしている。実在論寄りという従来の解釈も見直しの時期にきているのかしら?

ヘルベルト・ブレーガー「ライプニッツ哲学における全体と部分」(稲岡大志訳)は、冒頭で少しばかり単純化された概括を行っている印象。全体が先行し部分を決定づけるとされていた中世の全体と部分の考え方に対して、近代以降は部分が先行し全体を構成するという話になる、というのが基調としてあり、それを四つの領域(数学的連続体、霊魂論、物体の構造、解析と総合の方法)に認め、ライプニッツがそれぞれにどういう立場を取っていたか検討するという内容なのだけれど、まずもってそれら四つのいずれも、思想史的にはもっと以前に遡れたりして複雑な様相を呈するのではないかと思われる。でもさしあたり面白いのは、ライプニッツがいわば過渡的に、同論考で中世・近代とそれぞれ括られた両方の考え方に立脚しているらしいこと。次の松田毅「フッサール現象学とメレオロジー」は、「契機」「断片」というフッサールの概念を現象学的メレオロジーとして位置づけるというもので、それがフッサールの現象学の要所要所に生きていることを示している。うーむ、やはり個人的には、これら四者の間の広大な間隙を埋めていくようなものが読みたいところだ(笑)。

対象同士の関係世界

L'objet quadrupleこれも年越し本だけれど、グレアム・ハーマンの『四項構成の対象』(The Quadruple Object)を仏訳で読んでみた(Graham HarmanL’objet quadruple, trad. Olivier Dubouclez, PUF, 2010)。フランスのメイヤスーなどとともに名前の挙がることの多いハーマンは、これが仏訳としては最初の著作で、しかもこの著作に関しては仏語版が先に出ていたらしい。「対象」を再定義することによって、まったく新しい形而上学を打ち立てようというのが基本的な主旨。対象の再定義については、主にフッサールとハイデガーの批判・再検討が踏み台となっている。このあたりはとても興味深い分析だ。主筋だけ取り出すと、まずフッサールの内観的アプローチは、対象の感覚的な側面(感覚的対象)を取り上げていると評価されるものの、その問題点は、外部に実在するであろう対象にほとんど言及しない点にあるとされる。一方のハイデガーについては、道具的存在として対象を把握するその分析が取り上げられ、その観点が対象一般へとある意味拡張される。道具として対象が捉えられるとき、その対象そのものは意識に登らず不明瞭な領域へと後退してしまうわけなのだが、そのアクセス不可の領域にこそハーマンは注意を向け、そこに対象の実在性(実在的対象)を見据える。こうして取り出された「感覚的対象」と「実在的対象」は、人間vs外部世界という従来の枠組みを脱するものとして、ただちに一般化される。あらゆる対象は、他の対象(人間や動物を含むが、それにだけとどまるのではない)にとって、感覚的対象と実在的対象をなすというのだ。感覚的という形容詞もすでにして人間(ないし動物)の感覚の意味ではなく、別の対象との相互作用が可能な表層部分といったような意味合いらしい。いずれにしてもここに見られるのは一種の汎対象論。対象が他の対象となんらかの関係性を織りなすという世界を描こうとしている。これをハーマンは「思弁的形而上学」と称する。

こうした構築の意志を強く感じさせる議論展開の後、話はやや図式主義的なものに転じていく(哲学とは単純化でもある、となにやら開き直りのような放言もある(笑))。対象が併せ持つ「質」にも感覚的な質、実在的な質の区別を設けることで、対立軸の軸線を複数化し、四項(実在的対象、感覚的対象、実在的質、感覚的質)から成る図式が成立する(著者自身もさらっと書いているが、なにやら昔のグレマスの記号論を彷彿とさせるものもある)。で、著者はそれぞれの項同士、あるいは項がおのれ自身と切り結ぶ関係性について、やや踏み込んだ形で記述していく。「ハンマー」のような具体的な例も挙げられるのだが、一見「とりつきやすそう」に見えて、このあたりの記述は正確に理解しようとするにはちょっと手強い感じもある。それらの関係性にハーマンは独特な語彙をあてがっていて、たとえば、実在的対象が感覚的な質と切り結ぶ関係は「allure(「振る舞い」、あるいは英語的に「魅惑」?)」と称されたりする。そうした語彙が妙に人間くさい(ないし生き物くさい)ためか(苦笑)、なかなか対象同士の関係性という感じですんなり読みきれないもどかしさを感じる。さらにまた、そうした図式でのまとめがこの先どう発展しうるのか、どういった実をもたらすのかといった展望もいまひとつ見えないなど、いくつか釈然としないところも。とはいうものの、まったく新たな形而上学を構築しようという意志、あるいはその潔さには少なからぬ感銘を受ける。ちなみに英語でObject Oriented Onthologyとされているもの(これを「オブジェクト指向存在論」と訳してしまうと、なにやらあまりにプログラミングっぽい感じになってしまうのだが……)は、この仏訳では「対象中心存在論」みたいに訳されている。

英語での同一著作はこちら。

The Quadruple Object
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マリオン思想への入門編

贈与の哲学―ジャン=リュック・マリオンの思想 (La science sauvage de poche)現象学のある意味での極北(という言い方をしてよいかどうかはともかくとして)に位置するジャン=リュック・マリオン。そのマリオンの国内初の入門編となる一冊が最近出たというので早速見てみた。石野卓司『贈与の哲学―ジャン=リュック・マリオンの思想 (La science sauvage de poche)』(明治大学出版会、2014)。三回の講演をまとめた小著だけれど、その思想の要となる「与え」(don)の現象を中心に、その主要な論点を平坦に語っていて好印象。とはいえ、贈与そのものについての議論を扱う第二講などは、比較のために持ち出しているデリダのほうにどうしても力点が置かれてしまう感じで、マリオン自体はやや霞んでしまいがちだったりもする(というのも、一般的な贈与が根源的に交換にしか行き着かないとする点で、どちらの議論もある程度オーバーラップするからだ。もちろんその先は、贈与の不可能性を説くデリダに対して、マリオンはより根源的な「与え」の可能性を開いていこうとする……)。でも、なんといっても重要なのは第一講。著者はマリオンの中心的な思想を簡潔にまとめるだけでなく、思想的な流れも考慮しつつ、さらに批判的な文言をも加えていく。たとえばこんな感じ。「存在」よりも何よりも根源的なもの(それ以上還元できないもの)として「与えられていること」を取り上げようとするマリオンは、それが私たちが通常は認識できない「飽和した現象」なのだと説き、この飽和した現象の代表例として、神学的な啓示(キリストの現れなど)があるとする。で、哲学的な議論の果てにいきなりそうした神学寄りの事例が差し挟まれることに、著者は違和感を口にする。けれどもここはもしかして、あるいはとても重要な点かもしれない、と個人的には思ったりもする。なぜマリオンがあえてそうしたものを持ち出してくるのか、そこに何が見据えられているのか、それなしには語れられないものなのか……などなど、そのポイントを中心に大きな問いが渦を巻いてくるかのようだ。もちろん、第三講ではそのあたりについて、マリオンの思想的変遷においてカトリック信仰が大きなウエートを占めていることとか、神の死というテーマを貫いてきた近代哲学の流れに抗おうとする野心が読み取れるとか、そういった説明も示されてはいる。でも個人的には、もっと思想の内部からのアプローチでの議論を読みたいようにも思う。また、それにも関連しそうだけれど、著者がハイデガーやレヴィナスなどとの関わりで触れているような、「呼びかけ」「応答」「責任」といった副次的なテーマも興味深い。いずれにしても現象学の神学的転回は(マリオンの「おかしいところ」でもあり「面白いところ」でもあると著者も述べているように)、問題含みでとてもスリリングな感じだ。そういえばマリオンのデカルト論はことごとく未読なので、そのあたりから改めて覗いてみようかとも思う。