わーお。一見とんでもなくキワモノに見えるものの(苦笑)、これはこれでとても興味深い研究だ。リチャード・バウワーほかによる「中世の多元宇宙:一三世紀のロバート・グロステスト宇宙論の数学的モデリング」(Richard G. Brower et al., A Medieval Multiverse: Mathematical Modelling of the 13th Century Universe of Robert Grosseteste, Nature, Vol.507, 2014)。今メルマガのほうで読み始めているグロステストの『光について』(De luce)が描く、第一形相としての光の拡散による物質世界を延長と、それによる諸天の形成というヴィジョンを、数学的なモデリングでもって描き出してみようというもの。先に西川アサキ氏によるライプニッツのモナドロジーのモデリングがあったけれど、これもある意味で同じような学際的研究。グロステストは『光について』で、光(lux)が質料に次元的な延長をもたらすものの、質料の半径(つまりは光の放射域だ)が増長につれて密度が漸減するとし、それが最小密度になったところがその限界域になると考える。その限界域では質料と光が合わさった完全状態が生じ、こうしてできたものが第一の天球だとされる。するとそこから別の種の光(lumen)が球の中心に向けて発せられ、不完全な質料(それは純粋ではなく、不透明だ)をさらっては圧縮していく。こうして内側の質料も漸進的に完全なものとなり限界点に達すると、そこで第二の天球が生じる。アリストテレスのコスモロジーでは第一天とされる恒星天だ。次にその第二の天球から同じようにlumenが発せられ……この繰り返しで最終的には月の天球(第九の天球)までが作られる。最後の月下世界では、もはやlumenの発出は十分ではなく、完全な物体が宿す円周運動ができない……。
というわけで、今年の一発目は昨年末に読んだ論考から。まずマヌフイア・バーチャム「自然的理性による統治:中世後期・初期ルネサンス期の政治腐敗の概念」(Manuhuia Barcham, Rule by Natural Reason: Late Medieal and early Renaissance conceptions of political corruption, in Corruption – Expanding the Focus, ANU E Press, 2012)。西欧の中世からルネサンス、さらには初期近代へと、政治についての議論がどのように変わっていったか、概略をまとめた論文。書かれていることはさほど目新しくはないけれど、一応の基本線として押さえておくのは有益かな、と。政治論はやはり、現実的な政治のある種の腐敗を受けて練り上げられるもののようで、地上での善の追求として「秩序」を考えるという古代のアプローチしかり、キリスト教の文脈において統治者の「徳」を考える議論(12世紀)しかり、各種の政体の比較論(13世紀)しかり、北イタリアの都市国家における指導者概念への市民概念の包摂(人文主義時代)しかり。マキャベッリやグイッチャルディーニにいたると、統治者の徳と統治の質とが切り離されて論じられるようになり、再び古代の秩序論が復活する、という流れ。前のアッシュワース論文にあった政治コミュニティの「セキュリティ」重視に加えて、「繁栄」が重んじられるようになるのも、場所的にも時代的にもどうやらそのあたりかららしい。
もう一本、こちらは科学史のペーパーだけれど、同じく基本的なもの。オーウェン・ギンガリッチ「ガリレオ、望遠鏡の衝撃と近代天文学の誕生」(Owen Gingerich, Galileo, the Impact of the Telescope, and the Birth of Modern Astronomy, Proceedings of the American Philosophical Society, Vol. 155 Issue 2, 2011)。地動説の証明においてガリレオが果たした役割についてまとめられたもの。プトレマイオスの周転円説で説明がつかない現象(惑星の逆行が太陽と逆の位置でのみ起きること)の説明として登場したコペルニクス説は、トマス・ディッグスの書や、ミヒャエル・メストリンの弟子ケプラーの著書を経てガリレオに受け継がれる。1609年、ガリレオは望遠鏡を独自に改良し(倍率を20倍にした)、月が地球に似ていることや(アリストテレス的天体観からの決別)、木星に衛星があることなどを発見する。発見はコペルニクスの体系を証明するものではなかったにせよ(惑星は太陽の周りを回るが、太陽そのものは地球の周りを回るとしたティコ・ブラーエの別モデルでも説明はついた)、少なくともまったく新しい自然学的枠組みをもたらすものではあった、と著者。16世紀の天文学者たちはすでに、惑星の位置計算についてはコペルニクス説を受け入れていたというが、それが自然学的な現実を表すとは考えていなかったといい、ガリレオ裁判に先立ってベラルミーノ枢機卿はガリレオに、数学的なモデルとして「太陽が不動だと考えればよりよい説明がもたらされると述べるなら問題はないが、太陽が実際に中心をなしていると主張するのは危険だ」と諭していたという(教会側も一般人も、地球が実際に動くという話自体はナンセンスと受け止めていた)。なにやらこのあたりは、学問的な受容に際して技術的な部分が先行するという、一種のプラグマティズムを感じさせて興味深い。
ジャン・ビュリダン(14世紀)に関するジャック・ズプコの研究書(Jack Zupko, John Buridan: Portrait of a Fourteenth-Century Arts Master , University of Notre Dame Press, 2003)を飛び飛びに眺めているところ。とりあえず個人的には、心身問題というか霊魂論についてまとめられている11章にとりわけ興味が湧く。というわけで、その概説を簡単にまとめておこう。著者によるとビュリダンは基本的に動物・植物の魂と人間の魂とを分けて考え、前者は物質の集合体で生物学的機能で定義される延長的な力をもち、可滅的なものだとされている。対する後者は非物質的・不滅的・創造されたもので、数的には多であるとされる。ビュリダンにおいては、動物や植物の魂は身体全体に広がっており、各器官での分化については潜在性(可能態)の近接・遠隔という議論で説明されているという。つまりこういうことだ。動物における感覚的機能は特定の器官で発現しているわけだけれども、機能をもたらしている魂自体は全体に広がっているため、たとえば動物の任意の各部(足でもなんでも)に視覚や聴覚の「遠隔的な」可能性があるのだという。ただしその器官がそれらの機能を「近接的な」可能性へと高める配置になっていないため、発現しないのだというわけだ。また、動植物の魂というのは同一であり、植物的魂と感覚的魂の区別などは言葉の問題にすぎないと、いかにも唯名論的な立場を取ってもいる。このあたりもなかなか興味深い。