夏ぐらいのエントリーで、フラットアース説が19世紀に練り上げられたものだという話を取り上げたのだけれど、今度は地球球体説の場合の対蹠地問題についてまとめたエッセイが紹介されていたので早速読んでみた。アメリア・カロリーナ・スパライヴィーニャ「ローマから対蹠地へ:中世の世界像」(Amelia Carolina Sparavigna, From Rome to the antipodes: the medieval form of the world, International Journal of Literature and Arts, Vol.1:2, 2013)というもの。対蹠地問題というのは、地球が球形であるとして、ではちょうど反対側に住む人々はどうなっているのか、逆さまのまま暮らしているのか、天空へと落ちてしまわないのか、といった素朴な疑問のこと。重力などがまだ見出されていないことから、そうした疑問が提出されるわけなのだけれど、球体説を取る論者たちは当然そのあたりのことも考えていた。まず『博物誌』のプリニウス(アリストテレスの自然学に準拠している)は球体説を採用し、しかもその「なぜ落ちないか」という疑問については、「対蹠地側から見ればこちらが落ちないのは不可思議だということになる」といったシンメトリーの原則を唱えて一蹴しているという。と同時に、とくに水(海水など)がなぜ落ちないかについて、水は高いところから低いところに流れ、いわば中心へと近づいていくのであって、その性質があるからこそ落ちないのだとし、どこか重力を思わせる説を唱えているのだとか。で、どうやらこれが、その後の長い西欧の対蹠地観のおおもとになっていくらしい。キリスト教が台頭するようになると、当初こそ対蹠地の存在を想定したり(クレメンス・ロマヌス)、聖書の寓意的解釈でギリシアの科学との衝突を回避しようとする(アレクサンドリアのクレメンス)論者が優勢だったものの、やがてラクタンティウスなど、球体説を糾弾する者も現れ始める。シリアの教会では字義通りの聖書解釈が主流となったりもする。アウグスティヌスなどは、師のミラノのアンブロシウスにならって球体説を認めつつも、対蹠地の存在については確証はないとし(そこでもプリニウスが参照元となっている)、対蹠地の住人が「こちら側」に来ることはできないし、その住民がアダムから生まれたとは考えられないとしているという。
カム・リンドリー・クロス「あのメロディアスなリングイスト:キリスト教・イスラム教の鳴禽類における雄弁と敬虔」(Cam Lindley Cross, That Melodious Linguist: Eloquence and Piety in Christian and Islamic Songbirds, University of Chicago, 2010)(PDFはこちら)という論考を読んでみる。鳴禽類(鳴き鳥)が中世においてどのように表象されていたかを考察する論考。この前半部分がとりわけ面白い。鳥は古くから聖霊の世界の近く(この世の最果て)に住むとされ、秘密の言葉で秘められた知識を担っている存在として、あるいは天からのメッセージを運ぶものとして描かれていたという。ユダヤ教やイスラム教では、ソロモンがその言葉に通じているとされていたし、キリスト教のイコノロジーでも聖霊が鳥の姿を取るといった描写があった。鳥はその後の西欧の文学的伝統でも、またイスラム圏の文学でもそれぞれ様々に描かれているものの、その背景には人間と動物の関係をどう見るかという問題が横たわっている、と論文著者は言う。アリストテレスは、動物が知性に類する属性を持つ場合もあるが、それは生理学的な偶然によるものだとしているし、後世のデカルトなどは動物は完全に魂のないオートマトンだとしているわけだけれど、たとえばアルベルトゥス・マグヌスなどは、鳥のささやきはつがいを求めるなどの様々な欲望によって生まれ、霊的な軽妙さゆえにほかの動物の声を真似ることもでき、一方でそうした軽妙さは鳥にある種の賢さをもたらしている、といったことを述べているのだそうな。記憶や想像力、推測、同意といった知的機能を、鳥は備えているかもしれないというわけだ。そうしたニュアンスに富んだ見方は、アヴィセンナなどのイスラム圏の思想から受け継いだもの、とされる。イスラム圏においては、動物は人間の所有物などではなく、神に直接帰されるものとして考えられており、人間と動物を基本的に分け隔てる考え方は見出されないという。アリストテレス思想の受容後もそうで、たとえばアヴィセンナは、動物が危険や利益などといった抽象的な普遍概念を、知覚機能を通じて認知できるとしていたのだ、と……。近年、認知言語学との絡みで鳥の鳴き声のパターンなどが分析されたりしているけれど、そうした研究の源流にはアルベルトゥスがいる、なんて考えるとなかなか興味深いかも(笑)。
というわけで、ブノワ・パタール編『ジャン・ビュリダンの霊魂論』(Benoît Patar(éd), Le traité de l’âme de Jean Buridan, Éditions de I.S.P, 1991)を入手してみた。まだ巻頭の解説(それだけで200ページもある)をちらちらと見てみただけだけれど、それによると、人間の魂が、天空を動かしているような不変・不滅の霊魂の一部をなしているのかどうかという当時盛んに議論されていた問題について、ビュリダンは微妙な立ち位置を示しつつ不滅論を肯定しているようだ。「知的魂(人間の)が質料に由来していないからといって、それが過去において永劫的に存在したことにはならない」と述べて、魂を永劫的な存在ではなく神の創造に結びついているとする一方で、生成によって形作られる存在と、神の創造によって存在するようになったもの(すなわち魂)との区別を設け、前者における消滅とは質料に帰することだが、後者の場合、つまり魂においてそれを成立させる条件がなくなる場合(神がそう意志した場合)には、それは消失(無に帰すること)を意味するとし、「あるものが存在しなくなりうる事実をもって、それが自然本性的に不滅ではないということにはならない」と、自然本性的な魂の不滅を肯定する立場を述べている(らしい)。
前にも取り上げたヴェスコヴィーニ校注によるパルマのブラシウス『魂の諸問題』(Vescovini, Le Quaestiones de Anima, Leo S. Olschki Editore, 1974) から、本文の中身を大筋だけ断続的にまとめてメモしていくことにしよう。まずはパドヴァの1385年の写本のほうから、今回は1-8「知的魂は身体(コルプス)から分離できるか」。最初に、できるとする諸論と、できないとする諸論(アリストテレスにもとづく)のそれぞれの議論が列挙される。焦点となるのは「魂には固有の働きがあれば、肉体(物体)から分離しうる」かどうかをめぐる議論で、これを中心にブラシウス本人の論が続く。検討するのは主に次の三点。(1)魂に固有の働きがあるという前提は、コルプスからの分離の条件になっているかどうか、(2)魂にまったくコルプスに依存しない働きがあるというのは絶対的に正しいか、(3)魂は死後に肉体を離れるというのは自然の理に反しないか。