「祈りの人類学」カテゴリーアーカイブ

恥と内省

クヌーティラ「中世哲学における恥の感情」(Simo Knuuttila, The Emotion of Shame in Medieval Philosophy, Spazio Filosofico, No.5, 2012)という小論を読む。恥の感情を扱った中世の哲学議論を、さしあたりアリストテレス、トマス・アクィナス、サン=ヴィクトールのリシャール(リカルドゥス)、アウグスティヌスで振り返っている。これはこんなにプロット的じゃなくて、もっと網羅的に追っていってほしいところなのだけれど(笑)、ともかくそういう議論のヒントにはなりそうな小論だ。ポイントは(ある意味当然ながら)恥の感情が「自己の発現」と結びついているということ。これはアリストテレスなどにもすでに見られるというけれど、そこでの自己意識は「聴衆」という他者の集団を前にした場合が強調され、自己規定はあくまで外的な他者に対してなされる、とされているという。トマス・アクィナスになると、節度ある生の徳との関係で恥の感情が解釈される。恥の感情をもたらすのは、徳をもつ人々の「標準的」生からの逸脱だとされ、他者はやや内面化している。面白いのは、トマスよりも一世代ほど前のサン=ヴィクトルのリシャール(12世紀)のほうが、より深い内面化で恥の感情を捉えているらしい点。「聴衆」はそこでは完全に自己の人格にまで縮減され、その上で、自己を律するための「良き恥」という良識的概念が練り上げられているのだという。リシャールとの関連で取り上げられているアウグスティヌスは、より高い自己の地位が失われていることの認識が恥をもたらすとし、プロティノスの新プラトン主義的な形而上学的な恥概念を考察しているというが(魂にとっては肉体の中にいることが、高みにいないこととイコール)、リシャールにはそうしたアウグスティヌス的な恥概念への言及はないという。

wikipedia (fr)より、ジョヴァンニ・ディ・パオロの細密画(15世紀)に描かれたサン=ヴィクトルのリシャール。もとの細密画そのものはダンテの天国を描いているとのこと。

初期中世の時刻の算定

これも研究トピックとしてはずいぶん前からあるものだけれど、改めて取り上げておこう。スティーブン・マックラスキー「トゥールのグレゴリウス、修道院の時間管理、初期キリスト教の天文学への姿勢」(Stephen C. McCluskey, Gregory of Tours, Monastic Timekeeping, and Early Christian Attitudes to Astronomy, Isis, vol.81, No.1, 1990)という論考。科学的進展に乏しかったとされる初期中世において、それでもなお復活祭の日にち計算(コンプトゥス)は重要な案件だったわけだけれど、それに劣らず重要だったのが、修道院での聖務日課のために必要となる一日の時刻の算定。天文学的な知識を応用して夜課の時刻を定めるという考え方はカシアノス(4世紀末から5世紀)のころからすでにあり、これが著作を通じて西欧に拡がっていた。修道院は規則によって時刻を告げる責任者を特定していたが、その具体的な時刻の認識方法はまだ各人のアレンジに任されている状態だったという。

天文学的知識とはいっても、当時のものはプトレマイオスのような数学的な天文学ではなく、ヘシオドス『労働と日々』やウェルギリウス『農耕詩』がベースだったといい(あとマルティアヌス・カペラの『メルクリウスとフィロロギアの結婚』も)、そうした経験的・実務的天文知識を本質部分にまで凝縮したものだったようだ。そのあたりの事情を窺えるテキストに、トゥールのグレゴリウス(6世紀)に帰されるという『星々の運行について(De cursu stellarum)』があるのだとか。修道院規則を補完する性質の文書だということだけれど、同文書が取り上げる要素から、当時の修道院文化がどのように天文学的な実践を保持し、変容させていたかが伺い知れるのだと同論考は主張する。

当然ながら、星座の異教的・神話的記述はうまく削除され、キリスト教的な神のみがその運行を支配しているように記されているのだという。グレゴリウスの時代にはまだ異教的因習が残っていて、その結果同文献の一部写本には混淆的な記述も見られるといい、また一方では占星術的な天空の影響などを斥けようとする箇所もあるらしい。日照時間の変化について、グレゴリウスは12月の日照時間を9時間とし、6月まで規則的に一時間づつ伸びていくという単純な計算を示しているというが、これは教会のメノロギオン(聖人暦)など、地中海東側などで一般的な計算方法で、ガリア地域の土着の考え方ではないそうな。月の満ち欠けについても30日周期を採用しているというけれど、これは後のベーダの『時間の計算について』において、ウェティウス・ウァレンス(2世紀の占星術師)によるものとされている、と。季節によって夜課の長さを調節するなどの指示とか、核心部分となる星座位置の(やや大雑把な)図や説明など、『星々の運行について』はなかなか実用的な興味深いテキストのようだが、重要なのはやはり、東方的な影響が随所に見られることだという。そうなると、グレゴリウスが果たして実際の観察にもとづいて同文献を記したのか、それともむしろ古典的な文献などをそのまま採用したのかという疑問が出てくるけれど、これについて論文著者は、星座の位置関係と日の出の時間の統計学的解析から、それらが当時のトゥールに該当するものであるとして、前者の見解を採用している。うーむ、なかなか渋いぜ、この研究は。

wikipedia (en)より、「幾何学者としての神」−−13世紀半ばの『道徳的聖書』(Bible moralisée)の扉絵

宗教と道徳

信仰は宗教とは違う、とその論考は語る。聖性というのは必ずしも宗教と分離できないのではない。そもそも宗教は祭祀の宗教と道徳の宗教に分かれる(カント)。この後者の道徳的宗教は「反省的信仰」と称される。それは知を行動に従属させ(つまりは知と行動を分離し)、発現形としての知を越えた善意志を支持する。そしてこの反省的信仰を解放する任務はキリスト教にのみ与えられている。なぜか。人間が道徳的に振る舞うには、神が存在しないかのように、自分の救済に関心をもっていないかのように振る舞わなくてはならない−−それがキリスト教が原則とする論理であり、それはすなわち神の死・不在に耐えうるということにほかならないからだ。ユダヤ教やイスラム教はそうした死・不在にあらゆる抵抗を試みる。唯一キリスト教だけが、そうした道徳的振る舞いを解放しうるというわけだ。では、その場合の道徳とはいかなるものか。その「反省的信仰」は、道徳が宗教に結びつく前のある種の超越性を純粋な形でもっている。その超越性こそがかかる道徳の本質をなしている(と推測される)わけだが、それを回復するには、啓示よりもさらに根源的な「開示」を見出さなくてはならない(ハイデガー)。これは困難をともなう営為だ。開示を見出しうる場とは砂漠という形象で言い表される無規定・無秩序の場だろうし、そこに可能性として見出されうるものというのは、あらゆる「信」の経験(信仰、信用、信頼etc)の基盤、後の発現形としての信仰のそもそも根源をなすような、普通の認識では捉えられない起源ではないか……。

……とまあ、少々乱暴にメインストリームだけを取り出してみたのは、かのデリダの「信仰と知」の新訳(英訳からの重訳ということらしく、しかも前半のみの抄訳)。これを収録している磯前順一・山本達也編『宗教概念の彼方へ』(法蔵館、2011)を読んでいるところなのだけれど、なにやら宗教学のある種の動向らしいものが見えて興味深い一方で、全体はわりと一般的な学術論集だけに、収録された論考のうちこのデリダのものが放つ強烈な挑発性はやはり異質・独特だ。なにもレトリカルな部分を指して言っているのではなく、むしろそうした枝葉を取り除いたところでの挑発性にこそ再度注意を払いたい、と個人的には思っているわけだけれど。デリダ節というか、そのレトリカルな部分を削ぐみたいな作業は、当然これから先もっと行われていくことになるのだろうけれど、とりあえずこのテキストもそんな目で再び眺めたい。

神話の底流?

少し前に入手してあったマルク・リシール『神々の誕生』(Marc Richir, La Naissance des Dieux, Hachette Littérature, 1998)。年越し本になるかなと思っていたら、とりあえずつらつらと読み流してしまった(苦笑)。ギリシア神話とその延長線上にある哲学・悲劇の伝統を題材に、そこに根源的な権力構造の投影を読み取ろうという趣向(と見た)。とりわけ問題になっているのは、国家・王政の創設神話。リシールの解釈によれば、これは神々の世界からの一種の「縮減」として描き出される。複数が併存するのが普通とされる土着の神話は、ヘシオドスの『神統記』が行ったように、統合・縮減のプロセスを経て単一的な創成神話を形成していく。それは拮抗する土着の神々に対して距離を取るという構図でもある。都市国家の創成神話はいずれも同じ構図を有し、そこでは荒ぶる神々から人間の王への縮減が問題になる。それはさらに正統なる為政者を不当なる圧制者(暴君)から引き離す構図にもなるのだけれど、プラトンが『国家』で論じているように(571c)、その圧制者というのは一種の根源的な獣性・無秩序を表し、いわば正統なる王のダークサイド、非覚醒状態(催眠状態:hypnose)をなしている、とされる。リシールはこれを超越論的催眠状態(hyponose transcendentale)と称し、そこからの離脱、覚醒、「統覚」(aperception)への道行きを探ろうとする。で、そうした超越論的睡眠状態を骨抜きにするのは、たとえばギリシア悲劇の感覚や情感の洗練なのではないか、と……。

なるほどこれは神話学的な分析でもなければ精神分析学的な解釈でもない。創成神話が示す象徴構造の意味論、つまり象徴と、それと不可分な(しかもそれを下支えする)隠れた裏側との緊張状態を浮かび上がらせようという目論みのように見える。つまりは創成神話の英雄と荒ぶる神々の縮減的結びつき、あるいは悪しき圧制者と正統な為政者を分かつ「超越論的催眠状態」……。そういう意味でこれは確かに「現象学」的な読解ではある。とはいえ(リシールの全体像とか知らないのでナンだけれど)、企図としては大胆かつ動的な読み方のように感じられるものの、その文章から受ける印象は緻密かつとても静的なもの。このあたりの落差は何なのかちょっと腑に落ちない読後感も……。うーん、もう少し読み直したりして改めて考えてみることにしよう(苦笑)。

井筒俊彦伝

夏休み読書の一環もかねて、若松英輔『井筒俊彦ーー叡智の哲学』(慶應義塾大学出版会、2011)を読む。なんとも読み応え十分の一大評伝。というか、井筒氏が研究対象として取り上げた思想家や同時代的な人脈なども絡めて、その思想の足跡にとどまらず、時代的な空気のようなものまで活写しようという大胆なもの。下手をすると、まるで単なる連想つながりでしかないかのように別の思想家・同時代人などが召還されたりもし、そうした寄り道のようなパッセージがまた良い味を出していてまったく飽きさせない。その上で、全体を貫くしっかりとしたテーマも一本筋が通っている。枝葉に遊ぶ快楽と、幹を追う喜びとをまさに一本の大樹のように味わうことができる。

その一本の筋とは、井筒思想における神秘思想の位置づけだ。神秘家は現実界から絶対的境地へと向かう「向上道」だけではだめで、「むしろ絶対的境地から現実界に戻り、世界を「イデア化」する「向下道」にこそ、神秘家の使命の使命がある」(p.353)という。「叡知界を現実界的に開示する」(同)というその信念もしくは哲学こそが井筒にとっての神秘主義であり、別の箇所によればそれはまさに「宗教的脱構築の異名」(p.289)だったのだという。またさらに、こんな一節もあって興味はつきない。「超越論的世界である想像界で生起したことは、現象となって現実的世界に生起する。逆もときには起こり得る。そこに介入できるのは「祈り」である。私たち人間は、想像界の「現実」を垣間見るために、「超歴史的」次元を通過しなければならない。しかし、そこで私たちは、現実界的概念の解体を迫られるのである」(p.261)。「祈り」の現象学にとって、なんと示唆に満ちた一節であることか!(笑)