「見・聞・読・食」カテゴリーアーカイブ

時間表現へのアプローチ

時間の言語学: メタファーから読みとく (ちくま新書1246)空き時間にKindleで読んでいた瀬戸賢一『時間の言語学: メタファーから読みとく (ちくま新書1246)』(筑摩書房、2017)。これが小粒ながらぴりりと辛い山椒のような一冊で、とても好感をもった。著者はレトリック研究を主に手がけてきた言語学者・英語学者。日本語表現を中心に、さらには英語表現などをも普遍的に捉え、時間の表象がどのようになされているかという問題を扱っている。内容的に大きなポイントとなるのは二つ。一つは時間の「流れ」の表象・メタファーについて。時間が流れるという場合の、未来から過去へと流れこんでくる方向性と、人間が時間の中を進んでいく場合の、過去から未来へと進んでいく方向性の二つを浮かび上がらせ、それらの織りなしが問題とするなど、認識論的に大変面白い問題を投げかけている。もう一つは、「時は金なり」という、ある意味資本主義を反映・下支えしているメタファーへの批判。資本主義がある意味行き詰まりを予感させる昨今において、これからの世界に必要なのは、それに変わる別のメタファーではないか、として興味深い提案を示している。メタファー研究から投げかけられる、新たな認識的転回の提言。こういう、ある意味地味なところから大きな展望が開かれるという、その様がなんとも素晴らしい。良書。

【雑記】言語の力

公開中の映画『メッセージ』(原題:Arrival、ドニ・ヴィルヌーヴ監督作品、2016)を観た。主人公が言語学者のSF。言語学者を主人公に据えた作品は『アリスのままで』(グラッツァー&ウェストモアランド監督作品、2014)もあったけれど、そちらはアルツハイマー病の話。これも人の尊厳や人格的同一性についての問題提起の映画ではあったけれど、言語学的・言語哲学的に踏み込んでいくわけではなく、言語学者という設定が生かし切れていたかどうかは微妙なところでもあった。一方、今回の映画は、未知の生命体とのファーストコンタクトを題材に、まさに言語と認識の問題に(もちろんほんの少しだけではあるけれど)立ち入っていこうとしている。エンターテインメントだけれど、それはそれで好感が持てる。仮にそんなファーストコンタクトが現実にあったとしたら、同作に描かれたように、やはり軍が先頭に立って指揮するだろうし、言語学者・記号学者も動員されるだろう。そのあたりは、なるほどそれなりにリアリティがあるかもしれない。音声の区切りすらわからない状況で、最初の意思疎通を図るために、文字を見せる(幾何学図形とかではなしに)というのも秀逸なアイデアだ。もっとも、フィクションの要をなす嘘もあって、劇中で言及されるサピア=ウォーフの仮説は、現実の認識は言語の枠組みによって制約を受ける、というもので、言語がある種の認識能力を導く・開花させるという話ではないと思うのだけれど、映画ではこれが拡大的に解釈されて終盤に重要な役割を果たしていく。言語の力といったテーマが全体を貫き、まさにカナダ人監督の多言語環境あってこその一作という気もするし、また、ここには完全言語(神の言語、アダムの言語)をめぐる長い伝統の息づかいも感じられる。

個人的にはまた音楽がよかった。ミニマル・ミュージック的・環境音楽的な流れとドローン(通低音)が、独特な雰囲気を盛り上げている。というわけで、サントラを挙げておく。

ユイスマンスの「回心」

ユイスマンスとオカルティズム昨年の1月ごろにユイスマンスを取り上げたが、それから一年(以上)越しで大野英士『ユイスマンスとオカルティズム』(新評論、2010)を読了した(苦笑)。オカルト思想からカトリックへと「回心」したとされるユイスマンスだが、同書はそれがいかにしてなされたのかという問題に、時代背景から作家の実人生、精神分析的解釈、作品とその草稿を読み比べなどを通じて多面的にアプローチする、実直・堅実かつ重厚な一冊だ。ユイスマンスが接した「オカルト」と、その後のカトリックへの回心を貫く一つのキーワードとして、19世紀後半に流布した「流体」概念があった、と同書の著者は見る。「流体」は固有の形態をもたない物体とされる。ユイスマンスと親交のあったブーラン元神父という異端派の教祖が説教などで用いているというが、この概念には当時のパスツールによる微生物の発見などが絡み、ある種の独特な不可視の想像領域が形成されていたらしい。流体概念にはまた、メスマーが動物磁気などと呼んでいたものなどの系譜もあって、これも遡ればパラケルススやヘルモントなどから続いているし、著者によれば、ユイスマンス以降も、それは生気論などの一種の<変奏>などを経て、催眠術などの系譜へと受け継がれ、フロイトのリビドー概念、あるいはバタイユの「異質的な現実」概念などにも残響が刻まれていくという。

これと、ユイスマンス個人の「閉鎖された空間」への嗜好とが合わさって、小説内でのカトリックへの回心の記述は、流体的・神秘主義的なもの(どこか異端的な香りもするマリア信仰)として、ある種の一貫性をもつ動きとして記されていく。そこにはユイスマンスが多用する自作からの引用・転用の数々も絡み、また改宗後はブーラン的な異端を示すような記述が削除され(発表前に聖職者に見せて意見をもらったりしているのだとか)、と同時にいっそうのディテールへの拘りが前景化していくといった別筋の動きも絡み、重層的な文学空間が醸し出されていく……。もちろん、実人生での「回心」がどうだったのかはそれらから推測するしかないわけだろうけれど、テキストレベルでのそうした回心劇が、どのような文脈・概念・間テキスト性の上に構築されていたかを詳細にたどっていくのは、それだけでも実に読み応えがある。

一応、実人生での回心のキーのようなものもないわけではないようで、たとえばユイスマンスが衝撃を受け、回心に向けて大きな影響を受けたというグリューネヴァルト(16世紀の画家)の磔刑図があるという。有名なイッセンハイムの祭壇画ではなく、グリューネヴァルトの最後の磔刑図とされるもの。著者はこれをラカン的なキリスト受難の解釈に寄せて論じている。その解釈の是非は直ちには判断できないが、ともかくも、ユイスマンスがそこでもまた神秘主義的な嗜好からマリアのほうを向いていることは注目される。

Mathias Grünewald, Crucifixion, 1523–25

追記ーー言葉三題

前回取り上げたモンゴメリ『翻訳のダイナミズムは、第三部もなかなか面白く、英語一つとってみても地域ごとの多様性に満ちあふれているということ(ある意味当たり前の話ではあるが)を、インドの科学論文の表現と、英米の標準的な論文表現との対比を例に示している。前者から後者への書き換え例なども示されているが、そこから浮かび上がるのは、大筋は同一内容でも、それら局所形と標準形とで必ずしも同じ認識が示されているわけではないということ(これまた当たり前ではあるが)。後者の言説の普遍形に、前者の文化・言語的な現実が抵抗を示している、と著者は見ている。さらにフランス語での地質学の論文の例を挙げ、その逐語的英訳と、英米流に書き直したものを対比し、フランス語文の「作家性」(美しく語を用いるという意識)や言外の意味が、後者ではそぎ落とされていく実例を示してもいる。「近代性のきらめきの下に目をやれば、科学テクストにも、レトリックの機微や論理の踏み外し、思わせぶりな用語に半端な繋ぎ方、大きな社会への訴えのほか、(中略)哲学表現や美的技巧にあふれているのだ」(p.386)と著者は言う。

知の歴史学それにしても英米の標準とされる英語は、ある種の無駄を徹底的に省くというスタイルであることを改めて感じさせる。これに関連して思い出したのが、前にも取り上げたことのあるイアン・ハッキング『知の歴史学』(出口康夫、大西琢朗、渡辺一弘訳、岩波書店、2012)に収録された論考。「歴史家にとっての「スタイル」、哲学者にとっての「スタイル」」(第12章)というそれは、たとえば学問分野が違えばまずもって論述の、あるいは推論のスタイル(平たく言えば事象の捉え方か)は異なり(もちろんそれは分野だけではなく、個人やその他の諸活動に敷衍できるものだが)、そのスタイルこそがある種の文の実証性を獲得させるものだということを論じてみせている。ある推論のスタイルが導いた、特定の種類の文が真であるのは、そのスタイルによって担保されるのだというのだ。ゆえにスタイルは「客観性の基準となる」(p.378)のだ、と。スタイルは知識そのものよりも安定しているとされるが、それ自体変わらないものでは必ずしもない。この「スタイル」の観点は、同一の学問領域での地域差などにも応用できるかもしれない。上の英米の標準的表現もまた、スタイル的な担保の観点から解釈することで(スタイル概念をハッキングのものよりも少し狭く取る必要もあるだろうけれど)、安定性のメカニズムをより厳密に明らかにし、翻って標準的表現の地域性なり限定性なりを浮かび上がらせ、英語圏内での相対化を図るよう仕向けることもできるのではないか、と……。モンゴメリの議論はまさにそういった問題圏の入り口へと踏み込んでいるように思われる。ちなみにハッキングはスタイルの「自己安定化テクニック」について語り、それに関連して「捨て去られたスタイル」(ルネサンス期の医学、魔術など)を探求する方途を示唆したりもしている。また、さらにそれを広義の人類学へと開いていく途を思い描いていたりもする。

ハッキングの同書は、第10章「根底的誤訳など現実にあったのか」もまた至極面白い。クック船長がオーストラリアで見慣れない生き物を指して原住民に尋ねたとき、原住民は「カンガルー」と言ったためにそれはカンガルーと命名されたが、それは実は現地語での「何て言った?」の意味だった、という逸話が、実は神話にすぎないことを説き証している。カンガルーは現地語で「ガングゥールー」というのだそうで、直示不良(とハッキングはそうした誤解を呼ぶ)ではない、という話。マダガスカルのインドリという動物にも同じような話があって、原住民が「あそこにいるぞ」と言った言葉が「イン・ドリ」で、それを聞いた博物学者ピエール・ソヌラが誤解したのだという。実はこれも同じような事例らしく(この話は辞書にまで載っていてタチが悪いようなのだが)、マダガスカル語の「エンドリナ」(キツネザルの一種)に由来していたという説もあるという。フランス語の明かり窓(vasistas)が、ドイツ語の「それは何(Was ist Das?)」から来ているという話も類似の例で、確かにそこに由来はするものの、外にある何かを見るもの、という機能に結びついた言葉であって、窓そのものが何かと問われていたわけではないらしい。こういう誤解というか、直示不良の罠というのはいろいろありそうだ。もちろん直示不良そのものはあってもおかしくないし、現にときおり生じるわけなのだけれど……。

中国古典の画論を愉しむ

画論 (中国古典新書)ずいぶん前だけれど、以前とある翻訳作業の参考文献として購入した古原宏伸『画論 (中国古典新書)』(明徳出版社、1973)を、改めて引っ張り出して眺めている。書画に関する古人の論を集めたアンソロジーだ。先に古典のアンソロジーは愉しいという話をしたが、これなどもとても面白い。個人的には漢籍の素養というのはあまりないのだけれど、少しこういうアンソロジーでもって慣れていくのもいいかなと思っている。同書には様々な書籍のほんのさわりの部分が収められていて、それぞれは本文、読み下し文、訳、解説から構成されている(昔の漢文のテキストブックのようだ)。たとえば総論として巻頭を飾っているのは、張彦遠(9世紀の画家)の『歴代名画記』からの一節。そこでは、画と書が根源においては一体で分かれていなかったとされている。個人的に興味深いのは、石濤(17世紀後半に活躍した画家)による『画語録』からの「一画の章第一」。画法の基本は一画、つまり一本の筆線であるとする議論。それは存在の根本、形の根源であるとされる。こういうのを読むと、いろいろな形象の記憶が脳裏に浮かんでくる。たとえば児童が絵を描くときに最初に書き入れるという大地を表す根源の分割線とか、洞窟絵画で自然の線描を利用・延長して形象を書き入れていくときの律動のようなものとか……。一画は宇宙の果てまでもおさめてしまうとも言い、一画に始まって一画に終わらないものはない、とされる。うーむ、この概念の広がり、途方もなさ。また気韻論というのも興味深い。画面に漂う生命感・躍動感などのことを言うようなのだが、郭若虚(11世紀)の『図面見聞志』の一節からは、気韻が画面にゆきわたっていなければ、ただの職人仕事でしかなく、画とはいっても画ではないとされていて、職人仕事と芸術としての画がすでにして分かたれていること、それを分かつキーとなるのがその気韻の概念なのだということが示されている。