思うところあって、サラ・L・アッケルマン「中世の対話論理」(Sara L. Uckelman, Interactive Logic in the Middle Ages, published online, 2011)という論文を見てみた。現代の論理学の一つの潮流として、静的・理論的な論理学から、より動的な、現実世界の状況に応用するための体系へのシフトというのがあるそうなのだが、そうしたゲーム的な対話論理学が盛んに取り上げられていたのが実は中世後期、13世紀半ばから14世紀半ばだったという話。この論文は、そうした中世の対話形式の代表例として、「オブリガティオ」(義務づけ、拘束)による議論というものを紹介し、まとめている。オブリガティオでは、対立者と応答者を要し、それらが順番に対話を構成していく。まず対立者がなんらかの命題を出し、それに対して応答者は予め決められたルールにもとづき「同意」「拒絶」「疑義」などを示すのだという。いわばディベート形式の先駆のようなもの(なのかしら)。で、その形式やルールについての研究が中世では広く散見されるのだそうで、たとえばソフィスマタ(謬論)などにも、オブリガティオ型の推論が多々見られるという。
久々に論理学系の論考を眺めてみる。カタリナ・ドゥティル・ノヴァエス「嘘つきのパラドクスの中世の解法から学ぶ、真理についての教訓」(Catarina Dutilh Novaes, Lessons on truth from Medieval Solutions to the Liar Paradox, The Philosophical Quarterly Vol.61 No.242, 2011)というもの。ブラッドワーディン、ビュリダン、ザクセンのアルベルトなどによる真理論を、「嘘つきのパラドクス」の場合を中心に概観するという内容。枝葉を端折ってメインストリームだけを追っておくと、まず著者によれば、命題の真偽解釈に量化(命題に「すべての〜」とか「ある〜」とかいった量化詞を付す)を持ち込んだ最初の中世人は、14世紀の英国の神学者ブラッドワーディンだったという。ブラッドワーディンは文(論理式)の真偽を、それぞれ文が意味する中身が「普遍量化詞」(すべて)を伴うか、それとも「存在量化詞」(少なくとも一つ)を伴うかに対応させて説明しているという。前者が真の場合で、後者は偽の場合だというわけだ。14世紀にはそうした量化詞をともなう文のヴァリアントを考えることが一般化していく。ところがこれに対してビュリダンは、共代示(co-supposition)というまったく別の枠組みから真偽問題を検討する。つまり、項の意味論にのみ注目し、主辞と賓辞の代示が同じものを指すことをもって真、そうではない場合を偽と考える。なるほどこれは実在論と唯名論の、形を変えた対立のようでもある。
「conscience」と聞くと、仏語だと「意識」と「良心」の両方の意味が残っている一方で、英語ではもっぱら後者の意味になるわけだけど(意識のほうはconsciousとかconsciousnessが一般的か)、ラテン語のconscientiaは両方の意味を保っている。で、史的に見れば、どうやら哲学的な議論が意識の問題と倫理学の問題とに分かれていくのは中世を境にしてのことで、ちょうどラテン語のconscientiaが両義的であるように、「良心」という当時のスタンダードテーマはそれらの狭間に位置していたらしい。このことを取り上げているのが、ティモシー・C・ポッツ『中世哲学における良心』(Timothy C. Potts, Conscience in Medieval Philosophy, Cambridge University Press, 1980)という一冊(とはいえ、全体は未見なのだけれど)。ロンバルドゥスとヒエロニムス、尚書院長フィリップ、ボナヴェントゥラ、アクィナスなどの良心論を、論考と翻訳で紹介するというもの。そのうちロンバルドゥスとヒエロニムスを扱った最初の一章がPDFで公開されている。なにやらラフスケッチのような論考だけれども、ちょっと示唆的な部分もあるので、いちおうメモを(笑)。
またまた面白い論文。イレーヌ・ロジエ=カタシュ「中世における質料的代示と自己指示の問題」(Irène Rosier-Catach, La Suppositio materialis et la Question de l’Autonymie au Moyen Âge, Paper for the congress “Le fait autonymique dans les langues et les discours”, 5–7 October 2000, Paris, Université de la Sorbonne nouvelle)(PDFはこちら)というもの。ある意味語学研究の類に括ってもよい論考なのだけれど、中世(とりわけ12世紀から13世紀)にあっては、それはまた当然のように哲学・神学に直接関係する問題系をも織りなしている。で、ここで取り上げられているのは質料的代示。これは要するに、単語が外的な事物ではなく、その語彙そのものを表すような場合を言う(たとえば「人間は名詞である」という場合の「人間」は、特定もしくは一般の人間を表すのではなく、「人間」という当の言葉を表している)。質料的代示の成立には、当然ながら当時の文法学の記述における自己指示の問題が絡んでくる。トマスなどにも見られる、語そのものを指す指示詞としてlyもしくはli(もとはフランス語)がラテン語に導入されるのも同時期なら、自己指示への論究が増えてくるのもその時期。というわけで著者は、様々な論者が自己指示や質料的代示をどう扱っていたのかを俯瞰していく。
前回の「非存在主義」とかビュリダンの話にも関連するのだけれど、スコトゥスによる「名称論」に関する論考があるというので早速覗いてみているところ。ジョルジョ・ピニ「ドゥンス・スコトゥスおよび一部同時代人らにおける名前の意味」というもの(Giorgio Pini (2001) Signication of Names in Duns Scotus and Some of His Contemporaries, Vivarium, 39(1), p.20-51.)(PDFはこちらに)。とりあえず前半だけ。ものの名称は一体何を表しているのかという問題は、13世紀ごろ盛んに議論された問題。なにしろそこには認識論(というか、またしてもスペキエス問題)が絡み、やや複雑な様相となっている。同論考では、アリストテレスの『解釈について』の注釈でその義論に参戦したドゥンス・スコトゥスによる整理を追いながら、スコトゥス自身の立場を明らかにしようとする。当時の議論としては、(1)名称が一義的に表すのは知的スペキエス(可知的形象)であるという立場と、いやいや(2)外部の事物そのものであるという立場に分かれ、この後者はさらに、(2a)そこで名称が意味するのは外部世界の個物だという立場と、(2b)そうではなく理解・認識される限りでの事物の本質なのだという立場に分かれるという。13世紀前半はスペキエス論寄りの(1)が優勢らしいのだけれど、トマス以降は(2b)などにシフトしている模様。ただ、理解・認識をどう捉えるかによっては、これは(1)のスペキエス理論にかなり接近してしまう場合もあるようだ。スコトゥスはどうかというと、どれを支持するのか微妙に曖昧で、アリストテレスの正確な解釈としては(1)が、けれども全般的な議論としては(2)、とりわけ(2b)(?)が優れているといった立ち位置らしい。