前回、ちょっとばかりジョングルール論を見たので、ついでながらゴリアール(放浪学生)がらみの論考もなんかないかしらと思ったのだけれど、見つけたのは、ゴリアールたちそのものの研究ではなく、ゴリアールという名称のもととなったとされる、架空の人物「ゴリアス司教」の寓話詩に関連した研究(笑)。エドワード・サイナン「ゴリヤールの証人:『ゴリアス司教の変身』におけるマルティアヌス・カペラ『メルクリウスとフィロロギアの結婚』」(Edward A. Synans, A Goliard Witness: The De Nuptiis Philologiae et Mercurii of Martianus Capella in the Methamorphosis Golye Episcopi, Florilegium, vol.2, 1980)というもの。『ゴリアス司教の変身』(metamorphosis golye episcopi)というのは、一二世紀に書かれたらしい作者不詳の詩。一応ゴリアス司教の筆になるとされているわけだけれど。タイトルこそアプレイウスの『変身物語』を彷彿とさせるものの、中身は変身物語とはまったく関係がなく、むしろ論文の表題にもあるように、マルティアヌス・カペラのその寓話の最初の部分が下敷きとなっている。論文著者によれば、カペラがアプレイウスを下敷きにし、またそのゴリアス司教(仮)もカペラ以外の部分はアプレイウスに依拠しているところから、このタイトルになったのではないかという話。論考はゴリヤール韻律で書かれたそのスタンツァを結構細かく検討していく(巻末には全訳付き)。面白いのは婚礼に招かれる者として挙げられているリスト。古来の哲学者、ラテン詩人、そして同時代人(一二世紀の)たちがリストアップされ、アベラールなども入っている。この詩が書かれた当時、アベラールが師匠のロスリンやギヨーム・ド・シャンポーを議論で打ち負かしたことはよく知られていたようで、アベラールは「われらがポルフュリオス」と呼ばれて人気を博していたことが、そのスタンツァからも窺えるという。一方、アベラールへの敵対者としては、クレルヴォーのベルナールの扱いは雑だという。いずれにしてもそうした記述から、著作の成立時期が窺える可能性もあるという。
ラルフ・ノーマン「アベラールの遺産:なぜ神学は、理解を求める信仰ではないのか」(Ralph Norman, Abelard’s Legacy: Why Theology is not Faith Seeking Understanding, Australian eJournal of Theology, 10, 2007)という論考を眺めてみた。ちょっと意外なのだけれど、「神学(テオロギア)」という言葉は、たとえばアンセルムス(11世紀)などにおいては一度も正面切って使われていないのだという。西欧においてその言葉が用いられるのは、事実上12世紀のフランスで活躍したアベラールからだったというが、とはいえその用語は、一般に言われるような「信仰を通じて理解を求める上での学知」というような意味合いではまったくなかったという。うーん、アベラールから?そうだったっけ(もちろん、アリストテレスが『形而上学』においてテオロギケーを用いているとかは、さしあたり脇に置いておく)。とりあえず著者の議論を追っておくと、アベラールはそれを神の本性をめぐる論考のタイトルに用い、さらにキリスト教教義の様々な面に関する問題(議論)の意味でも用いているという。要するにそれは教義の正当性を示すために用いられる理性的議論のことで、アベラールの『然りと否』が示すように、それまで問われることのなかった、教父の権威にもとづくキリスト教世界の世界観への批判的攻撃を意味していた。で、論文著者は、この権威への疑念こそがスコラ学の方法論の鍵であり、しかもそれは一二世紀の否定神学を強化することにもなった、と見ている。
キケロは12世紀ごろにおいても、ソールズベリーのジョンとかいろいろな人々に影響を及ぼし続けているとされ、それはときに「キケロ主義」として括れたりもするけれど、思想面ではなかなか具体的な事例としては析出できなかったりもする。ならばもっとレトリカルな面、文章レベルでの影響関係はどうか、といった点が気になるけれど、まさにそれとの関連、キケロの雄弁術(レトリック)との絡みで、俗語で書かれた中世のいくつかの聖人伝を取り上げてみせた論文が紹介されていた。さっそくざっと目を通してみる。キャスリン・ヒル・マッキンレー「キケロ的雄弁術と中世フランスの聖人伝」(Kathryn Hill McKinley, Ciceronian rhetoric and the art of medieval French hagiography, PhD Dissertation, University of Maryland, 2007)というもの。具体的には、12世紀〜13世紀ごろに北部フランス語方言(アングロ・ノルマン語など)で記された、女性の殉教者を描いた聖人伝をいくつか取り上げ(バーキングのクレメンスによる聖カタリナ伝、逸名作者による聖アグネス伝、聖バルバラ伝−−いずれも4世紀の聖女たちだ−−、さらにベギン修道会関連でジャック・ド・ヴィトリによるオワニーのマリー伝、ポルスレのフィリピーヌによる聖ドゥスリーヌ伝)、それらにキケロの雄弁術の伝統がどう息づいているかを論じている。なるほど、聖女たちは殉教に先だって裁判にかけられたりするわけだけれど、そこで彼女らは「雄弁家」として振るまい、まさしくキケロ的な雄弁を見事にふるってみせる。つまりそこには、聖人伝作者が学んだ雄弁術の素養が示されているとともに、登場人物である聖女たちみずからがそうした雄弁術を体現し、二重に伝統に与しているというわけだ。しかもそれらが世俗語で書かれていることも見逃せない。つまりは世俗語が古典的伝統を取り込む契機になっているほか、後にはその伝統が独自の散文形式を生み出す母体となるのだ、と。
少し前に見かけた論文に、アングロ・ノルマン語を扱ったものがあった。リチャード・イングハム「中世イングランドにおけるフランス語のステータス:目的語代名詞の用法からの論証」(Richard Ingham, The status of French in medieval England: evidence from the use of object pronoun syntax, Vox Romanica vol.65, 2006)(PDFはこちら)というもの。アングロ・ノルマン語というと、ノルマン征服の時代にイングランドに伝わったオイル語(北フランス古語)の一方言が母体となった、いわばフランス古語の変種。12世紀からイングランドの貴族階級に使われるようになり(韻文の文芸作品などが残っている)、その後も15世紀くらいまで行政語、文書語として活用されていたという(まさにダイグロシアだ)。同論文は言語学系の細かい議論が中心だが、一言で言うと、アングロ・ノルマン語での目的語をなす代名詞の構文上の位置取りが、14世紀ごろまで大陸のフランス語での変化(不定詞句で動詞の前になる)に沿って変化していることを示している。この一見些細な論証は、実はもっと大きなパースペクティブを開くものなのだという。アングロ・ノルマン語が英語の影響を受けずに独立していることが示されるし、それが14世紀ごろまで、純粋な外国語として習得されていたのではない可能性も開かれる。これはつまり、代名詞の構文上の位置は外国語として習得した場合の弱点の一つとなるのに、そういう誤りが14世紀ごろまで見られないということ。使い手は大陸のネイティブに近い言語運用能力を持っていた、ということになる。1362年に裁判が正式に英語でなされることが決まったのが転機となってアングロ・ノルマン語は衰退し、15世紀になると、不完全な第二言語に見られるミスが散見されるようになるのだという。うーむ、ダイグロシアの微細な変遷が垣間見える一例として興味深い。