「象徴史・物質論など」カテゴリーアーカイブ

オリヴィの質料論 – 2

2日間にわたり用事で田舎へ。行き帰りなどに、少し前に挙げたオリヴィ『質料論』を読み進める。『命題集第二巻問題集』の長大な問一六の、異論、反対異論ときて、自説が述べられる答弁部分。そのまだ半分に差し掛かったあたりだ。うーむ、まだまだ先は長い。でもその中心的な考え方は見えてきた。オリヴィの考える質料とは、たとえば蝋の塊のように、それ自体で現実態ではあるものの、同時に可能態でもあるもの、つまり形相を受け取ることによってより高い完成へと向かう傾向(inclinatio)をもつもの、ということらしい。オリヴィの解釈では、アリストテレスすらも質料を純粋な可能態とはしていないとされる。すでいしてそれは実体、複合体であり、さらなる完成のために形相を受け取るということで、それは形相の付加ということになり、こうなるとモノの本質と偶有との区別もあいまいになってくる……。自説部分の全体はこの後どうやら天使(オリヴィ以前には質料をもたないとされていた)をめぐる議論になっていくようだ。というわけで、それはまた後日メモることにしよう。

オリヴィの質料論

昨年羅仏対訳本で出たペトルス・ヨハネス・オリヴィの『質料論』(Pierre de Jean Olivi, “La matière”, trad. T. Suarez-Nani et al., Vrin, 2009を読み始める。これはオリヴィの主著『命題集第二巻問題集』から、問題16から21を採録したもの。問題16は「天使のほかすべての知的実体は質料と形相から成るかどうか」というもので、これが採録テキストのかなりの分量を占めている。まだほんの最初の部分しか目を通していないけれど、のっけからぐいぐい引き込まれる。興味深いのは、メルマガでもちょっと触れたけれど、オリヴィが質料を無定形のものとは見ず、むしろ質料を不完全な現実態として扱い、形相との区分をどこかあいまいなものと見なし(相対化し?)再考していること。形相は本質的部分、質料は偶有的な部分を担うという従来の図式についても、現実においては基体はすべて偶有によって形相を受け取る以上、先行部分(本質)が後から来るもの(偶有)に依存することになる、みたいに言い、ある種の価値転覆のようなことをやっている(のかな?)。うーむ、ちょっと強烈。これまた読みながらメモしていこうかなと。

アートの黎明へ

再びブールノワの『イメージの向こう側』からメモ。終盤の八章、九章に目を通す。物質的なイメージ(つまり絵画とか彫像とか)がそれ自体の価値をもつようになるには、一つにはその作り手がなんらかの価値を纏うようにならなければいけない。ところが中世盛期以前の神学では、人の手による「像」に美のような価値が付される議論は出てこず、すべての美は創造者としての神が一手に握っているとされたまま。とはいえ、やがて職人に創造性を認めるような議論が登場してくる。その先鞭をつけたのはドゥンス・スコトゥスらしい。神の中にあるイデアがモデルもしくは本質として先行するという通念を、スコトゥスは批判しひっくり返す(イデアはモデルではなくあくまで認識対象として神のうちにあるという立場)。オリヴィが絵画技法の理論的支えを示していたという話が前に出てきたれけど、その意味では、このオリヴィ=スコトゥスのラインは鉄壁かも(笑)。で、これをオッカムが拡張し(イデアは事物そのもののことで、先行などしないという立場)、創造におけるモデルの考え方が根本的に葬られる。こうなると、神はみずからの内に存在しないものを創り出すのだということになり、やがて(これとは多少違う路線からだけれど)、クザーヌスが人為的な営為もまた神の創造に比されるということを言い出す。人は作り手の職人として神の似像だというわけだ。こうして職人的な価値が高まる契機が作られる(八章)。

これとは別筋に、やはりスコトゥスが、エギディウス・ロマヌス(トマス派)の「痕跡(心的印象)が普遍を表す」という論(?)を批判する。と同時代的にガンのヘンリクスが知的スペキエスを批判する。サン=プルサンのドゥランドゥスも、「視覚が捉えるのはスペキエスではなく物体そのものだ」として、モノと認識の中間物(像)を否定する。これも完全否定にいたるのはオッカム。こうして心的な中間物が取り除かれてしまうと、たとえば物質的な像を通して彼方の神を崇めるという図式も崩れだし、像は像でしかなく、描かれた対象とは別ものだということになる(ドゥランドゥス)。崇める対象はあくまで像が喚起する「対象の記憶」なのだから、像はそれを喚起しさえすればよい。神は不可視であることが、神の像から思い出されればよい。かくして14世紀には父なる神の姿まで描いた絵画も登場し、神学者たちはこれを問題視するようになる(ホルコットやウィクリフ)……(九章)。絵画の世俗化はもうすぐ目の前か。

イメージ「崇拝」史

このところまとまった時間が取れないので、逆にゆっくり読めている(笑)ブールノワの『イメージの向こう側』(イメージを越えて、というより、内容的には向こう側としたほうが良い気がしてきたので変更(苦笑))は、期待以上に勉強になっている感じで、個人的には好著だと思う。5章目と6章目はイメージの「崇拝」をめぐる考察史。この二つの章の間には、間奏のような文章が挟んであって(第二部と第三部の切れ目なので)、これがとても刺激的だ。中世の絵画では、遠近法の代わりに描かれる人物や事象の重要度で画面に占める大きさが決まるという手法が用いられているとよく言われるけれど、そうした手法の理論的な支えというのはどこにあったのかしらという疑問が前からあった。で、この文章によると、一例としてそれがペトルス・ヨハネス・オリヴィの文章に見られるのだという。おー、これは個人的には新しい知見だ。先日の八木氏の新著でも、スコトゥスの思想的基礎をもたらした人物としてオリヴィが取り上げられていたし、オリヴィはとても重要かもしれないなあ、と改めて。

5章ではビザンツのイコン崇拝や偶像破壊論の議論と対比する形で、西欧の特徴が論じられる。像とその崇拝とを分けて考える思考方法は尊者ベーダから始まり、大グレゴリウスに引き継がれ、教皇ハドリアヌス1世によって定式化される。一方、同時代のいわゆる「カロリンガ文書」(Libri Carolini)には、ビザンツ型のイコン崇拝をいっさい認めない強硬な立場が見られるのだという。そうした立場にも幾人かの継承者が出てくるも、教皇側の動きなどから徐々に追いやられ、やがて「カロリンガ文書」は引用すらされなくなり、著者によれば西欧にとっての「無意識」になっていったという。像の崇拝への道がさらに広く開かれるのは、6章で扱う13世紀になってから。1241年と44年に、「神の本質は人も天使も目にできない」という命題に対してパリ大学の教師たちから異論の声が上がり、オーベルニュのギヨームなどを中心に、後のいわゆる「直感認識」の理論が練り上げられていくのだという。著者はこれを、ポルピュリオス的な神論(アウグスティヌスが継いだ)による、プロクロス的な神論(偽ディオニュシオス文書が継いだ)に対する勝利と称している(早い話が否定神学に対する肯定神学の勝利っすね)。これは感覚的世界の掬い上げという副産物をもたらしたようで、トマスなどが用いる知的スペキエスの概念(もとはアヴェロエスとかだけれど)が一般化する背景もそのあたりにあるのではという感じだ。このあたりはもっと詳しく見たい気がするけれど、さしあたりのポイントが整理されているところが嬉しい。

修道院的?

ふと、西欧の哲学が論争中心だとするなら、日本のほうはさながら修道院神学のようかもしれないなあ、なんてことを思う。ちょうど先に挙げたブールノアの『イメージを超えて』の第三章が、瞑想と像との関連性について取り上げていて、アウグスティヌスから聖ベネディクトゥス、サン=ヴィクトルのフーゴー、クレルヴォーの聖ベルナールなどをめぐっていく趣向だったため。読むことイコール瞑想とされていたのは聖ベネディクトゥスの修道院規則から。その場合の読むこととは当然聖書の音読だったわけだけれど、音読した句を反芻し吸収するのが瞑想の役割だったとか。これってまさに「理解」ということ。で、聖書を超えて瞑想が広く世界や倫理へと拡大されていくのは12世紀のことだという。音読から黙読への変化も同じ頃。なるほど、かくして12世紀後半から13世紀になると哲学の伝統が大学経由で大々的に持ち込まれ、討論が学知探求の基本となり(アベラールとかが活躍)、瞑想が主体の修道院神学は衰退していくという流れになるのか。日本のような、西欧側からすれば「辺境の地」では、そういう瞑想的営為こそが育まれ残り続けたということからしら。そうだとすると、なにやらこれはとても示唆的な感じもする(って、ちょっと大雑把な括り方かもしれないけれど)。

……大雑把な括りということで、ちょっとついでだけれど、中央公論の2月号(特集は「大学の敗北」)で、養老孟司氏が西欧と日本で大学の起源が違うという話をしていて、日本の大学はもともと法学や医学などの実学指向だけれど一方で西洋において初めて作られたのは神学部だ、みたいに放言している。えー?でもそれってパリ大学とかしか念頭に置いてない話じゃないの?ほかの地域の大学(イタリアとか)では、まず医学部とかまず法学部とかから出来たんだったような気がするんですけどねえ(笑)。後でちょっとリファレンスを確認しようと思うけれど、養老氏のこの括り方はちょっと難ありでは……。