「近代初期・近世のほうへ」カテゴリーアーカイブ

薬剤師と貧困?

夏なので……というわけでもないけれど、ちょっとゆるめに論文読み(笑)。ドミニク・グレース「ロミオと薬剤師」(Dominick M. Grace, Romeo and the Apothecary, Early Theatre, vol.1, issue 1, 1998)は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』で、ロミオがジュリエットの死(仮死)を知らされた後で、みずからも命を絶つための毒を買いに薬剤師のもとを訪れる場面について検討しようというもの。その薬剤師の店の描写がなにやら饒舌で、なんでそんなところが詳しく描かれているのか、プロット上、ロミオの毒の入手元というだけなのに、この手厚い描写は何なのか、というわけだ。で、シェイクスピアが描くその薬剤師は、貧困層の人物として描かれていて、シェイクスピアが元の素材として用いた、英国の16世紀の詩人アーサー・ブルックの詩でも同様だという。シェイクスピアは素材からの逸脱を公言しているらしいのだけれど、ではこの部分はそのままにしている、というかむしろ膨らませているのは一体なぜなのか、と。

文学的解釈では、その殺伐・荒涼とした店の様子が、ジュリエットを失ったロミオの心の状態を写し取っている、みたいに言われている。さらにこの論考の著者は、この薬剤師という存在が劇の構成上、ロミオに錬金術的な策術を吹き込むロレンツォ修道士と二重写しになっていると指摘している。この話はさらに拡張され、舞台からの薬剤師の退場後ほどなくロレンツォが入場することから、両者を同一の役者で演じさせる演出の是非を考察していく……。うーむ、でも、個人的に気になるのは、むしろこの薬剤師と貧困がさらっと結びつけられていること自体だったりする。薬剤師は一般的にそんなに貧しかったのか、あるいは貧しい層と見なされていたのか……そうでなかったら、シェイクスピアは薬剤師の場面を温存せずに改編したかもしれない……(?)。で、その場合、そこに読み込まれているのは、舞台となっている14世紀の薬剤師像なのか、それとも作品が成立した16世紀当時の薬剤師像なのか?うーん、一般に医学と薬学の分離は12世紀末ごろまでには確立されていたというし、当然ながらギルドの存在もあったわけで、薬剤師が貧しいというイメージがあったようにもあまり思えない気がするのだが……。ここから先は史学的な問題。個人的に要検証だなこれは。一方、論文著者の文学的考察は、ロレンツォ修道士との関連で浮かび上がることとして、ロミオの意図的にネガティブな性格が強調され、そのずさんな視野が悲劇的な行為に結びついていることだとまとめている。

『身体養生論』ブザンソン写本から、薬剤師の図
『身体養生論』ブザンソン写本から、薬剤師の図

医療占星術への信頼?

モニカ・アッツォリーニ「星に健康を読む−−ルネサンス期ミラノの政治と医療占星術」(Monica Azzolini, Reading Health in the Stars – Politics and Medical Astrology in Renaissance Milan, Horoscopes and Public Spheres: Essays on the History of Astrology, vol. 42, 2005)という論文を読む。15世紀のミラノにおいて、医療占星術はどういった用いられ方をし、どう受容されていたのかを検討しようという論考。導入部分の掴みとして取り上げられている話がなかなかに興味をそそる。1492年にルドヴィーコ・イル・モーロ(スフォルツァ)は、教皇インノケンティウス八世の病状について占星術史のアンブロージョ・ヴァレージ(Ambrogio Varesi)に予言を依頼した。ヴァレージは教皇の死を予言し、教皇は日時的には前倒しで亡くなったものの、ルドヴィーコは別段その占星術の信頼性を疑うこともなく、一方で「次期教皇はスフォルツァ家に有利な人物になる」という予言に安堵さえし、さらに弟のアスカーニオもその予言を信じて政治的影響力を奮い、ロドリーゴ・ボルジアの選出(アレクサンデル六世)に一役買ったという……。

このように、日時占星術も歴史上重要な役割を担っていたことが窺えるというわけなのだけれど、論文はもう一つの宮廷占星術の中心とされる医療占星術を主に扱っている。そちらもまた、同時代的批判もあったものの、医者も患者も医療占星術を斥けるどころか、先端的な科学と見なされて信頼を得ていたらしい。パヴィア大学の医学部のカリキュラムは史料があまりないらしいのだけれど、論文著者はボローニャとの密接な関係から同じようなカリキュラムが採用されていたと推測している。学生はたとえばガレノスの『厄日について(De diebus criticis)』の三つの書を最初の三年間で学び、三年目と四年目では偽プトレマイオスの『ケンティロクイウム(Centiloquium)』、ギレルムス・アングリクスの『見えない尿について(De urina non visa)』などを占星術の訓練の一環として学んだのだろうという。さらに学生のノートには、多くのアラブ系の占星術文献からの一節が散見されるのだとか。論考はさらにパヴィア公の私設図書館の蔵書を取り上げ、最終的にミラノ公ジアン・ガレアッツォ・スフォルツァの病気と死について、同公がルドヴィーコやアスカーニオに宛てた書簡の分析を行っている。個人的に気になるのは、やはり同時代的にそれなりに存在していたらしい占星術批判だ。論文著者は注のところで、イタリアのエリート層や医師たちが実際にどの程度医療占星術を信頼していたかは、宮廷占星術のさらなる研究がなければ確証できないと述べた上で、医療占星術への批判を展開する著者がそれなりに多いことは、逆にその医療占星術がそれなりの人気を博していたことを示している、とも述べている。代表的な批判者として挙げられているのはピコ・デラ・ミランドラ、またさらに後の16世紀のフラカストロとトゥリニの論争なども言及されている。うん、いろいろチェックしてみたいところだ。

ルドヴィーコ・スフォルツァの肖像(アンヴロジョ・デ・プレディス画)
ルドヴィーコ・スフォルツァの肖像(アンヴロジョ・デ・プレディス画)

デカルト医学?

デカルトあたりになると、やはり研究者の層が厚いこともあって、いろいろと面白い論考が転がっていそうな気がする。そういったものの一つ、PDFで公開されている山田弘明「デカルトと医学」(名古屋大学文学部研究論集、vol.50, 2004)を読んでみる。デカルトと医学の関わりを、その生涯にわたる様々な著作・書簡・ノートなどから拾い上げ、再構築してみせるという主旨の興味深い論考。そもそもデカルトはポワチエ大学で法律と同時に医学の基礎を学んでいた可能性があるのだとか。最初期の著作『精神指導の規則』でも、伝統的な医学についての言及があるという(体液の話や、黄疸と憂鬱質についての話など。後者はモンテーニュ経由かもしくは古代の医学書から直接取得した知識だろうというが、どちらであるかの特定はなされていないようだ)。またアムステルダム時代には解剖学にも関心を示しているという。とはいえ、デカルトは1630年ごろまでには既存のものではない医学思想を追求しようとしており、アリストテレス以来の人間=ミクロコスモスというモデルを斥けているのだという。

その流れで興味深いのは生命原理としての「火」(光なき火)というテーマだ。心臓を炉ととらえ、その中に生命の炎は灯されると言い、さらにその火は微粒子の運動を意味するとされる。デカルトの「機械論」はまさにそうした粒子の物質的運動から全体を見るというものであるわけだけれど、このあたりは確かにどこか、普通は断絶した当のものとして挙げられるアリストテレスの、ある種の解釈の発展形から導かれているような印象も受ける。一方で精神に関しては、デカルトはそれを別次元の実体として捉え、「身体とともに滅するわけではない」みたいなことを述べているし、アリストテレスの影は想像以上に大きい印象なのだが……もちろん、そのあたりの整理もどこかに転がっていそうな気はするけれど……。

またそれとは別に、この論考では、1640年代においてもデカルトが医学研究の同時代的成果に注意を払っていることや、デカルト形而上学と解剖学の間にある種の「相互浸透」が見出されることなども指摘している。この後者は興味深い指摘だ。医学的知見は形而上学の支えになっているといい、一方で形而上学は一つの世界観として医学思想を基礎づけてもいるという。デカルトの伝記にある、肺炎をリューマチと誤診して亡くなったというエピソードをもって、デカルトは医学に関してはまるで素人だという話もそれなりに聞いたりするけれど、実はその学術的な歩みにおいて医学はかなり重要な部分を担っていたという議論こそが、同論文のまさに肝の部分をなしている。で、それが文献的・実証的なアプローチで展開される様子は、なんとも重厚な読み応えだ。

ガリレオ初期の「共有知識」

PDFで公開されている論集『ガリレオと当時の共有知識』(Galileo and the Shared Knowledge of his time, Max-Planck-Institut für Wissenschaftsgeschichte, 2002)(PDFはこちら)から、ヨヒェン・ビュットナー他「不可視の巨人を追う:ガリレオの未刊行論文に見る共有知識」(Jochen Büttner et al. Traces of an Invisible Giant: Shared Knowledge in Galileo’s Unpublished Treatises)をちらちらと眺める。表題の通り、ガリレオの残した未刊行論文から、従来のガリレオ像とは違った見方を、とりわけ当時一般的に共有されていた学知という面から示そうというもの。個人的には、少し前にデカルト論に触れた際にも記しておいたように、研究対象の同時代的な学知的背景の再構築の必要性を改めて感じているせいもあって、とても参考になった。初期の1586年の静力学平衡についての論文や、1587年の重心に関する論文などでは、アルキメデスに心酔している様子が窺えるのだといい、1589年のピサ大学での教授就任以降は、アリストテレスの自然学を盛んに研究しまた普及させようとしているという(1590年ごろの『より古い時代の運動論について』など)。アリストテレスの自然学をめぐる伝統は、数々の修正を経つつ強固に生き残っていて、ガリレオも最初からそれに異を唱えていたわけではなかったことがわかるのだという。若き日のガリレオは、アリストテレスの運動理論とアルキメデスの浮力理論を結びつけようとさえしていたらしい。また、コペルニクスの議論に対するガリレオのスタンスも、時代とともにアンチから支持派へと移り変わっていくのが見てとれるという。コペルニクス思想のガリレオによる擁護は、旧来のドグマとの全面戦争として周到に準備されていたものでも、あるいは新体系への転向といったものでもなく、時代的に共有されていた当時の学知との不可避の出会いから生じたもので、それは同時代人の多くが体験した、それぞれの個別的コンテキストと支配的な世界観を支える天文学的知識との両方から決定づけられた、反応・反動だったのではないか、というわけだ。同論考は確かに、ガリレオの未刊行論文に具体的かつ細かな検討を加えているわけではなく、大まかな図式を取り出すことに重点を置いている。その意味では精度はやや粗く、本来ならむしろ前者のようなものが読みたいところなのだけれど、少なくとも考察のフレームワークを示している点で、同論考が取り組む後者のような姿勢も悪くはない気がしている。「共有知識」はいろいろな研究対象において必要となるキーだ。

ユストゥス・シュステルマンスによるガリレオの肖像(1636)
ユストゥス・シュステルマンスによるガリレオの肖像(1636)

思想の手触り(デカルトへ)

連休の前半ということもあって、積ん読から村上勝三『デカルト形而上学の成立』(講談社学術文庫、2012)を眺めてみた。これは久々に読む本格的な哲学論考。初版は90年だという。1630年の四つの書簡から『省察』にいたるまでのデカルトの思想的歩みを、文章に即して緻密に追っていくといういわば王道の研究書。記述はある種の迫力というか緊張感を湛えていて、読む側をどんどん引き込んでいってしまう。原文に丹念に寄り添い、デカルトのテキストが何を語り、何を語っていないかを切り分けて、その語っていない部分はそのままに、語っている部分をあるがままに見極めようとする手触り感がすごい。たとえば『方法序説』「第4部」の、神の実在と「一般規則」のあたりの話。「橋が見出されない、否、橋が見出されるようには書かれていないこの場所で、橋を見出そう、デカルトの述べるところを踏み越えても橋を架けようとすることに分はあるまい」(p.147)。その上で、デカルトのテキストからその思考の歩みのようなものが再構築されていく。「神についての認識なしには強力な「一般規則」も保証されない。真理を語り出す場を手に入れることができない。神の認識の内容と重要性こそ、デカルトがここで説いて聞かせようとしていることなのである」(同)。あえてこの渾身の読みに補助線を引くことができるとしたら、おそらくその一つは、デカルトが前提としていたであろう同時代的な様々な知識(もちろんそれらも再構成されたものとしての、だけれど)への目配せではないかということを強く感じもする。テキストから浮かび上がるデカルトの思考の歩みは、そうした補助線を引くことでさらに鮮明になっていくのではないか。とまあ、そんなことを考える連休の狭間のなか日……。