夏なので……というわけでもないけれど、ちょっとゆるめに論文読み(笑)。ドミニク・グレース「ロミオと薬剤師」(Dominick M. Grace, Romeo and the Apothecary, Early Theatre, vol.1, issue 1, 1998)は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』で、ロミオがジュリエットの死(仮死)を知らされた後で、みずからも命を絶つための毒を買いに薬剤師のもとを訪れる場面について検討しようというもの。その薬剤師の店の描写がなにやら饒舌で、なんでそんなところが詳しく描かれているのか、プロット上、ロミオの毒の入手元というだけなのに、この手厚い描写は何なのか、というわけだ。で、シェイクスピアが描くその薬剤師は、貧困層の人物として描かれていて、シェイクスピアが元の素材として用いた、英国の16世紀の詩人アーサー・ブルックの詩でも同様だという。シェイクスピアは素材からの逸脱を公言しているらしいのだけれど、ではこの部分はそのままにしている、というかむしろ膨らませているのは一体なぜなのか、と。
モニカ・アッツォリーニ「星に健康を読む−−ルネサンス期ミラノの政治と医療占星術」(Monica Azzolini, Reading Health in the Stars – Politics and Medical Astrology in Renaissance Milan, Horoscopes and Public Spheres: Essays on the History of Astrology, vol. 42, 2005)という論文を読む。15世紀のミラノにおいて、医療占星術はどういった用いられ方をし、どう受容されていたのかを検討しようという論考。導入部分の掴みとして取り上げられている話がなかなかに興味をそそる。1492年にルドヴィーコ・イル・モーロ(スフォルツァ)は、教皇インノケンティウス八世の病状について占星術史のアンブロージョ・ヴァレージ(Ambrogio Varesi)に予言を依頼した。ヴァレージは教皇の死を予言し、教皇は日時的には前倒しで亡くなったものの、ルドヴィーコは別段その占星術の信頼性を疑うこともなく、一方で「次期教皇はスフォルツァ家に有利な人物になる」という予言に安堵さえし、さらに弟のアスカーニオもその予言を信じて政治的影響力を奮い、ロドリーゴ・ボルジアの選出(アレクサンデル六世)に一役買ったという……。
このように、日時占星術も歴史上重要な役割を担っていたことが窺えるというわけなのだけれど、論文はもう一つの宮廷占星術の中心とされる医療占星術を主に扱っている。そちらもまた、同時代的批判もあったものの、医者も患者も医療占星術を斥けるどころか、先端的な科学と見なされて信頼を得ていたらしい。パヴィア大学の医学部のカリキュラムは史料があまりないらしいのだけれど、論文著者はボローニャとの密接な関係から同じようなカリキュラムが採用されていたと推測している。学生はたとえばガレノスの『厄日について(De diebus criticis)』の三つの書を最初の三年間で学び、三年目と四年目では偽プトレマイオスの『ケンティロクイウム(Centiloquium)』、ギレルムス・アングリクスの『見えない尿について(De urina non visa)』などを占星術の訓練の一環として学んだのだろうという。さらに学生のノートには、多くのアラブ系の占星術文献からの一節が散見されるのだとか。論考はさらにパヴィア公の私設図書館の蔵書を取り上げ、最終的にミラノ公ジアン・ガレアッツォ・スフォルツァの病気と死について、同公がルドヴィーコやアスカーニオに宛てた書簡の分析を行っている。個人的に気になるのは、やはり同時代的にそれなりに存在していたらしい占星術批判だ。論文著者は注のところで、イタリアのエリート層や医師たちが実際にどの程度医療占星術を信頼していたかは、宮廷占星術のさらなる研究がなければ確証できないと述べた上で、医療占星術への批判を展開する著者がそれなりに多いことは、逆にその医療占星術がそれなりの人気を博していたことを示している、とも述べている。代表的な批判者として挙げられているのはピコ・デラ・ミランドラ、またさらに後の16世紀のフラカストロとトゥリニの論争なども言及されている。うん、いろいろチェックしてみたいところだ。
PDFで公開されている論集『ガリレオと当時の共有知識』(Galileo and the Shared Knowledge of his time, Max-Planck-Institut für Wissenschaftsgeschichte, 2002)(PDFはこちら)から、ヨヒェン・ビュットナー他「不可視の巨人を追う:ガリレオの未刊行論文に見る共有知識」(Jochen Büttner et al. Traces of an Invisible Giant: Shared Knowledge in Galileo’s Unpublished Treatises)をちらちらと眺める。表題の通り、ガリレオの残した未刊行論文から、従来のガリレオ像とは違った見方を、とりわけ当時一般的に共有されていた学知という面から示そうというもの。個人的には、少し前にデカルト論に触れた際にも記しておいたように、研究対象の同時代的な学知的背景の再構築の必要性を改めて感じているせいもあって、とても参考になった。初期の1586年の静力学平衡についての論文や、1587年の重心に関する論文などでは、アルキメデスに心酔している様子が窺えるのだといい、1589年のピサ大学での教授就任以降は、アリストテレスの自然学を盛んに研究しまた普及させようとしているという(1590年ごろの『より古い時代の運動論について』など)。アリストテレスの自然学をめぐる伝統は、数々の修正を経つつ強固に生き残っていて、ガリレオも最初からそれに異を唱えていたわけではなかったことがわかるのだという。若き日のガリレオは、アリストテレスの運動理論とアルキメデスの浮力理論を結びつけようとさえしていたらしい。また、コペルニクスの議論に対するガリレオのスタンスも、時代とともにアンチから支持派へと移り変わっていくのが見てとれるという。コペルニクス思想のガリレオによる擁護は、旧来のドグマとの全面戦争として周到に準備されていたものでも、あるいは新体系への転向といったものでもなく、時代的に共有されていた当時の学知との不可避の出会いから生じたもので、それは同時代人の多くが体験した、それぞれの個別的コンテキストと支配的な世界観を支える天文学的知識との両方から決定づけられた、反応・反動だったのではないか、というわけだ。同論考は確かに、ガリレオの未刊行論文に具体的かつ細かな検討を加えているわけではなく、大まかな図式を取り出すことに重点を置いている。その意味では精度はやや粗く、本来ならむしろ前者のようなものが読みたいところなのだけれど、少なくとも考察のフレームワークを示している点で、同論考が取り組む後者のような姿勢も悪くはない気がしている。「共有知識」はいろいろな研究対象において必要となるキーだ。