「近代初期・近世のほうへ」カテゴリーアーカイブ

ニコラ・ド・クラマンジュ

断絶と新生:中近世ヨーロッパとイスラームの信仰・思想・統治ほとんどザッピング的に目を通しているだけだけれど、神崎忠昭編『断絶と新生:中近世ヨーロッパとイスラームの信仰・思想・統治』(慶應義塾大学言語文化研究所、2016)という論集を眺めているところ。イスラム、中世、ルネサンス以後と、多岐にわたるトピックを集めている。それらを貫くのは、表題がいう「断絶と新生。つまり、それぞれの時代の断絶的な状況をどう乗り越えていくのかということが中心的な主題になっているようで、五年前の震災が一つのきっかけとなって編まれた一冊ということらしい。中でも個人的に興味深いのは、編者自身による論文「時代の分かれ道で−−ニコラ・ド・クラマンジュの聖書主義」(pp.87 – 114)。クラマンジュ(Nicolas de Clamange)というのは15世紀前半に活躍したフランスの人文主義者なのだそうで、ピエール・ダイイの弟子でジャン・ジェルソンの友人だったという人物。この二人はどちらも教会改革を唱え、後の宗教改革の先駆とも見なされる人々だが、このクラマンジュはそれらに比べると影が薄いのだそうだ(実際、寡聞にして知らなかった)。でも、より隠修士的な色合いが強く、病弱で本の虫だったなんて、なにやらとても面白そうな人物像じゃないの、と思ってしまう(苦笑)。論文では終末論的な著作や聖書研究などが簡単に紹介されている。うーん、こうなると、この人物のもっと詳細なモノグラフが読みたくなってくる。あるいはダイイやジェルソンあたりと抱き合わせでもいいから、一冊フルに使って論じていただきたい気がする。

ルターの提題の「あわい」

まだ序章を見ただけだけれど、思うところあって、松浦純『十字架と薔薇―知られざるルター (Image Collection精神史発掘)』(岩波書店、1994)を見始めているところ。これは宗教改革の旗手ルターの評伝。刊行年は少し古めになってきているが、まだまだ見どころ満載の一冊、という感じだ。序章では、九五箇条の提題に絡む当時のドイツ教会の情勢とルターの動きを、「パラドクサ」というキーワードで切りとって見せている。ポイントとなるのは、当時のヴィッテンベルクでは、ルターの講義が発端となって、アウグスティヌスへの回帰の動きが大学ぐるみで生じていて、そのために公の討論が求められ、ルターの提題もそのために記されたのだという点(p.17)。結局討論は行われずじまいとなったわけだが、九五箇条の提題はとりたてて特別な位置づけを与えられていたわけではないという。それが広まったのも、また宗教改革の発端になったのも、実はルターの意図したところではなかった(と、本人も述べている)(p.18)。とはいえ、一般にその直接の問題をなしていたとされる贖宥状頒布の問題ですら、提題の単なる個別問題だったのではなかったといい、包括的な改革の議論から考え抜かれていたという点で、宗教改革が改めてルターの意図した改革の線上に位置づけられる、とも解釈できるという(p.19)。この両者の逆説、あるいは齟齬のあわいの部分に分け入っていこうとする読みが、ここで目されているのは明らかだ。様々な目配せと繊細な文献の突き合わせを要する細やかな作業が予想されるけれど、そのような読みが面白くならないわけがない(かな?)。

アウグスティヌス主義とエピクロス主義

経済学の起源: フランス 欲望の経済思想米田昇平『経済学の起源: フランス 欲望の経済思想』(京都大学学術出版会、2016)を見始めているところ。まだ全体の3分の1程度だかけれど、すでにしてこれはなかなか面白い。近代経済学の祖といえばアダム・スミスだけれど、そこで展開された諸テーマ(自由主義、レセ・フェールなどなど)は、それに先だって17、18世紀のフランスの思想に見出されるという。そのベースとなったのはジャンセニスムに代表されるアウグスティヌス主義。けれども、ジャンセニスムの人間観は現世の人間をネガティブに捉えるのが特徴だったはず。それがどのように世俗の財の追求を肯定するように転換したのかはとても興味深い問題だ。同書では、ポール・ロワイヤル修道院のピエール・ニコル(1625 – 95)、ジャンセニスムの影響を強く受けた後に法曹界に生きたボワギベール(1646 – 1714)、『蜂の寓話』で知られるマンデヴィル(1670 – 1733)などを通じて、神の意志を通じて現世での人間の営みをポジティブに捉える議論が浮かび上がっていく様を追っている。それにしても、このネガからポジへの反転にはどこか「腑に落ち無さ」のようなものがついて回る。同書の著者も冒頭で、ガッサンディなどに代表されるようなエピクロス主義と、上のアウグスティヌス主義との邂逅について示唆しているけれど、まったく異なる両者の出会いというのはやはり気になるテーマだ。ストア派を共通の敵として合一へのうねりが生じた?うーむ、そのあたりには微妙な違和感のようなものが漂い続ける気がするのだが……?

数学者たちと曲線

微分積分学の誕生 デカルト『幾何学』からオイラー『無限解析序説』まで高瀬正仁『微分積分学の誕生 デカルト『幾何学』からオイラー『無限解析序説』まで』(SBクリエイティブ、2015)を読了。一七世紀から一八世紀にかけての微積分の成立を、当時の主要な数学者だったデカルト、フェルマー、ライプニッツ、オイラーを通じて見ていくという興味深い概説書。取り上げられる各人の、数学的なスタンスの違いがわかりやすく解説されている。キーをなすのは曲線についての理解だ。曲線というものがこんなにも数学者たちを惹きつけていた、というのがまずもって興味深い。デカルトはあくまで曲線を理解するという目的のために、曲線に接線を引くことを目指していたとされる。フェルマーはどちらかというと技巧派・職人的で、曲線を理解するという意識はあまりなく、接線を引くという技法をひたすら極めようとしていくのだという(その結果として、サイクロイドへの接線を引く方法や、極大極小問題での成果を得ているのだ、と)。ライプニッツにいたると、求積法を志向することによって、デカルトが排除していたような超越的な諸量の微分へと至り、いわば「万能の接線法」が見出される。オイラーにおいては、変化量の依存関係としての関数が考案され、曲線の代数的な理解がもたらされる……というのがごく大まかなアウトラインなのだけれど、やはり実際に数式を用いて、それぞれの著者たちがどのような具体的な設問に取り組んでいったのかを再現しているあたりが、一番の読みどころ。それにしても、一七・一八世紀のものも、それ以前のものも、昔の数学書は記号法や言葉づかいなども今とはだいぶ異なっていて、なかなか的確に意味するところを掴むのは難しいというのが実感だけれど、それをひたすら読み解き、現代の数式に移しかえて概要を見せてくれるところは、数学史研究のまさに真骨頂という感じだ。

ガッサンディのアリストテレス主義批判・世界霊魂批判

Pierre Gassendi and the Birth of Early Modern Philosophyこのところ少し中世プロパーなところから離れたアーティクルが続いているが、それは少しばかり、後世からその時代が回顧的にどう見られていたのかを改めて眺めてみたいと思っているため。というわけで、今度はガッサンディについての概説書を見てみることにした。アントニア・ロロルド『ピエール・ガッサンディと初期近代哲学の誕生』というもの(Antonia Lolord, Pierre Gassendi and the Birth of Early Modern Philosophy, Cambridge University Press, 2007)。ガッサンディの生涯から始まって、その思想をテーマごとにまとめてみせている。個人的にはまだ冒頭のあたりをうろうろしているだけだけれど、ポイントがまとまっていて役立ちそうだ。とりあえず、第二章「ガッサンディの哲学的対立者たち」が面白い。ガッサンディがアリストテレス主義、世界霊魂論、デカルト派などをどう批判しているかをまとめている(以下メモ)。

ガッサンディのアリストテレス主義への批判は多岐にわたっているようだが(とはいえ、たとえば中世の個々の神学者を取り上げるようなことはいっさいしていないのだとか)、その中心をなしているのは、きわめて唯名論的な「存在するのは個物の性質のみ」というスタンス。永遠の真理とか本質に関わる命題というものは条件文においてのみ真理をなす(これはスアレス的な論点とされている)とガッサンディはいい、そこから敷衍するかのように、実体的な「範疇」の存在も否定する。質料形相論についても、形相をかたちやパターンと見なす分にはよいとしながら、その「具象化」は避けるべきだとしている。つまり形相が自然界において能動的原理をなしている、という議論は斥けているということ。ガッサンディは、そもそも被造物が発端となる「二次的因果関係」を認めない。また、形相を作用原理だとするのは一部のアリストテレス解釈者の誤りだとして、原典への準拠の不十分さも糾弾しているという。

そんなわけなので、世界霊魂についても同じような論拠にもとづき批判する。ガッサンディが批判の対象とするのは、ロバート・フラッドなどが唱える「非物質的」な世界霊魂論。それとは別筋の、霊魂をたとえば生命の熱として解釈するような物質論的な人々は批判対象にしていないのだとか。デカルト的自然学についても、たとえば物体の本質は延長だという議論が、非物質的な原理を再度持ち込んでしまうという点で、ガッサンディは難色を示していたという。世界霊魂の批判は、オルタナティブな因果論、すなわちガッサンディが唱える原子論を導き入れることを主眼として展開されている、と著者は見る。