「キリスト教の神は無限の愛であるとされるのに、一方では地獄において劫罰を科す。これって矛盾じゃないの?」。こういう疑問、キリスト教に触れれば誰でも一度くらいは思うんじゃないだろうか。あるいは、人間の罪に対して罰があまりに重すぎることにならないか、とか。でも、するとそこで、神の無限の思惟は人間には到底推測できないのだとの原則でもって、なにやら煙に巻かれてしまったりもする。それでは神秘主義というか、ある種の思考停止状態でしかないように思えるのだけれど、そのあたりに甘んじず、矛盾なら矛盾としてちゃんと検証しようという論考があってもいい。というか、あった(笑)。ケリー・ジェイムズ・クラーク「神は偉大、神は善:中世の神的な善の概念と、地獄の問題」(Kelly James Clark, God is Great, God is Good: Medieval Conceptions of Divine Goodness and the Problem of Hell, Religious Studies 37, 2001)(PDFはこちら)。いちおう中世の議論が取り上げられているのだけれど、具体的にはアウグスティヌスとトマス・アクィナスのみ。このあたりがちょっと寂しいところではある。でも面白いのは、この両者の議論(とくにトマス)をもとに、神の善性について、偉大さ(被造物を創造した点において)としての善と、ペアレンタル(被造物を庇護するという点において)な善という二系列があるとした上で、それらの善と地獄の罰との両立可能性があるかどうかを改めて検証しているところ。
ロリー・コックス「トマス・アクィナスまでの歴史的「正義の戦争」理論」(Rory Cox, Historical Just War Theory up to Thomas Aquinas, Oxford Handbook of the Ethics of War, Oxford Univ. Press, (forthcoming))という論考を見てみた。「正義の戦争」論は古代ギリシアから綿々と受け継がれてきた西欧的な戦争の倫理的正当化論で、同論考はこれを中世まで通史的に取り上げた概説なのだが、これがなかなか興味深い。日本にあっては、ある意味タイムリーかもしれない。まとめとして有益だと思うのでとりあえず内容をかいつまんでメモしておく。まず古代ギリシアにおいては、非ギリシア人は本性的な敵であるとされ、それに対する戦争は直ちに正当なものとされる一方、ギリシア人同士の戦争は本性に反するという意味で謀反と一括された(プラトン『国家』)。次いでこれを引き継ぐ形で、コミュニティと共通善の擁護のためのいわば自衛の戦争が正当化される(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)。一方で帝国的な領土拡張の戦争も大目に見られている……このあたりは奴隷の正当化と同様だ。これと、主にストア派に由来する自然法の考え方がローマに受け継がれ、平和の回復としての正義の戦争という解釈が唱えられる(キケロ『義務について』『国家について』)。正義の戦争はキケロにより(1)自衛、(2)損害の修復、(3)不正への処罰を条件として既定される。帝国の領土拡張もまた、国家の栄光という意味で容認されているという。
ここまでは「戦争に向けて(開戦前)の法」(jus ad bellum)は問われても、「戦争における(戦時下の)法」(jus in bello)はあまり問われていない。けれども時代が下ってくると、この後者が徐々に問題になってくる。教会法を整備したグラティアヌス(12世紀)は、教会が宣言する戦争も世俗の権威が起こす戦争と質的な違いはないとし、キケロ的な伝統(イシドルスを経由)やアウグスティヌスにもとづいた正当化を行っている。13世紀の教会法学者たちになると、さらに暴力行為の序列を考察するようになり、戦争における法(戦時下の行動)についての議論が重要視されてくる。それを体系化するのがトマス・アクィナスで(『神学大全』)、正しい意図という議論が前面に出てくる。自然法的な戦争の正当化を論じれば、敵側にも同じような正当化を認めなくてはならなくなり、するといかなる倫理的行為であろうと、善悪の両方の結果をもたらす場合があるという認識が必要になる。そのネガティブな結果を正当化するのは、意図の正しさでなくてはならない、というわけだ。
経済史のちょっと面白い論文。アントニオ・カストロ・ヘンリケス「租税国家の台頭、ポルトガル、1371-1401」(António Castro Henriques, The Rise of a Tax State: Portugal, 1371-1401, E-Journal of Portuguese History Vol. 12, 2014)(PDFはこちら)というもの。基本的に戦費を賄うことが税務の必要性の高まりと課税の強化をもたらした、との一般論があるけれども、この論考は、戦争と税制の関連は必ずしもそう単純ではないかもしれないという話を、14世紀後半のポルトガルを例に検証するという内容。14世紀後半のポルトガルは、ジョアン一世のアヴィス王朝が始まり、カスティーリャとの戦争が繰り広げられた時代。このころ、税制もいわゆる売上税(sisa)が広がり、年代記などではその戦争こそが売上税の導入をもたらしたと記されていたりし、それを受けて90年代ごろの税制史研究でも両者を割と短絡的に結びつけている例があるのだという。けれども事はそう単純ではないようで、たとえば同時期の英仏百年戦争は、同じような恒久的課税制度をもたらしてはいないという。同じくまことしやかに言われてきた説として、ポルトガルの場合、売上税が導入されたのはまずは自治体によってで、戦争を口実に王朝がそれを自治体から奪い、メインの財源に据えたというボトムアップ説があるというのだけれど、論文著者によれば、史料からはむしろ、14世紀のほとんどの売上税は宮廷による要請にもとづいているようだといい、宮廷への納付のために自治体が売上税を徴収していたというトップダウン説を唱えることも十分可能だという。また、当初は「重量ベース」だった売上税(通行税みたいなもので、商品が自治体に運ばれるときに徴収された)が「価格ベース」になったのも、1372年に宮廷が売上税を全土に課した際の重大な変更だったという。宮廷にとっては安定財源になるわけだけれど、自治体からすれば重い負担にもなった。で、戦争との絡みでいえば、それら売上税は戦争前から存在していたといい(価格ベースになったのも戦争前)、しかも総合的には、戦争の前後で宮廷の税収は実質的にそれほど違ってはいないのだという(金属含有量や交換レートで見れば、税収は表面的に悪化しているらしいのだけれど)。うーん、戦争と税制の両者の関連性はずいぶん相対化されている印象だ。
懐疑論がらみの俯瞰的な論考を見てみた。アルフォンソ・マイエル、ルイザ・ヴァレンテ「中世の懐疑論と批判主義」(Alfonso Maierù e Luisa Valente, Scetticismo e criticismo nel medioevo, in Scetticismo. Una vicenda flosofica, ed. Mario De Caro ed Emidio Spinelli, Carocci, 2007)というもの。概説書の一部をなしているらしく、懐疑論の中世における流れが要領よくまとまっている。前半はアウグスティヌスからゲントのヘンリクスまでの懐疑論の流れ、後半は中世の批判主義と題して、アリストテレス受容に関係した中世盛期の批判主義(語弊のある言い方だが)から、とくにオッカムとオートレクールのニコラを取り上げている。以下ポイントのまとめ。セクストゥス・エンペイリコスの翻訳は13世紀末から14世紀初めになされていたものの、やはり懐疑論の流布にはキケロが重要で、しかもそれはアウグスティヌスやラクタンティウスを通じて受容されていた。懐疑論の方法論的な再評価にとりわけ貢献したのは、12世紀のアベラールとソールズベリーのジョン、さらには13世紀のゲントのヘンリクスなど。それらの著者たちを通じて、アウグスティヌスのアカデメイア派解釈は再解釈されていく。かくして示されることになるのは懐疑論的な姿勢とキリスト教的な知との両立可能性だ。これはその後、近代にいたるまで綿々と受け継がれる。アウグスティヌスにはまた(さらにスコトゥス・エリウゲナにも)、後のデカルト的コギトの先駆的な議論も見られる。ただ、そこでのコギト論は、あくまで魂における三位一体の痕跡を把握することに力点が置かれている。で、この三位一体の問題は、14世紀になって、アリストテレス論理学の枠内での一種の難点としてクローズアップされる。「この本質は父である。またこの本質は子である。したがって子は父である」という弁証法があったとき、キリスト教の教義では前提二つは真であるのに、結論部が偽とされてしまう。こうした事情を受けて、ロバート・ホルコット(14世紀のドメニコ会士)が「自然論理」に代わる「信仰の論理」を打ちだすなど、この後者を包摂する「特殊論理」(logica speciale)ということが言われ始める。スコトゥスから始まる直観認識・抽象認識の区別は、オッカムにおいて神の直接的介入の可能性(そのせいで非在の対象についての直観認識が生じるような場合)が言われるようになると、翻って人間が正しい感覚的・知的認識を得ることができないといった帰結が導かれてしまう。そうした懐疑論に対する批判者として、オートレクールのニコラなどが登場し、直観認識の明証性が改めて擁護される……。全体として同論考は、コンパクトなまとめでありながらアウグスティヌスやオートレクールのニコラについてはかなりの紙幅が割かれ、詳細部分にまである程度踏み込んでいる印象だ。とはいえ概論的・骨子的なものを読むと、やはりさらなる肉付けを、と思ってしまう。個人的には、上の特殊論理についての話や、オートレクールのニコラ以後の懐疑論の扱いなどがとりわけ気にかかる。