「運命・宿命・災害論など(災禍表象学)」カテゴリーアーカイブ

占星術批判の流れ

マリー=エリザベト・アラマンディ編『初期教父と占星術』(Les Pères de l’Église et l’Astrologie, éd. Marie-Élisabeth Allamandy, Migne, 2003)を購入。これは、初期教父7人による占星術批判の議論を仏訳でまとめたもの。取り上げられている7人とは、オリゲネス、オリュンポスのメトドス、カイサリアのバシレイオス、ニュッサのグレゴリオス、タルススのディオドロス、ガザのプロコピウス、そしてヨハネス・フィロポノス。早速編者による冒頭の序文から眺めてみる。古代の占星術についての概要を記した後、著者はこれら初期教父らの占星術批判の概略をめぐっていく。彼らの批判を動機付けているのは、一つには占星術に内在する運命論がキリスト教の唱える人間本性論と矛盾するという理論上の難点。とくにストア派の運命論(とその後の折衷案)は厄介だった模様だ。さらにもう一つ、占星術師が社会で有していた威信も問題だったという。その影響力は、キリスト教の信徒の間にまで及んでいたためらしい。これを覆すために、一部の初期教父は占星術における悪魔の関与を強調し、信徒に占星術への怖れや警戒感を植え付けようとした……。

編者によると初期教父たちの全体的な議論は、紀元前2世紀のカルネアデスの議論を踏襲しているのだという。カルネアデスはアカデメイアで学んでいたものの、懐疑主義に傾斜し「新アカデメイア」を創設したとされる人物。著書はなく、弟子のクレイトマコスが伝えた講義内容だけが残っているという。で、そのカルネアデスはストア派の運命論を徹底的に叩いているのだという。その批判は大きく論理学的な議論と倫理学的な議論とに分かれる。そう言うとなんだか仰々しいが、前者はたとえばこんな感じだ。「子どもが生まれたときの星の配置なんか、正確にわかるかい!」「同時刻に生まれた個人が全然別の運命を辿っとるやないか」「別々の時刻に生まれた個人が同じ運命を辿ることもあるやんけ」「民族別で慣習が違ったりも、個人が運命づけられるっつーのとそれがどう関係すんねん」「なんで人間だけが運命づけられるねん?動物だってそうならなおかしいやんか」……(関西風で失礼)。編者は後者についても同じように5つ挙げているけれど、いずれにしても初期教父らはこれを語彙もそのままに採用したり、キリスト教の事例に当てはめてみたり、ストア派側からの反論を受けてアップデートしたり、神学の議論に結びつけたりと、様々に活用しているのだという。各テキストの本文については、面白ければまた後ほど取り上げよう。

↓wikipedia(en)より、カルネアデスの像

中世末期の災害記述

中世から近代初期の災害史研究の第一人者クリスチャン・ロアは以前にも取り上げたけれど、その最近の論考が二つほど紹介されていたので早速読んでみた。まずは「ドナウ川の洪水と人間の反応および理解(14世紀から17世紀)」(Christian Rohr, The Danube floods and their human response and perception (14th to 17th C), History of Meteorology vol.2, 2005)。一種の心性史(mentality bound approach)を標榜する著者は、とりわけ人々の受け止め方について史料から読み取ろうとしいる。そのあたりの姿勢が興味深い。ドナウ川はたびたび氾濫しているため、人々はこれをごく自然のものと受け止めていて、たとえば1501年におきた記録的洪水をふくめ、15世紀ごろにはすでに、彗星や蝕など天体現象を洪水発生の前兆現象として結びつけるようなことはなかったという。また河川の氾濫を聖書の大洪水に比するといった記述スタイルも、14世紀初頭に多少見られる程度なのだという。災害はあくまで自然現象だという認識は、沿岸の人々の間で広く共有されていたようだ。1501年以降は大きな洪水ごとに人々がだいたいの水位を記すようになったらしい。これも、「かつてもっと大きな災害があった」あるいは「誰も災害をずっと覚えていられるわけではない」といった認識が、多発する洪水に苛まれる人々の慰めになっていたことの現れではないかという。

著者が扱っている史料には、橋を建造する職人の記録もある。修復の費用の移り変わりをグラフで示しているほか、1501年の後、1503年、1508年と洪水が起こり、材木の入手が難しくなったといった話が紹介されている。また、興味深い話として、近代初期になると人々はいっそう宗教的な形で災害を受け止めるようになったのだという。洪水を神の処罰と考えるのは中世よりもむしろその後の時代だというわけだ。そうした解釈・操作の一因は反宗教改革にあったと同著者は考えている。

もう一つの「災害を記す:中世末期以降の説話ソースにおける災害の捉え方の記述と構成」(Christian Rohr, Writing a Catastrophe. Describing and Constructing Disaster Perception in Narrative Sources from the Late Middle Ages, Historical Social Research, vol.32 2007)は、上のドナウ川の事例を空間的・時間的にさらに拡大して、災害の記述の変遷という形で一般化を試みたもの(でしょうかね)。とりわけ災害の記述において聖書の知識がどのように枠組みをなしていたかというのがポイント。たとえば川の氾濫から聖書の大洪水を連想するというのは、洪水が頻発するドナウ川沿岸などよりもむしろ北海周辺の低地などに多く見られるという。また、河川の氾濫を指すのにdiluvium(洪水)という名詞が多用されるようになるのは、アルプス以東では16世紀以降なのだとか。やはりこれも、宗教改革・反宗教改革の時代にあって、極限的な自然現象を解釈する際に神学の影響が増したことによる、と著者は見ている。中世末期以降、洪水が多発するようになった原因には森林伐採などがあるというのだけれど、教会は洪水に乗じる形で、たとえばカーニバルの大騒ぎなどを抑制しようとするなど、宗教的解釈の強化を図ろうとした。聖書が現象の理解や解釈の形成に影響している事例としては、ほかにイナゴの大発生などが挙げられている(これも16世紀から)。

↓wikipedia(en)から、16世紀のドナウ川周辺の風景(レーゲンスブルク付近、アルブレヒト・アルトドルファー画)

ツナミ本(の予告)

現在、来月岩波書店から出ることになっているジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』の邦訳(拙訳)が校正段階に入っている。現在鋭意作業中。原書は100ページ強の小著ながら、自然災害と人的災禍(戦争、テロなど)の垣根を取っ払い、両者に共通する「悪」を再考し、それをパージするための抜本的な方途(脱構築的な)を探ろうという一冊。ルソー、ヴォルテール、ヨナス、アーレント、そしてギュンター・アンダースなどが主な登場人物(笑)で、それらをたたき台にして議論が展開される。岩波にしてはめずらしい(?)、3月の震災を受けてのいわゆる「緊急出版」のため、全体的にどこか突貫工事的な作業となった。話をもらってから引用されている書籍などを一気に集めたてみたものの、訳出作業のためだけに引用箇所を確認したり読み飛ばしたりするだけではあまりにもったいないので、少し私見をまじえつつ改めて諸問題を整理してみたいという気がしている。少し長いスパンで考えていきたいところ。取りいそぎ、今回は予告だけ(笑)。

ちなみに原書はこちら↓

Jean-Pierre Dupuy, “Petite métaphysique des tsunamis”, Seuil, 2005

中世の災害:再び1348年の地震、別アプローチ

1348年のフリウリの地震については、さらにもっと新しい研究も出ているらしい。クリスチャン・ロアという人の「中世盛期における人間と自然災害」(Christian Rohr, ‘Man and Natural Disaster in the Late Middle Ages: The Earthquake in Carinthia and Northern Italy on 25 January 1348 and its Perception’, Environment and History 9(2003): 127-149)というもの。個人の場合はpdf有料なのでまだゲットしていないのだけれど(しかも論文一本で26ドルとか……それはちょっと高すぎでは?)、紹介ページを見てみると、どうやらこれは心性史寄りのアプローチで、人々がどう災害を受け止めたかを探ろうという方向のものらしい。同じ人の別論文はないかと検索したら、たぶん上記の論文と重なると思われる、ノヴォシビルスク大学での2002年のレクチャー原稿があった。それが「中世における人間と自然」というもの(pdfファイル→“Man and nature in Middle Ages”)。研究メソッドの紹介(著者が用いるメンタリティバウンドアプローチの解説もある)と中世の自然観の変遷(とくにトゥールのグレゴリウスの災害の記述が、文献的な出典の引用にすぎないことなどの指摘は重要かも)、森林開発や治水などの概括をへて、最後に災害への対応ということで1348年の地震が言及されている。

1348年の地震への言及が文献的に豊富なのは、ちょうど黒死病の流行と同時期だったためだというけれど、著者は一般に言われるような、黒死病ともども地震が神のくだす罰だと見なされたという話には懐疑的だ。ハンメルルの紹介しているペトラルカの手記も、実際には地震から20年も後に記されていて、初期の人文主義的な自然観が投影されているという。また「揺れで教会の鐘が鳴り出した」という話も、教会の鐘が祈りを促すものという意味合いから、地震と世の終末との連想に繋がった可能性があるとしているものの、そういう終末論的解釈は多くは見られないという。しかもそれは教会ではなく、民衆の間から出てきている可能性もあるのだとか(ジョヴァンニ・ヴィラーニの手記)。さらに上のような、地震を神の罰と見なす解釈は、同時代の文献にはほとんど見られず、これまた後の初期近代の回顧的な記述の中にむしろ多く見出されるという指摘は興味深い。また、教会側の解釈にはアリストテレス的・スコラ学的な「理性的解釈」(自然学の記述にもとづく)もあるというが、一方で超自然的な言及もあったりして、著者たちが記そうとした民衆的な不安を読みとることもできるかもしれないという。また最後には、その地震の復興がかなりの長期にわたったことも著者は指摘している。黒死病が重なったことや、地震のあったケルンテン地方が当時あまり組織的に管理されていなかったこと(中央から遠い)ことなどがその原因ではないかという。

↓wikipedia(en)から、時代は違うが、1755年のリスボン地震を描いた版画。地震のあった同年に作られたもの。津波の被害が描かれている。

中世の災害:1348年北イタリアの地震

中世ヨーロッパの地震の記録として一番有名なものといえば、やはり1348年の北イタリアの地震、そして1356年のバーゼルの地震ということになるのかしら。この1348年の地震については、地震の体験や被害を綴った文献というのが結構あるようで、研究も充実しているらしい。代表的なもの(定番?)として、アルノ・ボルストによる1981年の論考があるそうだ(‘Das Erdbeben von 1348. Ein historischer Beitrag zur Katastrophenforschung’,
in “Historische Zeitschrift 233” (1981)
)。アルノ・ボルストといえば、比較的最近邦訳が出た『中世の時と暦』や、もっと古くは『中世の巷にて』などの邦訳があるドイツの中世史家。より新しい定番ものとして、クリスタ・ハンメルルの研究というのもある(Hammerl, Christa: Das Erdbeben vom 25. Jänner 1348. Rekonstruktion eines Naturereignisses (Diss. Univ. Wien 1992) )。こちらは歴史地震学の専門家。どちらの当該論文もネットではまだ公開されていないようだけれど、このハンメルルにはそれとは別の論文があって、Web公開されている。

「1348年1月25日の地震、ソースの議論(“The earthquake of January 25th, 1348: discussion of sources”)」というのがそれ。これがまたなかなか素晴らしい。同地震について伝える100以上の文献を渉猟し、被害状況の再構築を行ったという報告だ。面白いことに、実際に地震が体感された地域と、それを伝える文献(年鑑や年代記)の存在する場所は必ずしも一致せず、北部のほうが南部よりも文献数が多いのだという。著者によると、それはシトー会などの修道院が情報伝達の媒体をなしていたからだろうという。うーむ、これは鋭い視点だ。文献そのものも興味深いものがいくつか紹介されている。有名どころでは、たとえばペトラルカがジェノヴァの大司教に送った手紙には、本棚から本が飛び出したみたいな話が記されていたりするし、ジョヴァンニ・ダ・パルマは、揺れが二段階できたことや、教会の鐘が本震のせいで鳴りだしたことなどを記している(これって結構有名な描写だったような気がする……)。文献によって建物が崩れた描写があったり、実害はなかったらしいことが仄めかされていたりするといい、それらを文献学的に整理すると、かつてはフィラッハ(オーストリア)が震源に近いのではとされていたその地震は、実はフリウリのほうが被害が大きいことなどがわかるという。うーむ、見事だ。フリウリでは1976年にも大きな地震が起きているし、やはり古い文献はあなどれない……。