中世から近代初期の災害史研究の第一人者クリスチャン・ロアは以前にも取り上げたけれど、その最近の論考が二つほど紹介されていたので早速読んでみた。まずは「ドナウ川の洪水と人間の反応および理解(14世紀から17世紀)」(Christian Rohr, The Danube floods and their human response and perception (14th to 17th C), History of Meteorology vol.2, 2005)。一種の心性史(mentality bound approach)を標榜する著者は、とりわけ人々の受け止め方について史料から読み取ろうとしいる。そのあたりの姿勢が興味深い。ドナウ川はたびたび氾濫しているため、人々はこれをごく自然のものと受け止めていて、たとえば1501年におきた記録的洪水をふくめ、15世紀ごろにはすでに、彗星や蝕など天体現象を洪水発生の前兆現象として結びつけるようなことはなかったという。また河川の氾濫を聖書の大洪水に比するといった記述スタイルも、14世紀初頭に多少見られる程度なのだという。災害はあくまで自然現象だという認識は、沿岸の人々の間で広く共有されていたようだ。1501年以降は大きな洪水ごとに人々がだいたいの水位を記すようになったらしい。これも、「かつてもっと大きな災害があった」あるいは「誰も災害をずっと覚えていられるわけではない」といった認識が、多発する洪水に苛まれる人々の慰めになっていたことの現れではないかという。
もう一つの「災害を記す:中世末期以降の説話ソースにおける災害の捉え方の記述と構成」(Christian Rohr, Writing a Catastrophe. Describing and Constructing Disaster Perception in Narrative Sources from the Late Middle Ages, Historical Social Research, vol.32 2007)は、上のドナウ川の事例を空間的・時間的にさらに拡大して、災害の記述の変遷という形で一般化を試みたもの(でしょうかね)。とりわけ災害の記述において聖書の知識がどのように枠組みをなしていたかというのがポイント。たとえば川の氾濫から聖書の大洪水を連想するというのは、洪水が頻発するドナウ川沿岸などよりもむしろ北海周辺の低地などに多く見られるという。また、河川の氾濫を指すのにdiluvium(洪水)という名詞が多用されるようになるのは、アルプス以東では16世紀以降なのだとか。やはりこれも、宗教改革・反宗教改革の時代にあって、極限的な自然現象を解釈する際に神学の影響が増したことによる、と著者は見ている。中世末期以降、洪水が多発するようになった原因には森林伐採などがあるというのだけれど、教会は洪水に乗じる形で、たとえばカーニバルの大騒ぎなどを抑制しようとするなど、宗教的解釈の強化を図ろうとした。聖書が現象の理解や解釈の形成に影響している事例としては、ほかにイナゴの大発生などが挙げられている(これも16世紀から)。
1348年のフリウリの地震については、さらにもっと新しい研究も出ているらしい。クリスチャン・ロアという人の「中世盛期における人間と自然災害」(Christian Rohr, ‘Man and Natural Disaster in the Late Middle Ages: The Earthquake in Carinthia and Northern Italy on 25 January 1348 and its Perception’, Environment and History 9(2003): 127-149)というもの。個人の場合はpdf有料なのでまだゲットしていないのだけれど(しかも論文一本で26ドルとか……それはちょっと高すぎでは?)、紹介ページを見てみると、どうやらこれは心性史寄りのアプローチで、人々がどう災害を受け止めたかを探ろうという方向のものらしい。同じ人の別論文はないかと検索したら、たぶん上記の論文と重なると思われる、ノヴォシビルスク大学での2002年のレクチャー原稿があった。それが「中世における人間と自然」というもの(pdfファイル→“Man and nature in Middle Ages”)。研究メソッドの紹介(著者が用いるメンタリティバウンドアプローチの解説もある)と中世の自然観の変遷(とくにトゥールのグレゴリウスの災害の記述が、文献的な出典の引用にすぎないことなどの指摘は重要かも)、森林開発や治水などの概括をへて、最後に災害への対応ということで1348年の地震が言及されている。
中世ヨーロッパの地震の記録として一番有名なものといえば、やはり1348年の北イタリアの地震、そして1356年のバーゼルの地震ということになるのかしら。この1348年の地震については、地震の体験や被害を綴った文献というのが結構あるようで、研究も充実しているらしい。代表的なもの(定番?)として、アルノ・ボルストによる1981年の論考があるそうだ(‘Das Erdbeben von 1348. Ein historischer Beitrag zur Katastrophenforschung’,
in “Historische Zeitschrift 233” (1981))。アルノ・ボルストといえば、比較的最近邦訳が出た『中世の時と暦』や、もっと古くは『中世の巷にて』などの邦訳があるドイツの中世史家。より新しい定番ものとして、クリスタ・ハンメルルの研究というのもある(Hammerl, Christa: Das Erdbeben vom 25. Jänner 1348. Rekonstruktion eines Naturereignisses (Diss. Univ. Wien 1992) )。こちらは歴史地震学の専門家。どちらの当該論文もネットではまだ公開されていないようだけれど、このハンメルルにはそれとは別の論文があって、Web公開されている。
「1348年1月25日の地震、ソースの議論(“The earthquake of January 25th, 1348: discussion of sources”)」というのがそれ。これがまたなかなか素晴らしい。同地震について伝える100以上の文献を渉猟し、被害状況の再構築を行ったという報告だ。面白いことに、実際に地震が体感された地域と、それを伝える文献(年鑑や年代記)の存在する場所は必ずしも一致せず、北部のほうが南部よりも文献数が多いのだという。著者によると、それはシトー会などの修道院が情報伝達の媒体をなしていたからだろうという。うーむ、これは鋭い視点だ。文献そのものも興味深いものがいくつか紹介されている。有名どころでは、たとえばペトラルカがジェノヴァの大司教に送った手紙には、本棚から本が飛び出したみたいな話が記されていたりするし、ジョヴァンニ・ダ・パルマは、揺れが二段階できたことや、教会の鐘が本震のせいで鳴りだしたことなどを記している(これって結構有名な描写だったような気がする……)。文献によって建物が崩れた描写があったり、実害はなかったらしいことが仄めかされていたりするといい、それらを文献学的に整理すると、かつてはフィラッハ(オーストリア)が震源に近いのではとされていたその地震は、実はフリウリのほうが被害が大きいことなどがわかるという。うーむ、見事だ。フリウリでは1976年にも大きな地震が起きているし、やはり古い文献はあなどれない……。