「運命・宿命・災害論など(災禍表象学)」カテゴリーアーカイブ

ペスト禍後の絵画表現

仏語訳でミラード・メイス『ペスト後のフィレンツェ/シエナの絵画』(Millard Meiss, La peinture à Florence et à Sienne après la peste noire: Les arts, la religion, la société au milieu du XIVe siècle, trad. Dominique le Bourg, Hazan, 1994-2013)を読んでいるところ。なぜ仏訳かというと、単純にタイトルだけ見て(翻訳ものだと知らずに)ポチってしまったから(苦笑)。原書は英語で、結構古い(Millard Meiss, Painting in Florence and Siena After the Black Death, Princeton Univ Press, 1951-1979)。でも、内容的には結構面白く、1994年になって改めて仏訳が出たというのも頷ける気がする。社会史と絡めた美術史というスタンスが強く出るのは、ペストの話が前面に出てくる二章以降。まず、ペスト禍後のフレンツェとシエナの社会情勢が概観される。生き延びた人々は直後の短い期間、快楽を追い求めるなどの反動に出、それ自体はすぐに止むものの、そこで培われた反俗的態度は後々まで定着する。一方ではペストを神の罰と見なすような罪悪感、こちらも後々まで敬神・神秘主義として存続する。社会全体では、モノ不足で物価が倍増するなど経済が混乱し、周辺地域から都市部への人口流入も加速する。新しい富裕層が出現し、と同時に貧富の差は拡大する。そんな中、文化的営為・絵画表現にもそれなりの影響が現れないわけにはいかない……。

まず災禍そのものとの関連で、それまであまり絵画では取り上げられていなかったヨブ記のエピソードが描かれるようになるという。また、人口の移動を受けてか、出エジプト記も取り上げられるようになる。主題的な新しさはそれなりに見られ、たとえば死の勝利といった形象や、キリストが怒りの告発者のごとくに描かれたりするようにもなる。一方、罪悪感とその裏返しという形での神秘主義は、清貧兄弟会のような運動をもたらすものの、絵画などは旧来の教会の庇護下にあるため、直接的な影響を及ぼしてはいないという。また都市部の新しい富裕層の間では保守的な嗜好が優勢で、新しいスタイル(主題の選択なども含む)はあまり好意的に受け入れられなかったともいう。なるほど、そのあたり、(著者はそいういうふうには言っていないものの)災禍とその一時的混乱が静まっていく際に、いきおい保守色が強まるという反動のようにも読み取れそうだ。

中世の災害記述から−−グラニエ山崩落

IMG_0382ジャック・ベルリオーズ『中世の自然災害と災禍』(Jacques Berlioz, Catastrophes naturelles et calamités au Moyen Age, Sismel-Galluzzo, 1998)は、主に中世盛期以降の各種災禍の記録をめぐる個人論集。その中の第四章として扱われているのが、1248年あたりに起きたとされるグラニエ山崩落で、これが同論集のうち最も長い論考(pp.57-139)になっている。これがなかなかの読み応え。グラニエ山というのは現在のフランス東部(ローヌ・アルプ地方)サヴォア県のシャンベリー(県庁所在地)近くにあった岩山だとされる。この山が大規模な土砂崩れを起こしたという話は、マシュー・パリス(ベネディクト会士)の複数の年代記のほか、エティエンヌ・ド・ブルボン(ドミニコ会士)の説教用の訓話(exemplum)、フラ・サリンベーネの年代記、マルタン・ル・ポロネ(ポーランドの聖職者)の年代記、エルフルト修道院(チューリンゲン、ドミニコ会)の編年史など、いろいろな史料に残されているというのだけれど、論文著者はこれらすべてを丹念に比較検証し、その「説話の構造」のようなものを描きだしている。

当然ながら、当時の災害記述においては聖書へのリファレンスが色濃く、この場合には山が動いたということで、ヨブ記一四章一八節「山は崩れてしまい、岩は場所を変える」が、説教用の訓話などではそのまま引き合いに出されたりする。一方でマシュー・パリスの年代記ではそうしたトーンはやや薄まっているようで、より「写実的」な面を強調した記述になっているともいう。面白いのは、原因の考察において、アリストテレス『気象論』での地震の説明(「地震は海流が激しい場所や、空洞が多々ある場所で起こる」)を取り込む形で(とくにパリスが)、グラニエ山の崩落前に高波があったことや、その山に多くの空洞があったことを記しているという話。『気象論』はヴァンサン・ド・ボーヴェ『大鏡(Speculum maius)』などを介して広く伝えられていたらしい。とはいえそれのあたりの自然学的な話は、原因としては副次的な扱いで、前面に出ているのはやはり神の罰という考え方。パリスの場合には、サヴォア人たちを快く思っていないこともあって(イングランド王妃エレノールの伯父にサヴォア伯がいて、そのあたりの絡みでサヴォアの人々がイングランドの封土を買い占めていたという現実があった)、「罰」という側面が記述に色濃く出ているのだとか。一方、訓話の場合には「祈りによって山を止める」話に力点が置かれているという。いずれにしても記録の書き手は伝聞にもとづいてその事象を記しているわけで、聖書その他の文献で伝わるもののほか、口承伝承の諸エレメントも、すでにして付与されている。代表例として悪魔と聖母との戦いのモチーフが挙げられているのだけれど、論文著者はこのあたりに当時の民衆の「期待の地平」(破壊とその救済)を見て取ることもできると指摘している。

「等価性」にどう抗うか

震災からまもなく2年というタイミングでなんだが、いろいろ思うところもあり、ジャン=リュック・ナンシー『破局の等価性(フクシマの後で)』Jean-Luc Nancy, L’Equivalence des catastrophes : (Après Fukushima), Galilée, 2012)に目を通す。これ、すでに邦訳も出ているけれど(『フクシマの後で: 破局・技術・民主主義』、渡名喜庸哲訳、以文社)、それが出る前に原書を購入してあったので、そちらで読んでみた。副題が「フクシマの後で」になっているのだけれど、ここでの「後で」というのは、連続性よりは断絶、先取りというよりは宙吊りという意味合いだとされている。というのも、フクシマの事故が明らかにした(アポカリプスの原義だ)のは、原子力に関して本来は軍事利用も平和利用も区別などなく、ただ後付け的に文明論的な布置によって区別がなされている、ということだからだ。その技術がもたらす恐怖を前にすれば、両者はまさしく等価になってしまう。しかも、それらがもたらす結果の甚大さはあらゆる制御・廃棄の手段をはるかに凌駕してしまう。しかしながら人は、あくまで技術の改良などでその制御を図る以外に対応を考えられない。それほどまでに人は技術との相互依存関係に蝕まれていて、それなしには生きられない。そのことはなにも原子力にとどまらない。技術そのものの相互依存性もいやがうえにも錯綜し複合化し、技術が技術に取って代わるだけの「等価性の支配」があらゆるものを、あらゆる世界を覆い尽くしていく。もはや自然災害など存在しない。あらゆる災害は技術的災害、あらゆる破局は人為的な創造物の破局でしかない……。

こうした悪夢のようなヴィジョン(とはいえそれは既視感ありまくり(笑)の議論でしかないけれど)をどう打破するか。改良・改善、あるいは再生・新生といった考え方は、そもそも過去から未来へという時間軸でモノを考えるやり方だ。過去から一足飛びに未来の企図(目標)へ。そこでは現在が脱落している。改善や再生とは別の仕方で思考を練り上げるには、現在を思考の俎上に載せなくてはならない。それはすなわち、一般化した等価性に、「個的なもの」の不等価性を対峙させることにほかならないのだ、と……。なるほどこれは方途としてあまりに抽象的で弱々しい。でも、それをもっと具体的な案件へと肉付けしていくことを考えてみてもよいのかも。その意味では、これは指針の書にもなりうる(かな?)。たとえば、復興と称して行政が、地元のニーズを無視し、一方的・画一的に建設工事を進めるような事例に照らし合わせるなら(そうした話が、たとえば青土社の『現代思想』4月号(特集:大震災七〇〇日)の一貫したトーンになっているけれど)、さしあたり現時点でのそれぞれ異なる地元のニーズを細かく実現するような話として、具体的な在り方を思い浮かべられるかもしれない。もちろんナンシーが言うように人は技術から逃れられない。けれども、いかに絡め取られていようと、その網状結合の中で、不等価なものを拾い出して価値付け(嫌な言い方だけれど)していくことはできるかもしれない。そんなことを改めて考えていきたい。

『鯰絵』再訪

IMG_035820年以上も前の、個人的にはとても懐かしい本(と言っても、当時はちゃんと読んでなかったりするのだが)を久々に手に取った。アウエハント『鯰絵−−民俗的想像力の世界(普及版)』(せりか書房、1989年)。小松和彦や中沢新一が翻訳を担当していたりする。たぶんこれのもとの版(普及版でないやつ)だと思うのだけれど、学生時代に生協の書籍部に行くたび、なにやらこの本が怪しい光を放っていた(苦笑)ように思われたのが忘れられない。以前に一度中身を見たことがあるはずなのだけれど、改めて見てみるとまったくと言ってよいほど覚えていない……。ま、それはともかく。「鯰絵」は1855年の安政の大地震を受けて大量に作られるようになった版画(浮世絵)の数々で、同書はその表象にテーマ別に切り込み、その背景をなしていた民俗信仰の「宗教的現象」を引っ張り上げようとした力作。原書は1964年だそうで、構造主義人類学のアプローチでもあり、その図式的な切り口など少しばかり古さを感じさせる部分もあるけれど、全体としては今読んでもとても面白い。キーとなるのは「対立的調和」というワード。とくに破壊と豊穣という対立概念が鯰絵全体の表象を貫いているのだとしている。荒ぶる神を鎮め、それに両義的に宿っているプラスの側面を強めて豊穣を祈願するという図式(というか構造)が、各種の個別要素を通じて浮かび上がる。その個別要素もまた、民俗的な信仰の中では様々に入れ替わる。たとえば瓢箪と杓子と石神(音読でシャクジ)と要石(鯰を鎮める石)、あるいはエビス神と猿と河童と瓢箪と鯰などのトリックスターの形象が、伝承や民間信仰の中で相互に入れ替わり、実に豊かな表象体系を作り上げる……。

一方でこうしたアプローチでは、そうした民間信仰が安政期にどれほどの強度を持っていたのかとか、そういう心性史的な側面はわからないのだけれど、それでも著者は地震後の鯰絵の台頭に、「時代の災難と(中略)この時代の増大する社会不安とが、疑いなく聖なる出来事(中略)、地震という危機的出来事においてその極に達した」という心性を見、「宗教的な感情がある役割を演じ始めるのは、まさにこうした状況への反応においてなのである。地震絵は独自のやり方でこれを描き出している」と記している(p.370)。「潜在意識の民俗宗教の諸要素」(同)が、そうした出来事を期に一気に蘇ってきたものだろうというわけだ。同書の著者はそこから一気に共同体的な普遍の相へと駆け上ろうとするのだけれど、個人的にはむしろそうした諸要素のもとに滞留して、それらの交錯する様子を眺めていたい衝動に駆られる。うーん、災害やその他のカタストロフィがもたらす心性と表象は、時代や地域を限定せずに、なにかこう「災禍表象学」とでもいったものに収斂してこないかしら、なんて(笑)。『鯰絵』はそうした漠然とした思いを抱かせてくれるという意味でも、依然怪しい光を放っている一冊かもしれない。

中世イスラムと災害

これはなかなか参考になる一編。アンナ・アカソイ『中世における災害へのイスラムの態度:地震と疫病の比較」(Anna Akasoy, Islamic Attitudes to Disasters in the Middle Ages: A Comparison of Earthquakes and Piagues, The Medieval History Journal, vol.10, 2007)。地震と疫病にまつわるアラブ圏の伝承や思想的伝統について、イスラム教以前から中世にいたるまで多面的にアプローチしようとしている。地震と疫病がペアで考察されているのは、宗教的に神の罰(イスラム教もキリスト教とその点ではさほど違わない)だとされるなど、一括りにされることが多いからだが、それでも当然扱いは一様ではない。興味深いのは、イスラム教以前のベドウィンの伝承の一つ。それによると地震は地球を支えているコズミックな魚が、イブリス(イスラム神話の魔王)からおのれの力の強さを教えられて動いた結果起きるとされていた……ナマズみたいな話。イスラム教になってからも、キリスト教にないアラブ系神話が伝えられていて、サーリフがサムード族のもとへ預言者として遣わされたとき、神のしるしとして連れていたラクダを不敬なサムード族が不具にしてしまい、その罰として地震(など?)が起きたという話があるのだとか。

ギリシアの学問がアラブ世界に伝えられると、たとえばイブン・バージャ(アヴェンバーチェ)やイブン・ルシュド(アヴェロエス)などは自然現象として地震について述べたりしている。とはいえ終末論としての地震が神によるものであることを否定してはいないという。地震に関する限り、宗教的説明と自然学的説明とを調和させようといった議論は見当たらないのだという。これはなかなか興味深い点だ。もちろん、そうした議論が文書として残されなかった可能性もあるといい、また自然学的議論がごく一部のエリート層に限られていて、広い層からの反論に応える必要もなかったという可能性もあるらしい。アヴェロエスが自説にこだわり、弟子の一人アブド・アル・カビールの顰蹙を買うという逸話もあるのだとか(笑)。

wikipedia (en)より、マンフレドゥス(デ・モンテ・インペリアーリ)『草木の書』から、アヴェロエスとポルフュリオスの空想的対話を描いた挿絵。14世紀