「Cinema」カテゴリーアーカイブ

新年は「奇想」三昧から

前回に引き続き、年末年始の「年越し本・年越し映画」から、印象に残ったもののメモを。今回はどれもある種の「奇想」(語弊を覚悟で言えば、ですが)という感じがするものばかりです。もちろん、作っている側にとっては奇想でもなんでもないのでしょうけれど。

カルロ・ロヴェッリ『すごい物理学講義』(竹内薫監訳、栗原俊秀訳、河出書房新社、2019)は、有名になった超弦理論のオルタナティブとして示された、ループ量子重力理論について、一般向けに解説・紹介したものです。こういうまったく畑違いの本を読むのはとても楽しいですね。普段まったく接しない世界なので、一種の奇想譚のように読めてしまいます(笑)。
https://amzn.to/4sCqF7G

このループ理論というものは、時間や空間を結晶格子状の離散的なものとして捉えるのだそうで、時空にはそれ以上分割できない最小単位がある、ということになるのだとか。また、それに倣うと、宇宙開闢のビッグバンもまたビッグバウンス(伸びたり縮んだりするという)の宇宙観になり、ブラックホールにしても、中に入ったものが縮減して消滅するのではなくなる、という話です。これは面白いですね。著者も同書で繰り返し触れていますが、デモクリトスとかの原子論(!)が、回り回って形を変え、蘇ってくるかのようです。

もう一つ、こちらは小説集ですが、オラフ・ステープルドン『火炎人類』(浜口稔訳、ちくま文庫、2025)を読んでみました。なんといっても中編の表題作(1947年の作)、その発想に舌を巻きました。
https://amzn.to/49Ms4AX

ステープルドンは、『スターメイカー』でもまさに奇想の権化という感じでしたが、こちらも同じように素晴らしいですね。語り手の友人からの手記というかたちで、石の中に長く閉じ込められていた、太陽由来の火のような生命体との、ファーストコンタクトおよびテレパシーでの交流が描かれます。はたしてこれはその友人の妄想なのか、またその生命体が実在するなら、敵なのか味方なのか。なかなかスリリングな展開が楽しめます。

これに触発されて、積読になっていた『最初にして最後の人類』を、ここぞとばかりに読み始めました(笑)。以前、スポメニック(東欧のアーティスティックな戦勝記念碑)を延々と映し出すヨハン・ヨハンソンの映画を見て、とても気になっていた原作です。

年末年始には映画も配信で数本見ましたが、玉石混交というふうでした。そのうちで個人的に一番ウケたのは、u-nextで配信中の『リライト』(松居大悟監督、2025)でした。
https://www.imdb.com/title/tt36579051/

始まってすぐに、「あれ?これって『時かけ』(時をかける少女)なの?」と思ったのですが、それはすぐに終了してしまい(かつて『コンスタンティン』が、冒頭5分で『エクソシスト』をやってしまったのと同じように)、そこから怒涛の「おばか話」(ほめ言葉です!)に突入していきます(笑)。この展開、ゲラゲラ笑いました。舞台が尾道で、大友宣彦へのオマージュというか、尾美としのりや石田ひかりが出ているのもポイントです。

粤語(広東語)の愉しみ

語学アプリのDuolingoは、基本的に各言語の初級コースを用意していますが、UIの言語設定によっては、いろいろ変わった言語のコースがあるようです。たとえばUIを日本語ではなく、英語に設定すると、アラビア語やラテン語、現代ギリシア語などの初級が学べたりします。

で、UIを中国語にすると、なんと粤語(えつご)、つまり俗に言う「広東語」のコースが選択できます。UIが中国語(北京語)なので、正解とかも北京語で出て来ます。そんなわけで、日本語のUIで中国語(北京語)を一通りやったあと(まあ、実は以前からNHKの語学講座を視聴していたりする万年初心者なのですが)、個人的に夏ごろから、粤語をかじっています。これがなかなかおもしろい。北京語よりも親しみやすい感じでしょうか。たとえば「茶を飲む」は「飲茶」(やむちゃ)で、北京語の「喝茶」(へーちゃ)と違います。

広東語を始めたので、参考文献も読んでみました。飯田真紀『広東語の世界: 香港、華南が育んだグローバル中国語』(中公新書、2024)。初心者向けに、広東語の諸相を簡潔かつ親しみやすい感じでまとめた本で、好印象です。いろいろと面白い話が満載です。
https://amzn.to/4bdt1mW

たとえば広東語の歌の話。そこでは、北京語ベースの書き言葉を、広東語的に発話するという、「言文不一致」が見られるのだといいます。映画の字幕などもそうなっているといい、香港の人々は、北京語ベースの字幕を広東語の音で読んでいるのだそうです。なかなか混沌としていて興味深い話ですね。古典的な漢詩なども、広東語の音で読むのは、また格別な味わいがあるのだとか。

広東語をやりたいと思うモチーフの一つは、やはり香港映画を見たい、少しでもわかりたいというところにあります(苦笑)。カンフーアクションとかね。ちょうどアマプラで、2024年のヒット作『トワイライト・ウォーリアーズ:決戦!九龍城砦』の見放題配信が始まっています。うん、これはいいですね。単なる復讐劇ではなく、世代間の継承などがテーマとして入っていて、個人的にはとても気に入りました。
https://amzn.to/3L9FvBt

この映画の最初のほうで、耳慣れたメロディが耳に飛び込んできます。荻野目洋子「ダンシング・ヒーロー」のカバー曲?、と思って調べると、もとはアンジー・ゴールドのEat You Upなんですね。知らんかった。まあ、とはいえ広東語ポップスは、日本の70年代、80年代のカバー曲もいろいろあるとのことで、カラオケで歌ってみたいところでもありますね(笑)。

一部のシチュエーションスリラーに足りないもの

Netflixで夏頃に配信していたドイツ映画『ブリック』(フィリップ・コッホ監督、2025)。全体的な評価点は低いようですけど、個人的には面白く観られました。ある日突然、マンションの各部屋が、窓も扉もなにかブロックのようなもので囲われてしまい、誰も出られなくなります。住民らは横穴・竪穴を掘るなどして、なんとか脱出を試みます。その過程で、どうやらそのブロックは、プログラマブルなものではないかということが判明していきます……。
https://www.imdb.com/title/tt31806049/

問題への対応があまりに簡単になされるあたりが、低評価の理由の一部なのだとは思いますが、ブロックの正体とか、脱出へのアプローチとか、それなりに考えて作っていることがわかるのが、個人的には好ましいと思った理由です。というのも、似たようなシチュエーションで、理由や正体や解決を、ひたすら放棄してしまうような作品を観たからです。こちらはフランス映画ですが、『ザ・タワー』(ギヨーム・二クルー監督、2022)というのがそれですね。
https://www.imdb.com/title/tt15152316/

これも得体の知れない闇に外部が覆われてしまって、住民たちは中で右往左往するという状況パニックものなのですが、いつしか人々は、内部の派閥抗争みたいなことに明け暮れるようになっていきます。これってある種の寓意ということなのかもしれませんが、それにしても何が起きたのか、闇の正体は何か、脱出の展望はないのか、いろいろなことが語られずじまいで、観ていてさっぱり面白くありません。

事態の解明を端から放棄しちゃってる、みたいな話、とくに近年のフランス映画で、とりわけ目にするようになってきた気がします。まるで現実の社会的な閉塞感を、再現しているかのようです。たとえば『動物界』(トマ・カイエ監督、2023)とか、『またヴィンセントは襲われる』(ステファン・カスタン監督、2023)とか。前者は、人間が動物にミューテーションしていくという奇病が流行っている世界の中で、青年の自立を描く話。後者は、目を合わせるとなぜか相手が猛り狂って攻撃してくる、という不条理に苛まれる男の話です。
https://www.imdb.com/title/tt16606592/

https://www.imdb.com/title/tt23790924/

前者は、ランティモスの『ロブスター』(2015年)の影響を感じますが、そちらは作品世界の背景が、政策的・人工的に作られた変異の世界だったのに対して、上のフランス映画は、そこを病気という扱いにしてしまい、いたずらにカオスの度合いを高めている印象です。でも結局、発症のメカニズムとかへの言及もなく、青年とその父親が迎える結末も「擬似的な結末」という感じで、必ずしも納得いくものではない気がします。後者についても、納得のいかなさとしては同じような印象で、シャマランの『ハプニング』の影響なのか、最低限触れるべき、あるいは描くべき、必要な描写が十分に果たされていない、という宙吊り感だけがあとに残ります。

うーん。「その宙吊り感こそが、描き手側の意図だった」、とでもいうのでしょうかねえ。でも、仮にそうだったとしても、それはもうとっくに使い古されていると思うのですけれど(苦笑)。もうひと工夫、あっていいように思われます。さらにもっと練り込まれた、面白い作品を観たいなあ、と思う今日この頃です(苦笑)。

悪態の裏側

小説や映画などにはときに、現実世界でならゆっくりと進行するような変化・変質が、なんらかの極限状態によって、過激なかたちで描かれることがあります。最近アマプラで観た『悪い夏』(城定秀夫監督、2025)にも、そんなシーンがありました。
https://www.imdb.com/title/tt35419785/

とある市役所で生活保護の申請を受け付ける職員が主人公で、自身はごく普通の職務上の対応をしているのですが、あるときヤクザがらみの脅し・ゆすりの一件に関与させられてしまい、一種の極限状態に追い込まれ、申請者にとんでもない暴言を吐いてしまいます。このシーン、半ば妄想的に描かれるので、どこからどこまでが実際に言い放った言葉なのかわからないのですが、かなり壮絶で印象的なシーンです。

映画自体は扱うテーマのわりには平坦な印象です。日本の住宅事情もあって、狭い部屋に大人たちが6人も7人も押し合いへし合いするというのが、すでにして画面設計上の難点になっていたりとか。でもその追い込まれて暴言を吐くというあたりは、誇張されたものではあっても、どこかリアリズムを感じさせますね。人が悪態をつく背景には、たとえ小さなものであろうと、なんらかの軋轢(とその積み重ね)があることが窺えます。

この作品を観て、個人的にまっさきに浮かんだのは、アーレントのアイヒマン解釈をめぐる論集『<悪の凡庸さ>を問い直す』(田野大輔・小野寺拓也編、大月書店、2023)でした。
https://amzn.to/47SyfmK

これによると、アイヒマンが組織の単なる歯車のような、凡庸な役人だったなどという見解はとうの昔に否定されているのだそうで、出世欲や功名心によって突き動かされて自覚的に職務を遂行していたというのが一般的解釈とされています。ユダヤ人をとくに憎んでいたわけではなくとも(その反ユダヤ主義は抽象的なイデオロギーにすぎなかったとされます)、「妬みや物欲、昇進への期待などといったさまざまな動機に突き動かされて、暴徒の群れに加わることになった」、「命じられた以上の成果を達成させていく有能かつ野心的な男の姿」が、そこにはあったというのですね。

しかしながらアーレントは、そこに思考の欠如を見出します。それは「全体主義の運動を批判的に捉える能力」の欠如のことで、後にはそれが「自身の独断主義のせい」だと言われたりもしていた、と。つまりは、「期待された役割を過剰に取り込みながら、昂揚感を追求したふるまい」にひたすら惑溺してしまい、それ以外が考えられないという思考の構えによるものだった、というのですね。

おそらくアイヒマンは長い時間をかけて、組織の中での自身の姿勢を練り上げていったのでしょう。その端緒を仮にぎゅっと圧縮・凝縮するなら、もしかすると上記の映画が描いた、主人公の妄想的で極端な文言に重なるのかもしれない、と思ったりしました。

悪というものについて

この夏もいくつか興味深い映画とかに出会いました。そのうちの一つが、ドミニク・モル監督作品『悪なき殺人』(2019)でした。数年前の公開作ですが、wowowオンデマンドの配信があったので出会えました。原題はseuls les betesで、英語タイトルもonly the animalsになっています。でも、やはり邦題がなんといっても秀逸ですね。映画は、ある殺人事件をめぐり、5人くらいを軸に、それぞれの物語を群像劇のスタイルで見せていくのですが、彼らのどこか因果めいたつながりが、「悪とは」「悪意とは」といった難しい問いを発せしめ、考察を促します。
https://www.imdb.com/title/tt10409498/

登場人物たちは、それぞれに心に満たされない空隙のようなものを抱えて生活しています。その空隙、あるいは空回りする欲望が、ときにその人物を突発的で予測不可能な行動に走らせます。多くの場合、それは誰か相手を巻き込むことになり、相手にも欲望とその障壁の狭間を生じさせ、いわば動物的な「悪のような行動」へと駆り立てます。こうして空隙は次々に連鎖をかたち作ってしまい、悪のような行動が人から人へと広がっていきます……。

その空隙、それはまるで手負いの動物の傷のようなものです。こんなことを思うと、まったく別の映画へと、タイトル(邦題)繋がりで思考が飛んでいきます(苦笑)。『悪は存在しない』(濱口竜介、2023)ですね。
https://www.imdb.com/title/tt28490044/

これ、それまでの濱口作品とはどこか違う、少し毛色の違った一作で、どう理解していいかなかなかわからないラストにいたり、騒然とした思いに囚われてしまいますが、女の子が亡くなるのが手負いの鹿に近づいたため、主人公が東京から来た開発業者に暴力的な行為を及ぼすのも、娘を失い手負いとなったため、というふうに見たまま解釈するならば、描き出している心的な力学は『悪なき殺人』にとても近いというか、相互に通底しているかのように思えてきます。

少し古めの本ですが、ジャン・ナベールの『悪についての試論』(杉村靖彦訳、法政大学出版局、2014)には、「正当化できないもの」という言い方で、人がなにかによって被る空隙について、次のように述べています。

それらはいかなる鎮めも想像できないような災悪であり、内的存在の裂開であり、葛藤であり、苦しみである。厳密な意味での悪とは、過ちのただ中で、いわゆる道徳的判断を排除することなく、道徳的判断を超えるものへと私たちを引き戻すものであるが、今述べた正当化できないものの形態としての災悪には、そうした悪と共通するところがある。共通するのは、規則に合っているか反しているかを決定する際に参照する意識のカテゴリーや機能によっては捉えられないという点である。(p.23)

その「正当化できないもの」を捉えるためにナベールが推奨する方途は、「正当化できないものの痕跡を探し求めた世界から、正当化できないものの真の源泉である自我へと還帰することである」(p.40)とされています。自己を見つめることができない(人に限らず動物もそうだとされるわけですが)状況に置かれたとき、いかにその傷を、空隙を、突発的な行動にいたる手前で引き受けていくことができるのか。上の映画たちはその答えを必ずしも用意しているとは思えませんが、それでもなおたえずそれを自己に(自我に)引き戻せ、とナベールは言っているように思われます。
https://amzn.to/427nHw6