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学問的な熱情も描いてほしい

お盆休みという感じで、wowowオンラインで配信されている『敵』(吉田大八監督、2024)を観てみました。長塚京三(久しぶりに見た気がしますね)演じる隠居した元大学教授の日常が、少しずつ妄想で削られ、あるとき一気に崩壊する、というあたりが、とてもドラマチックに描かれていました。imdbの英語タイトルが、「Teki cometh」と、日本語と古い英語の組み合わせになっているのが、なにやら興味深いです。
https://www.imdb.com/title/tt34279347/

筒井康隆の原作(新潮文庫、2000)も、少し前までkindle unlimitedに入っていました。そちらは映画以上に日常が淡々と描かれ、それが崩れていく様ももっとゆるやかで、掲示板に投稿される「敵」の到来メッセージの不穏さもいや増していたように思います。映画では今風に、メッセージはスパムメールで届き、最後はウイルス感染の画面イメージになっていました。
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でも、個人的に思うのですが、学者が主人公というのなら、もっと学問的な熱意・熱情といったものも、書かれていてほしい気がします。職業小説的な部分は今や小説作品の基本かなと思いますが、学者が主人公という場合、下世話な話や揶揄ばかりが続くというのも、案外多かったりし(これ、フランスなどの場合もそのようなので、日本に限った話じゃなさそうですが)、その真摯な学問的営為に触れる作品というのはそれほど見当たらない気がしていました。

そんな中でひときわ異彩を放っていたのが、『ゲーテはすべてを言った』(鈴木結生、朝日新聞出版、2025)でしょうか。ゲーテの専門家が偶然見にした、ゲーテのものとされる名言の英訳。その出所を突き止めるべく、ささやかな知的冒険が始まっていく、というお話。全体的になかなかの熱量で、散りばめられる学知ネタも面白いし、なにより筋立てが、剽窃話とかまでからみ、ちょっとしたサスペンスになっていて読ませます。学者一家の描写がちょっと牧歌的にすぎるという感じもないわけではありませんが、全体的にはスリリングです。
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こういうの、もっと読みたいですねえ。おそらくこうした熱情の描写が可能なのは、著者が実際にそういう学問世界で生きてきたからなのでしょう。とするなら、もっとそういう界隈で活動してきた人たちが、たくさん創作のほうへと押し寄せていってほしい気もします。うーん、それはちょっと難しいか……。

オデュッセイアに思う

過去にダイジェスト本であらすじを追ったり、部分的に原文購読をしてみたりもしたホメロス『オデュッセイア』。映画監督のクリストファー・ノーランが次回作の題材とするらしいという話もあることから、ここいらで改めて通読してみることに。kindle unlimitedに呉茂一訳のグーテンベルク21版が上下巻で入っていて、前々から気になっていたというのももちろんあります。これ、もとは集英社の世界文学全集(1974年)に入っていたもののようです。ちょっと古い表現に引っかかりはありますが、総じてとても読みやすい訳文になっています。
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基本的におとぎ話的な筋立てが、様々な口上でもって彩られ(クリシェも含めて)、複雑な語りの表現(長々と語られる身の上や、やたら細かい行動の描写などなど)をともなって展開していきます。登場人物たちの動きに天上の神々が介入してくるあたりが特徴的なわけですが、この「異次元での手打ちで問題解決」みたいな構造は、近年のアニメとか(とくにジブリアニメなど)でも踏襲されているわけですけれど(個人的にはあまり好みではありませんが)、ホメロスの場合は意外なほど気になりません。それほど、語りが輻輳化・複雑化しているということでしょうか。クライマックスの殺戮劇の部分などはとても活劇的で盛り上がります(笑)。

クリストファー・ノーランがこの題材をどう描くのかが気になります。ノーランは一般的に、いろいろな要素を盛り込みつつも、わりとしっかりした視点を据えて作品全体を構築するような気がしています。たとえば『オッペンハイマー』などは、あまり原爆開発そのものを前景に持ってこず(日本での公開が遅れたのはちょっと勇み足だった気がします)、人間関係におけるほんのわずかなボタンのかけ違いが、のちに大きなトラブルに発展していくさまを、おもにオッペンハイマーとストローズの対立の構図で描き出した作品になっていたように思います。
https://www.imdb.com/title/tt15398776/

では『オデュッセイア』では、どのあたりをどう前景化して映像化するのでしょうね。今から楽しみです。

時代劇とストイックさ

アマプラに入った『侍タイムトリッパー』を観てみました。序盤は昔のドリフのギャグみたいな感じで少し乗れない感じでしたが、途中から俄然面白くなりました。クライマックスの「真剣勝負」は迫力満点の見事な出来ですね。
https://www.imdb.com/title/tt32277931/

作品はメタ要素を入れてコメディやSFなどとのクロスオーバーみたいな感じになっていますが、テーマとしての時代劇のありようを、殺陣という要素から考察しているような感じも悪くありません。で、なにより良いのが、主人公のストイックさでしょうか。最近の時代劇の主人公に共通するキャラ設定です。これぞまさに時代劇の王道、という風でもあります。

フランスで公開が始まって好評だという『碁盤切り』の主人公も、まさにそんな感じでした。刀を振り回すだけが時代劇ではない、というところに力点があるように思われるストーリー展開も魅力的です。囲碁の因縁の決着は、やっぱり囲碁でつけないと、みたいな。これもジャンルとしての時代劇に、その本来の面白さの本質はどこにあるのかを考察した末の、一つの回答という感じです。ちなみにこれ、imdbのデータベースでは英語題名が『Bushido』でエントリされていますね。
https://www.imdb.com/title/tt31522349/

これも最近アマプラで観ましたが、少し前の『仕掛人・藤枝梅安』(2部作)もいいですね。こちらも静謐な画面構成などが見事です。池波正太郎の原作ですが、なんともストイックな、それでいてときに荒々しい主人公を中心に、刀を振り回すだけではない新感覚時代劇という感じになっています。バディものとしての面白さもあります。とくに第2部のほうですが、刀を振り回す相手に、基本的に接近戦でなくては対応できない仕掛人がどう対応するのかが、逆に見どころになっていたりもします。
https://www.imdb.com/title/tt24076340/

考えてみると、西部劇なども近年のものほど銃撃のアクションは少なくなっているように思えます。ジャンルが深まるというのはこういうことなのかもしれませんね。より思索的・自己考察的なっていく、というか。そういう流れで新しい作品が作られていくことは、個人的にはむしろ大歓迎です。

異世界嵌入もの

今年始めに亡くなったデヴィッド・リンチ。その追悼の意味もあって、少し前、久しぶりに『マルホランド・ドライブ』(2001)を観ました。これ、個人的にリンチの作品の中でもとりわけ好きな一本で、何度か観ています。とっつきやすさでも、一位二位を争う作品だと思っています。
https://www.imdb.com/title/tt0166924/

『ツイン・ピークス』あたりからとても顕著だったと思いますが、リンチの作品は「異世界嵌入もの」とでも言ったらよいでしょうか、作品世界の中に、その世界に対する異世界のようなものが唐突に嵌入してくる、みたいなのが多いですよね。それで作品が複雑・難解と言われてしまうわけですが、『マルホランド・ドライブ』は、その中では割とわかりやすいものになっている印象です。

こういう異世界嵌入に対して、作品内で登場人物がどう反応するかは、大まかなサブジャンル分けの指標になるかもしれませんね。登場人物がまずもってその異世界を認識するかどうかも問題です。認識し、それに対応しようとすれば、それだけでホラーなどになりえますし、認識できてもただ振り回されるだけだと、一種の不条理ものになっていきます。認識しないけれど、さしあたり目前の事態に対応するという場合、ある種のミステリーものとかに。認識せず、対応もできないという場合は、メタものや不条理ものなどいろいろな可能性がありそうです(『マルホランド・ドライブ』はここに入るでしょうか)。作り方によっては不条理を通り越して作品そのものの意義が失われそうになったりすることも(シャマランの『ハプニング』とか?)。

さて最近、国書刊行会のスタニスラフ・レム・コレクションに入っている『捜査』と『浴槽で発見された手記』の合本が、ようやく電子書籍化されたようで、さっそくkindle版を読んでみました。どちらも不条理な物語です。
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『捜査』は78年刊行の文庫本(深見弾訳)を読んだことがありますが、今回のは台詞回し(の訳)のせいか、少しわかりずらさというか不条理感が増している印象です。いずれにしても、これもまた、異世界嵌入ものという感じで、上の最後の類型(というほどのものでもないけれど)に分類されそうですが、挿話として統計的・確率論的な話、AI的な判断が人間の管理を逃れるみたいな話が先取りされていたりして、今読むとなにやら示唆的です。

居場所の意味論?

このところ立て続けに、人が居場所を見つけ滞留することの意味を問うかのような映画を観ました。一つは『聖なる犯罪者』(ヤン・コマサ監督、2019)。ポーランドのフランスの合作で、少年院を出所した青年が、とある村で司祭を騙って住民たちに溶け込む姿を描いていく、というものです。
https://www.imdb.com/title/tt8649186/

もちろん、いずれ正体がバレるのだろうなあ、と観る側は思いつつ、でも少しでもこの青年にとっての「偽りの」よい関係が続いてほしいような気持ちにもなります。そのあたり、ある種の緊張感を伴いつつ、話は展開していきます。

もう一つは邦画で、『夜明けのすべて』(三宅唱監督、2024)。月経前症候群でときおり精神的に不安定になる女性と、パニック障害を抱えた職場の新人男性。この二人の出会いと、その後の交流が、相互に好影響を与える様を描いています。二人とも、とりあえず、自分の居場所を見出していきます。
https://www.imdb.com/title/tt26731970/

どちらの作品も、荒ぶる精神状態が、居場所を得るを通じて鎮静化するプロセスに光を当てているように思います。前者では、たとえ偽りであっても、なんからの社会的な居場所を得ることで、人はいっとき落ち着きを得、成長していくということわりでしょうか。居場所というものが、ある意味とてもはかない、人為的な構築物でしかなかったとしても、それがなんらかの緩和ケア的な意味をもたらすというのは、なかなか興味深い観点です。

後者で浮き彫りになるのは、「居場所」そのものが流動的なものかもしれないという観点でしょうか。いったん落ち着いた当の場所は、必ずしも最終的な場所・最終型ではないかもしれない、と。しかしそこで培われる身の処し方は、いつかまた別のどこかで活かされるかもしれない。その流転が人を生かし続けるのかも、というわけです。

映画の基本の一つはロードムービーだと思っていますが、ロードムービーとはつまり、居場所をひたすら探しは移動し続けていくことなのかもしれません。それが物語を生み、人のなんらかの資質を開花させ、また人の営みの意味を考えさせていく。映画を観る醍醐味の一つはそんなことろにありそうです。