カンヌ映画祭が始まっているけれど、今年はコンペティション部門に17世紀の題材を扱った作品が2つも入っている。一つはジャンバティスタ・バジーレ(1566-1532)の『物語の中の物語』を原作とした、同名のマッテオ・ガローネ監督作品。でもこれ、トレーラーを見る限り、歴史もの風なダーク・ファンタジーという趣き(?)。フォーレが背景に流れているが、これはどうなのよ、という感じがしなくもない……(笑)。原作とされている説話集は、イタリア語の統一に押されてナポリ語(ナポリ方言)が衰退しつつあったことを嘆いたバジーレが、ナポリ地方の説話を収集したもので、バジーレの死後にボッカッチョに倣って『ペンタメローネ(五日物語)』と改題されたのだとか。バジーレもちょっと面白い人物らしく、貧しい家の出だったために傭兵をしながら各地を転々としていたのだという。軍人であり詩人でもあった、というわけだ。ちなみに『ペンタメローネ』は95年に大修館書店刊行で邦訳が出ている(杉山洋子、三宅忠明訳)。さらに2005年に文庫化されてもいる(ちくま文庫)。Kindleでイタリア語版(Lo cuntu de li cunti – Il Raconto dei Racconti)も出ている。うん、ちょっと面白そうだ。
経済史のちょっと面白い論文。アントニオ・カストロ・ヘンリケス「租税国家の台頭、ポルトガル、1371-1401」(António Castro Henriques, The Rise of a Tax State: Portugal, 1371-1401, E-Journal of Portuguese History Vol. 12, 2014)(PDFはこちら)というもの。基本的に戦費を賄うことが税務の必要性の高まりと課税の強化をもたらした、との一般論があるけれども、この論考は、戦争と税制の関連は必ずしもそう単純ではないかもしれないという話を、14世紀後半のポルトガルを例に検証するという内容。14世紀後半のポルトガルは、ジョアン一世のアヴィス王朝が始まり、カスティーリャとの戦争が繰り広げられた時代。このころ、税制もいわゆる売上税(sisa)が広がり、年代記などではその戦争こそが売上税の導入をもたらしたと記されていたりし、それを受けて90年代ごろの税制史研究でも両者を割と短絡的に結びつけている例があるのだという。けれども事はそう単純ではないようで、たとえば同時期の英仏百年戦争は、同じような恒久的課税制度をもたらしてはいないという。同じくまことしやかに言われてきた説として、ポルトガルの場合、売上税が導入されたのはまずは自治体によってで、戦争を口実に王朝がそれを自治体から奪い、メインの財源に据えたというボトムアップ説があるというのだけれど、論文著者によれば、史料からはむしろ、14世紀のほとんどの売上税は宮廷による要請にもとづいているようだといい、宮廷への納付のために自治体が売上税を徴収していたというトップダウン説を唱えることも十分可能だという。また、当初は「重量ベース」だった売上税(通行税みたいなもので、商品が自治体に運ばれるときに徴収された)が「価格ベース」になったのも、1372年に宮廷が売上税を全土に課した際の重大な変更だったという。宮廷にとっては安定財源になるわけだけれど、自治体からすれば重い負担にもなった。で、戦争との絡みでいえば、それら売上税は戦争前から存在していたといい(価格ベースになったのも戦争前)、しかも総合的には、戦争の前後で宮廷の税収は実質的にそれほど違ってはいないのだという(金属含有量や交換レートで見れば、税収は表面的に悪化しているらしいのだけれど)。うーん、戦争と税制の両者の関連性はずいぶん相対化されている印象だ。
これも知らなかったのだけれど、記号論の嚆矢として17世紀のポルトガル出身のドミニコ会士ジョン(ジョアンノ)・ポインソット(別名:聖トマスのジョン)という人物がいるのだそうで、1632年に『記号論(Tractatus de Signis)』という書を著している。デカルトとほぼ同時代ということもあって、両者が対照されるような研究もあり、いちおうポインソットは実在論側に位置づけられているのだけれど(新トマス主義の枠組みで)、実はその位置づけは多少とも揺らぎうるのではないか、という主旨の論考を読んでみた。マルク・シャンパーニュ「性質の共有による現実との融合をめぐる、ポインソットとパースの議論」(Marc Champagne, Poinsot versus Peirce on Merging with Reality by Sharing a Quality, to appear in a special issue of Versus: Quaderni di studi semiotici)というもの。チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)の記号分類(イコン、インデックス、シンボル)のうち、イコン(対象との類似性にもとづき、その対象を示す記号を言う)に相当するものについて、ポインソットとパースの立場の違いを取り上げている(一見なかなか剛胆な比較だが)。イコンには、それが示す対象との類似性がなくてはならないわけだけれど、それがあまりに少なければ記号になり得ないし、逆にあまりに類似しすぎていれば(対象と完全に一致するような場合)、それもまた記号ではなくなってしまう。このことは心的なイメージ(感覚的スペキエス)と外部世界にも適用されうる。で、この上限についてポインソットは、対象と記号との類似が完全に近いほど、表象の効果は大きくなるものの、両者が完全に同一化することはないとして、最低限の相違が必要だとしている。心的なイメージと外部世界の関係でいえば、両者は完全には一致しないということになる。その意味で、ポインソットにおいては実在論は完全には成立しないのではないか、というわけだ。これがパースともなると、対象との同一化は記号原理を無効にしてしまうとしつつも、完全な融合(自立的に存在するという意味で、第一性と称されている)の余地を温存しているという。記号と対象から、それらが共有する性質だけを独立した関係性として取り出すことができるという議論だが、それこそがまさしく最低限の論理記号学的近接性をなすというのだ。
前回のエントリの続き、というわけでもないのだけれど、スコトゥスの時間概念についての考察を見かけたので取り上げておこう。パスカル・マシー「ドゥンス・スコトゥスにおける時間と偶有性」(Pascal Massie, Time and Contingency in Duns Scotus, The Saint Anselm Journal, vol. 3.2, 2006 )(PDFはこちら)。哲学プロパーの議論に踏み込んでいるので、ちょっとややこしいのだけれど、とりあえずまとめておこう。ここでもまずは、時間を運動の考察から切り離したことがスコトゥスの大きな転換だったとされている。スコトゥスは、運動のともなわない時間がありうるという議論(現実態の時間のほか、潜在的時間も存在するという)を示しているという。この観点からすると、たとえば「時間を超越している」とされる神にとっての「永遠」はどういうものになるのだろうか。ボエティウスなどは、「円の外周のどの点も中心から等しい」ように、神にとっては時間のどの時点も同様に現在をなしている、といった言い方をしているというのだが、スコトゥスはこれに異を唱える。この円周と中心のイメージを修正し、次のように言うというのだ。時間の円は最初に点の全体が与えられるのではなく、中心と任意の端部の点から成る直線がたえず動き続けるだけで、各瞬間には円周が存在してはいない。言い換えると時間の円は固定されているのではなく、幾何学者の想像力においてたえず描かれつつある。つまり、その永遠なるものは、潜在的な時間(ありうる円周上の諸点)とは共存(co-exist)していない。永遠概念が共存できるのはあくまで現実態の時間的存在(実際に動く端部)とのみなのだ。神にとっての現在(時間を超越した現在、つまりは永遠)は、現実態の時間、すなわち時間的な「今」とのみ共存可能なのだ、と。