かなり前にダウンロードしたベンジャミン・ポール・ウィンター「ボナヴェントゥラによる六つの反・世界永劫論の哲学的・神学的分析」(Benjamin Paul Winter, A Philosophical and Theological Analysis of Bonaventure’s Six Arguments against the Eternity of the World, Villanova University, 2014)(修論のようだが、あれれ、これは現在ダウンロード不可?)にざっと眼を通す。ボナヴェントゥラはアリストテレスの議論を踏まえつつも、その「世界永劫論」に対しては否定的なスタンスを取っていた。けれどもそれはトマス・アクィナスなどの議論とは大きく異なっている……。というわけで、同論考はそのあたりを具体的に見ていこうとし、結果的にまとめとして有益な論考になっている。ボナヴェントゥラが展開した議論は6つ(ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』への注解として論じている)。(1)無限には別要素を加えることができない。(2)無限の数は秩序づけることができない。(3)無限であるものを横断することはできない。(4)有限の能力によって無限を掌握することはできない。(5)無限数の事物が同時に存在することはありえない。(6)無から有になったものが、永遠の存在を得ることはありえない。論文著者はこのうち(1)から(3)を数学的・哲学的議論、残りを神学的議論(無からの創造の教義に関わるもの)と区分している。
偽プルタルコスの『音楽について』を、Loeb版(Moralia, Volume XIV: That Epicurus Actually Makes a Pleasant Life Impossible. Reply to Colotes in Defence of the Other Philosophers. Is “Live Unknown” a Wise Precept? On Music (Loeb Classical Library))で一通り読んでみた。これもなかなか面白い。音楽に詳しい二人の人物が、招かれた食事の席で音楽史というかその来歴について蕩々と語るというもの。最初に話をするリュシアスは、音楽がキタラに合わせて唄うことから始まったとし、ゼウスとアンティオペの子、アンピオンを開祖としている。神話世界からの連続的な歴史記述が面白いが、その中でも笛などの音楽よりもキタラのほうが古いと述べているのが印象的だ。笛も最初は伴奏用で、それから単独で演奏されるようになったとされている。さらに、ドーリア、フリギア、リディアの各旋法も古くからあったとされ、時代が下るにつれていくつかのノモスが確立されていくと説明される。ギリシア音階のエンハーモニーの考案者はアリストクセノス(前四世紀:最初の音楽理論家ともされる)だといい、リズム形式についてはテルパンドロス(前七世紀:四弦キタラを七弦にした人物でもある)が革新的だ、などと述べている。で、それに続いて今度は、ソーテリコスが語り始める。そちらは古代の人々と近代(というか同時代の)人々との対比を取り上げ、ミクソリディア旋法などの台頭について述べてみせる。詩人たちが悲劇を伴奏するようになっても、なかなかあえて半音階を用いることはなかったが、それは「近年」になって用いられるようになってきた、という(キタラの音楽ははじめから半音階が用いられていたとされたりする)。一方でリズムに関しては古代のほうが複雑だったという。そこから今度は和声法的な話になり、数比の話などが出てくる。戦と音楽、テルパンドロス(再び!)の革新性、ヒポリディア旋法の考案(ポリュムネストスとされる)、熱狂的叙情詩(ヘルモネのラソス)、音楽教育の基本、理論の発展、音楽療法など、様々な細かい話題が続いていく。
『音楽について』はプルタルコス『モラリア』の末尾を飾るテキストだが、これはプルタルコスのものではないという説が有力とされていて、おそらくは13世紀のビザンツの学者マクシモス・プラヌーデースが『モラリア』の文書群に入れたものでは、と言われている。アンジェロ・メリアーニ「カルロ・バルグリオのラテン語訳プルタルコス『音楽について』へのノート」(Angelo Meriani, Appunti sul De musica di Plutarco tradotto in latino da Carlo Valgulio, in Ecos de Plutarco en Europa. De fortuna Plutarchi studia selecta, ed. Aguilar & Alfageme, Sociedad Española de Plutarquistas, 2006)(PDFはこちら←注意:このPDFは2ページ目以降が上下逆になっているので要編集)という論考によれば、一六世紀に再発見された際、すでにエラスムスや仏語訳を手がけたジャック・アミヨなどが、文体的な違いをもとに、プルタルコスを著者とする説に疑念を表明しているという(音楽理論家でリュート奏者でもあったヴィンチェンツォ・ガリレイも同調しているのだとか)。同論考では、このテキストには同時代への言及などが盛んにあって、しかも明確にアナクロニックな部分もあることから、後の時代に舞台となった時代を思い描いて記された文章なのだろうとしている。同論考はさらにその一六世紀の受容について、上のガリレイや彼がもとにしたバルグリオのラテン語訳について追っている。
カンヌ映画祭が始まっているけれど、今年はコンペティション部門に17世紀の題材を扱った作品が2つも入っている。一つはジャンバティスタ・バジーレ(1566-1532)の『物語の中の物語』を原作とした、同名のマッテオ・ガローネ監督作品。でもこれ、トレーラーを見る限り、歴史もの風なダーク・ファンタジーという趣き(?)。フォーレが背景に流れているが、これはどうなのよ、という感じがしなくもない……(笑)。原作とされている説話集は、イタリア語の統一に押されてナポリ語(ナポリ方言)が衰退しつつあったことを嘆いたバジーレが、ナポリ地方の説話を収集したもので、バジーレの死後にボッカッチョに倣って『ペンタメローネ(五日物語)』と改題されたのだとか。バジーレもちょっと面白い人物らしく、貧しい家の出だったために傭兵をしながら各地を転々としていたのだという。軍人であり詩人でもあった、というわけだ。ちなみに『ペンタメローネ』は95年に大修館書店刊行で邦訳が出ている(杉山洋子、三宅忠明訳)。さらに2005年に文庫化されてもいる(ちくま文庫)。Kindleでイタリア語版(Lo cuntu de li cunti – Il Raconto dei Racconti)も出ている。うん、ちょっと面白そうだ。