眼についての様々な議論(中世盛期)

ジョイ・ホーキンズ「眼の保護になるもの:中世イングランドにおける視覚と健康」(Joy Hawkins, Sights for sore eyes: Vision and Health in Medieval England, On Light, eds. K. P. Clarke and S. Baccianti, 2014)という論考を見てみた。中世(盛期)における「視覚」についての様々な議論を俯瞰してみせてくれる、なかなかためになる一篇。というわけで早速メモ。

視覚についての伝統的な説明には、アリストテレスの受動説(物体が放出する光線を眼が受け取る)とガレノスの能動説(眼からビームのようなものが発射され、それが物体に反射し戻ってくるときに像を写し取る)の二つがあったわけだけれど、とくにガレノスの唱えるビーム説(ビームではなく視覚的精気なのだけれど)は、眼が受け取る像は身体の均衡を良いほうにも悪いほうにも変化させうるという帰結が導かれ、中世盛期には巷の一般医などに広く知られるようになっていたという。美しいものを見れば心身も健康になっていき、そうでないものを見れば悪くなっていく、というわけだ。で、そうした発想は、たとえば「キラキラと輝く宝石など貴重な石を見ることで心身の健康が保たれる」という教説を通じて、パワーストーンの考え方にも繋がっていくらしい。バルトロメウス・アングリクス(13世紀)などがまさにそうで、自著の百科全書『事物の諸属性について』では、セビリアのイシドルスやディオスコリデスを典拠に、宝石の治療上の作用をまとめていたりする。眼にとっての石の効用については、ほかにもペトルス・ヒスパヌスやチョーサーなどが言及されている。

さらにそうしたケアの話として、環境そのものに眼に優しい色を配置する話も取り上げられている。緑が眼に優しいといった説はアルベルトゥス・マグヌスやペトルス・ヒスパヌスにもあるほか、遡ってビンゲンのヒルデガルトにも見出されるという。続いて同論考は、とくに聖職者において加齢による視力の低下が深刻な問題だったこと、またそれに関連した眼鏡の使用の略史などにも触れている。そして次に、眼を見ることで相手の健康状態や魂の状態がわかるといった話へと進んでいく。脳の中にある動物精気に近い器官として、眼は相手の魂および精気の状態を雄弁に物語るというわけだ。話はさらに治療の方法(温水、ハーブ水などなど)にも及んでいる。

『事物の諸属性について』の15盛期の写本の挿絵。著者バルトロメウスの人生が並存的に描かれている。
『事物の諸属性について』の15盛期の写本の挿絵。著者バルトロメウスの人生が並存的に描かれている。

中世の弁神論的限界?

「キリスト教の神は無限の愛であるとされるのに、一方では地獄において劫罰を科す。これって矛盾じゃないの?」。こういう疑問、キリスト教に触れれば誰でも一度くらいは思うんじゃないだろうか。あるいは、人間の罪に対して罰があまりに重すぎることにならないか、とか。でも、するとそこで、神の無限の思惟は人間には到底推測できないのだとの原則でもって、なにやら煙に巻かれてしまったりもする。それでは神秘主義というか、ある種の思考停止状態でしかないように思えるのだけれど、そのあたりに甘んじず、矛盾なら矛盾としてちゃんと検証しようという論考があってもいい。というか、あった(笑)。ケリー・ジェイムズ・クラーク「神は偉大、神は善:中世の神的な善の概念と、地獄の問題」(Kelly James Clark, God is Great, God is Good: Medieval Conceptions of Divine Goodness and the Problem of Hell, Religious Studies 37, 2001)(PDFはこちら)。いちおう中世の議論が取り上げられているのだけれど、具体的にはアウグスティヌスとトマス・アクィナスのみ。このあたりがちょっと寂しいところではある。でも面白いのは、この両者の議論(とくにトマス)をもとに、神の善性について、偉大さ(被造物を創造した点において)としての善と、ペアレンタル(被造物を庇護するという点において)な善という二系列があるとした上で、それらの善と地獄の罰との両立可能性があるかどうかを改めて検証しているところ。

結論から言うと、上の二系列の善と地獄の劫罰とからなるトリレンマはやはりどうあっても解消しきれない。まあ、わかりきった結論ではあるけれど(苦笑)。でもそれにいたる途中の話はいろいろと参考になるかもしれない。たとえば処罰観の変遷。アウグスティヌスは(後のトマスもだが)、結局存在することは非在であるよりも善なのだから、地獄に落とされた者たちも存続させることが善なのだと言う(けれども論文著者が言うように、当人からすれば永劫の罰に苛まれるよりも消滅を望むだろうという視点は、この議論にはない)。これが中世になると、処罰と罪のバランスという観点から、永劫の罰は永遠の神に対する侵害に相応しいものなのだとされる(再び論文著者が言うように、無限の神が有限の人間に侵害されることはありえない、という視点はこの議論にはない)。さらにダンテの地獄観から着想されたエレノア・スタンプ(現代の研究者だ)の解釈も紹介されている。地獄の人々は、それぞれの罪に対応する限定的な善に拘泥しつつ永遠に存在することを選択したと考えられ、これを神が許したとするならそれも善だと言えなくもない、というわけだが、論文著者はこれにも、非在のほうが望ましい状況もありうるなどの批判を展開してみせる(詳細は割愛)。

上の神秘主義的な回答も、そうしたトリレンマへの一つの対応ではあるのだろう。そのあたりは中世(盛期)の弁神論の限界をなしているのかもしれない(?)。でもやはり考えてみたいのは、トマスだけが中世思想ではないのは当然であるし、上の二系列以外に神の善性の考え方というのはないのかしら、というあたりか。

エウクレイデス(とプロクロス)

Greek Mathematical Works, Volume I: Thales to Euclid (Loeb Classical Library)先のアルキメデスに続き、今度はエウクレイデスの『原論』をごく一部だけれど、同じくLoeb版の『ギリシアの数学著作集』(Greek Mathematical Works, Volume I: Thales to Euclid, Loeb Classical Library, Harvard Univ. Press, 1939-98)で読んでみた。例によって、なにやら解せない部分も多い。プロクロスの注解など他の文献の抜粋なども収録されていたりして、『原論』が扱っている問題の広がりはイメージできるものの、中味はかなりわかりにくい。とくに、これこれの証明は何のためにやっているのか、というあたりがとてもわかりにくい(苦笑)。

ユークリッド『原論』とは何か―二千年読みつがれた数学の古典 (岩波科学ライブラリー)……というわけで、とりあえず全体の見通しを立てる(あるいは補助線を引く)意味もあって、アルキメデスの概説に続き斎藤憲『ユークリッド『原論』とは何か―二千年読みつがれた数学の古典 (岩波科学ライブラリー)』、岩波書店、2008-2013を読み始めたのだけれど、そうしたわかりにくさの正体の一端が見事に解説されていてとても有益だ。たとえば二章め。上のLoebの選集には入っていないけれど、『原論』第一巻は最初の命題1が正三角形の作図、命題2と3は点と線がそれぞれ与えられとき、点を起点とし、その与えられた線と同じ長さの線を作図する問題、そして命題4で二辺夾角が等しい三角形は合同という条件の論証となるのだとか。プロクロスなどはこの命題1が何を意味しているのか掌握しきれずに、「三角形が存在することの証明なのだ」として、注解に二等辺三角形や不等辺三角形の作図方法まで載せているという(笑)。さらに命題4より前の証明は不要だとも説いているらしい。けれども著者によると、この命題3までの論証は、「直線の移動、重ね合わせという、三角形の合同条件を証明するために不可欠な操作を保証するための、最小限でまったく無駄のない準備だった」(pp.38-39)のだという。

命題に入る前の最初の「定義」に続く「要請」部分は、あらかじめ承認すべきことが列挙されていて、その冒頭には「点から点へ直線を引くこと」「円を描くこと」などがあるのだが、これについて同書は、パルメニデスが始祖とされるエレア派の、運動をすべて否定する考え方による批判を予め牽制したものではないかという説を紹介している。その点についても、「運動の可能性を命題でわざわざ証明することはプロクロスには思いつかなかった」(p.39)のではないか、と記している。プロクロスは「要請」での直線や円の作図保証を、点の運動によって直線や円が生成することを記述したものと捉えているようだという(同)。エウクレイデスのはるか後世のプロクロスにとっては、もはや運動は当たり前のことで、エウクレイデスがもしかしたらエレア派に対して張ったかもしれない予防線になど、とうてい思い至らないようだというわけだ。そういう話を聞くと、逆にプロクロスの注解が俄然面白そうにも思えてくる(笑)。

美術史家のギロチン考

La guillotine et l'imaginaire de la Terreurまたまたダニエル・アラスの著作から、『ギロチンと恐怖の想像領域』(Daniel Arasse, La guillotine et l’imaginaire de la Terreur, Flammarion, 1987-2010)を読んでいるところ。まだほぼ前半。タイトルの通り、これはギロチンにまつわる表象史の試み。罪人の処刑方法(斬首や八つ裂きなど)が残忍だとされた18世紀に、もっとスピーディに苦痛もなく処刑ができる方法として考案されたのがギロチンで、提唱者のギヨタンはその「人道的」な面を強調していた。装置の原型はもっと古いようで、15世紀から16世紀のイタリアにはその古形があったというし、12〜13世紀のナポリほかに同じような装置があったとも言われる。けれどもやはり面白いのは、当初唱えられた人道性に反して、ギロチンが恐怖の対象となっていったその有様だ。処刑のあまりの迅速さや、斬首後に首がまだ動いているという光景、さらにそこから類推される、受刑者が進行中のみずからの死を認識できているのではないか、身体というのはやはり機械論的なものにすぎないのではないか、といった発想が、その装置のイメージを一挙に貶めていく。一方では、医学的な身体での機械論が政治的身体へと接合されて、頭部としての王の不要論へと繋がっていき、やがては王の斬首を準備することにもなる……。

いずれにせよ、称揚されるものに必ず付随する負の側面が予想を超えて拡大していく様を示す実例として、ギロチンはとても興味深い対象なのだなということがよくわかる。それにしてもその古形というのが気になってくる……(笑)。後半はまだちらっと見てみただけだけれど、処刑台が新たな神殿・新たな宗教のようになっていく様や、文字通りの舞台装置としての公開処刑、さらには斬首のポートレートの話など、装置の周辺へと広がっていく想像領域がそれぞれ取り上げてられているようだ。

アストロラーベの語源・起源?

今週は印刷博物館の「ヴァチカン教皇庁図書館展II – 書物がひらくルネサンス」を観てきた。教皇庁図書館を描いたプロジェクション・マッピングの上映がなかなかよくできたアトラクションになっていた。展示自体は初期印刷本の数々(聖書、様々な古典)を中心としていてある意味地味なのだけれど、そのせいか同アトラクションこそが動的な見所という感じで異彩を放っている(笑)。でも展示の中にも、たとえばペトルス・アピアヌスの『コスモグラフィア』など(これは印刷博物館所蔵)があって、書物の中での動的世界を想像させるものも必ずしもないわけではない……と。

で、それに関連してというか、ちょっと古いけれど、これまた興味深い論文を見てみた。デヴィッド・キング「中世イスラム文献によるアストロラーベの起源」(David A. King, The Origin of the Astrolabe According to the Medieval Islamic Sources, Journal of the History of Arabic Science, Vol. 5, 1981)。古代からの天文観測機器であるアストロラーベは、発明者などは未詳とされているわけだけれど、アラブ世界の文献からその語源や発明についての言及を集めたもの。わずか数ページの序文でさえ、すでにいろいろと面白い指摘がなされている。アラブ世界ではastrulabと言い、初期のアラビア語文献では、これが「星を取る」という意味だと説明されているという(星を表すギリシア語のἄστρονに「取る」を意味するλαμβάνεινの過去形の語根がついたものというギリシアでの解釈に対応するものだ)が、ほかにも「太陽の均衡」とか、「太陽の鏡」などを意味するといった説もあったという。発明者についても、イドリス(預言者エノク)の息子ラーブであるという話があるものの、これは完全なフィクションで、少し下ったほぼ同時代の別の論者による批判もあるのだとか。astrulabを「ラーブの線描」の意味だとする民間語源もあるといい、また、ラーブをヘルメスの子とする話もあるそうで、このあたり、説話論的にもとても興味をそそる現象だ。さらにはプトレマイオスがアストロラーベの考案者だという話もあって(これもフィクション)、面白い逸話になっている。天球儀をもって動物の背中に乗っていたプトレマイオスが、その天球儀を落としたところ、動物がそれを踏みつぶし、できたのがアストロラーベだった、と(笑)。ほかにもヒッパルコスが考案者だという話もあり(タービット・イブン・クーラによる)、実際ヒッパルコスの時代には立体射影がすでに知られていたともいうのだが、この話を紹介する文献には上のラーブの話も載っていたりするそうで(つまりはギリシアがその文献の出典元ではないということになる……)、このあたりの錯綜感もまた、なにやら説話的に気をそそる。

wikipediaより、16世紀のアストロラーベ
wikipediaより、16世紀のアストロラーベ