電子書籍……

メルマガのほうで「Ad Gaurum」という、元は偽ガレノス文書とされ、今やポルピュリオスの著作ではと言われている書簡を取り上げている。胚への魂の付与がいつどうなされるかを論じた、その筋では重要な文献という話。ギリシア語原文は入手できていないのだけれど(19世紀末ごろの版があるらしい)、とりあえず廉価で手に入る仏訳を参照している。Arbore d’OrというスイスのeBook専門のオンラインストアにある『ニンフの洞窟』との合本。7ユーロちょい。訳も悪くない気がする。もちろん、もっと学術的に厳密な訳がいいというなら、たとえば仏訳ではフェステュジエールの『ヘルメス・トリスメギストスの啓示』の第三巻(1953)の付録とかがある。こちらのCNRSのページによれば、リュック・ブリソン監修で訳出・注釈作業が進んでいるらしいし、独訳も2つあることがわかる。そのページに記されている2005年7月の会議というのが、例の論集『胚 – 形成と生命付与(生命活動としていたけれど、これも修正)』のもとになったもの。

でもま、個人的には学術訳と一般向け訳とあっていいと常々思っているので(両方が併存するのが理想)、とりあえず廉価な電子本は大歓迎だ。上のeBookはPDF形式なのだけれど、これをAdobe Readerではなく、Adobe Digital Editionsとかで開くと、結構快適に画面で眺めることができるし。で、こういうのを見るとAmazonのkindleとかも早くMac版配布しないかな、なんて思ってしまう……。うーん、こうやって電子本時代に馴染んでいくのかしらね。

プセロス「カルデア古代教義概説」 – 7

16. Τῶν δὲ ζωογόνων ἀρχῶν ἡ μὲν ἀκρότης Ἑκάτη καλεῖται, ἡ δὲ μεσότης ψυχὴ ἀρχική, ἡ δὲ ἀποπεράτωσις ἀρετὴ ἀρχική.

17. Μετὰ δὲ τὴν ἀρχικήν τάξιν ἡ τῶν ἀρχαγγέλων ἐστίν· ἀπὸ δὲ πασῶν τῶν ἀρχῶν ἡγεμόνες ἄγγελοι προέρχονται.

18. Μετὰ δὲ τὴν ἀρχαγγελικὴν πρόοδον ταῖς ἀρχαῖς συνηρτημένην ἡ τῶν ἄζωνων ὑφίσταται· ἄζωνοι δὲ καλοῦνται ὡς εὐλύτως ἐνεξουσιάζοντες ταῖς ζωναῖς καὶ ὑπεριδρυμμένοι τῶν ἐμφανῶν θεῶν.

19. Μετὰ δὲ τὰς ζωνὰς ὁ ἀπλανὴς κύκλος, περιέχων τὰς ἑπτὰ σφαίρας.

16. 生命をもたらす原理のうち、最も高みにあるものがヘカテーと呼ばれ、中程にあるものが支配的魂、端にあるものが支配的徳と呼ばれる。

17. 支配的なものの序列の次に来るのは、大天使の序列である。指導的な天使はすべての原理に先立つ。

18. 原理に結びついた大天使の行列の後には、帯をなさないものの行列が来る。帯をなさないものと呼ばれるわけは、帯に対して難なく自由に振る舞え、目に見える神の上に置かれるからである。

19. 帯の次に来るのは固定した円であり、それは七つの天球を取り巻く。

アッティコス

これまたちびちびと読んでいた希仏対訳本『アッティコス – 断片集 』(“Atticus – fragments”, trad. Édouard des Places, Les Belles Lettres, 2002″。主要部分は一通り目を通したが、これもまた面白い。中期プラトン主義のヌメニオスのちょっと後くらいの時代の人(二世紀)だというけれど、なにやら生涯とか詳しいことはわからないという。プラトンとアリストテレスを折衷しようという動きに反対しているようで、基本的に両者は相容れないという立場に立つようだ。たとえば「生まれたものがすべて滅するとは限らないし、滅しないものがすべて生まれたものではないとも限らない」みたいなことを言ってアリストテレス的な世界の永遠の議論に釘を刺していたりする。また、そもそもアリストテレスに対して否定的で、「プラトンは第一の物体こと元素は四つとしているが、アリストテレスは第五の元素を持ち込んで数を増やしている。(中略)唯一アリストテレスだけが他の元素にある質をいっさい持っていない、いわば物体ではない物体を持ち出してくる」と、第五元素(というか第一質料かな)をまったく認めていない。ヌメニオス同様、正統派のプラトン主義はわれにありと言わんばかりで、それほどに折衷派との対立は根が深かったんかなあ、と思わせる。

イメージ「崇拝」史

このところまとまった時間が取れないので、逆にゆっくり読めている(笑)ブールノワの『イメージの向こう側』(イメージを越えて、というより、内容的には向こう側としたほうが良い気がしてきたので変更(苦笑))は、期待以上に勉強になっている感じで、個人的には好著だと思う。5章目と6章目はイメージの「崇拝」をめぐる考察史。この二つの章の間には、間奏のような文章が挟んであって(第二部と第三部の切れ目なので)、これがとても刺激的だ。中世の絵画では、遠近法の代わりに描かれる人物や事象の重要度で画面に占める大きさが決まるという手法が用いられているとよく言われるけれど、そうした手法の理論的な支えというのはどこにあったのかしらという疑問が前からあった。で、この文章によると、一例としてそれがペトルス・ヨハネス・オリヴィの文章に見られるのだという。おー、これは個人的には新しい知見だ。先日の八木氏の新著でも、スコトゥスの思想的基礎をもたらした人物としてオリヴィが取り上げられていたし、オリヴィはとても重要かもしれないなあ、と改めて。

5章ではビザンツのイコン崇拝や偶像破壊論の議論と対比する形で、西欧の特徴が論じられる。像とその崇拝とを分けて考える思考方法は尊者ベーダから始まり、大グレゴリウスに引き継がれ、教皇ハドリアヌス1世によって定式化される。一方、同時代のいわゆる「カロリンガ文書」(Libri Carolini)には、ビザンツ型のイコン崇拝をいっさい認めない強硬な立場が見られるのだという。そうした立場にも幾人かの継承者が出てくるも、教皇側の動きなどから徐々に追いやられ、やがて「カロリンガ文書」は引用すらされなくなり、著者によれば西欧にとっての「無意識」になっていったという。像の崇拝への道がさらに広く開かれるのは、6章で扱う13世紀になってから。1241年と44年に、「神の本質は人も天使も目にできない」という命題に対してパリ大学の教師たちから異論の声が上がり、オーベルニュのギヨームなどを中心に、後のいわゆる「直感認識」の理論が練り上げられていくのだという。著者はこれを、ポルピュリオス的な神論(アウグスティヌスが継いだ)による、プロクロス的な神論(偽ディオニュシオス文書が継いだ)に対する勝利と称している(早い話が否定神学に対する肯定神学の勝利っすね)。これは感覚的世界の掬い上げという副産物をもたらしたようで、トマスなどが用いる知的スペキエスの概念(もとはアヴェロエスとかだけれど)が一般化する背景もそのあたりにあるのではという感じだ。このあたりはもっと詳しく見たい気がするけれど、さしあたりのポイントが整理されているところが嬉しい。

リュートtube – 12 スコティッシュもの

Luthval氏の渋い一曲。逸名著者によるスコットランドの曲とか。1628年ごろのストラロックのロバート・ゴードン卿のリュート曲集から、とある。この「ストラロック・リュート・ブック」というのは英国ものっぽいけれど、結構良さそうな感触。たとえばNAXOSのライブラリにも、ボルティモア・コンソートの演奏でカナリー2曲が入っているっすね。