ピンダロス

冬季オリンピックが始まった……って、やっぱりオリンピックといえばなんといってもピンダロス。旧ブログでも2004年とかになにやらそんなことを書いたっけなあ。相変わらず祝勝歌は積ん読……(苦笑)。手元にあるのはLoeb版(“Pindar – olympian odes, pythian odes”, Harvard University Press, 1997)だけれど、ちょうどイタリアのボンピアーニの対訳本シリーズ「Il pensiero occidentale」に、『ピンダロス全著作集』(“Pindaro – tutte le opere”, Bompiani, 2010)が加わった模様。わー、Loeb版2巻を揃えるより安いでないの!。

プセロス「カルデア古代教義概説」 – 6

13. Εἶναι δέ φάσιν ἐν τῷ δημιουργῷ καὶ αἰσθήσεως πηγήν, ἐπειδὴ καὶ αἴσθησιν οὗτος ¨ἐπάγει¨ τοῖς ¨κόσμοις¨· ἔστι δὲ καθαρτηρίων πηγὴ καὶ κεραυνῶν καὶ διοπτρῶν καὶ τελετῶν καὶ χαρακτήρων καὶ Εὐμενίδων καὶ τελεταρχῶν.

14. Καὶ ἐπὶ μαγειῶν δὲ τρεῖς πατέρες ἀρχικὴν ἔχουσι τάξιν. Ἔστι δὲ καὶ ὀ᾿είρου ζώνη ἀπὸ τῆς πηγαι.ας ψυχῆς τὴν ἀρχὴν ἔχουσα.

15. Ἀναργοῦσι δὲ ταῖς μὲν πρώταις πηγαῖς αἱ πρῶται ἀρχαί, ταῖς δὲ μέσαις αἱ μέσαι, καὶ ταῖς μερικαῖς αἱ τελευταῖαι.

13. 彼らが言うには、創造神の中に感覚の源がある。なぜなら創造神こそが「世界」に感覚を「もたらす」ものだからである。さらに、浄化するもの、雷、鏡、儀礼、性格、エウメニデス、儀礼を司るものの源がある。

14. 魔術についても三つの父が原理の序列を占めている。また、夢の帯があり、魂の源から原理を引き出している。

15. 第一の諸原理は、第一の源に類似する。中間の原理は中間の源に、また末端の原理は個々の源に類似する。

エコー&リスポスタ

久々にまったく未知の曲の数々を堪能。『エコー&リスポスタ – ムーリ修道院付属教会柱廊からのヴィルトゥオーゾ器楽曲』(Echo & Risposta – Virtuoso Instrumental Music from the Galleries of the Abbey Church of Muri / Les Cornets Noirs。収録されている曲は、いずれも初期バロックのころの作曲家たちのようだけれど(イタリア、ドイツ)、ものの見事に一人も知らないという……。うーむ、久々にくらくらする感覚を味わう。けれどもどれも粒ぞろいの器楽曲。ムーリ修道院というのは、スイスはアールガウ州にあるベネディクト会派の修道院とか。そこの付属教会の建築は音響的に優れているとされ、またオルガンも有名なのだという。なるほどね。この盤はSACDサラウンドのハイブリッド盤なのだけれど、普通のCDで聴く限りはそういう音の立体感のようなものは伝わってこない……(涙)。うーん、やはりSACDでサラウンドでなければダメかなあ、と。とはいえそれぞれの曲は、初期バロックの移行期の作品だけあって(というか、様式というのは絶えず移行しているわけだけれど)とても面白いし演奏も端正でいい感じ。とりあえずはこれだけで結構満足。奏者はレ・コルネ・ノワールというグループ。ツィンク(コルネット?)、バイオリン、ファゴット、トロンボーン、それに教会内の二台のオルガン(左右をそれぞれ福音書側、書簡側というだっけ)という構成。

テオファニーの理論

相変わらずオリヴィエ・ブールノワの『イメージを超えて – 中世5世紀から16世紀の視覚の考古学』からメモ。3章、4章は神の顕現についてのまとめ。扱う時代は12世紀。ここにブールノワは、アウグスティヌスから枝分かれする二つの系譜を見て取る。一つはスコトゥス・エリウゲナで、これはプロクロスからディオニュシオス・アレオパギテス(の偽書)を経て連なる系譜。下位のものはなんらかの仲介物を経なければ上位のものを観想できない、というのがプロクロスの知性論にあり(クザーヌスが読んでいたという『パルメニデス注解』のほか、結構重要そうなのが『国家注解』)、それを受け継ぐ形でディオニュシオスは仲介物の遮蔽の面を強調するわけだけれども(『天上位階論』のほか、書簡が重要らしい)、エリウゲナはこれを仲介物のもう一つの面である共感・共有のほうへと大きくシフトさせ、聖書に記された象徴のみならず、被造物全体を象徴(仲介物)と捉えようとするのだという。まさに「世界は一つの本」という考え方の源流がここにあるというわけだ。

もう一つの系譜はアウグスティヌスを受け継ぐサン=ヴィクトルのフーゴー。アウグスティヌスが感覚的視覚とは別のものとの区分した知性的視覚という考えを継承し、フーゴーは仲介物を経ない直接知の理論を構築しようとする(ある意味、ディオニュシオスとも響き合う)。象徴とは別の道によって神に到達しようというわけで、神の顕現とは魂が光によって照らされることにほかならないと考える。このあたり(上の象徴論も含めて)、ほとんど現象学への入り口に立たされる思いがする。

余談だけれども、上のエリウゲナの話において、著者ブールノワはちらっとニュッサのグレゴリオスの「エペクタシス(ἐπέκτασις)」概念に触れている。延長・拡張を意味する言葉だけれど、グレゴリオスでは「神を直接見られないこと、限定された像を必要とすることが、かえって対象をいっそう知ろうとする欲望をかきたてる」ことなのだという(出典は『人間の始まりについて』とか)。これもまた、なんとも現象学的なテーマだ。ちょっとこのあたりも、もとのテキストに当たってみたいところ。

魔術批判者たち……

「ピカトリクス」関連ということで、エウジェニオ・ガレンの『生命の黄道帯 – 14世紀から16世紀の占星術論争』(Eugenio Garin, “Lo zodiaco della vita – la polemica sull’astrologia dal trecento al cinquecento”, Editori Laterza, 1976-2007)を読み始める。大御所ガレンの著書は、もはや古典の風格かも(笑)。まだ2章目までなのだけれど、これまでのところで目につくのは、占星術と魔術の結びつきについての批判者として取り上げられているイブン・ハルドゥーン。『ピカトリクス』についてもいろいろ書いているらしい。とりわけ、占星術と魔術の安易な混同・混淆を強い調子で批判しているのだという。先の『魔術的中世』もそうだったけれど、このまったく拒絶するでも迎合するでもない批判者たちの系譜というのはなかなか面白い気がする。理性の外にあるものをなんとか理性の支配圏へと引っ張ってこようとしているというか、あるいはまた領域を区分けすることで、踏み込まない聖域を確保しよとしているというか……。その裏にはもちろん自然学的・神学的な微妙な立場などもあるのだろうし。うーむ、いずれにしてもイブン・ハルドゥーンも読んでみたいリスト入りだ(笑)。

……それとは関係ないけれど、ガレンはピコ・デラ・ミランドラとの関連で、その一節を引用した後、「人間(ホモ)は、ファベルという点で、魔術への天性の適性があるように思えてくる」みたいなことを書いている。うーむ、「ファベル」にはもしかして、何かこう、場合によっては人知を越えたものなどにすら訴え、理屈がわからなくても使ってしまうみたいな意味合いすらも含まれていたりするのかしら、なんてことをふと思う。