マシン新調

足かけ5年ほどメインマシンにしてきたiMac G5もそろそろくたびれてきたので、型落ちのiMac 24インチ(2009年春モデル)を某ショップの新年特価(ほぼ半額)で購入してみた。17インチに比べると24インチはやはり広い(当たり前だが)。馴れてしまったら戻れないだろうなあ、と。Macだけあって移行も楽。FireWireで繋いで前のマシンの設定のかなりの部分を移すことができ、快適そのもの。こうなるとやはりFusion 3とWindows 7を用意してMac内Winをやりたくなってくる。

それにしてもこう画面が広いと、どこを狙ってよいやら(cf. クアトロ・パジーナ@ Zガンダム)、ではなく(笑)、マウスをぶんまわすことになっていくぶん操作性を損ねる気も(苦笑)。やはり右手をあまり動かさずにカーソルの移動ができてほしい……。あ、2009年の秋モデルから登場したマジックマウスならそのあたりのことを考えているのかしら?

雑感:質料の限定

昨年末からちびちびと読んでいるピロポノス『世界の永遠について』(『反プロクロス』)。基本的にはプロクロスのもとの議論に対してピロポノスが反論を加える形なのだけれど、プロクロスの議論は18あるとされている。で、Brepols刊の2巻本の第二巻は5つの議論(5章分)しか収録されていない。これ、残りは続刊ということになるのかしら。収録分は、原因(デミウルゴス)と結果(世界)とは等質ではない(永遠であるならば等質でなければならないというのが前提?)と強調する第1章、プラトン的なイデアの永続性を論拠にすることへの反論をなす第2章、現勢態・可能態の違いを説明する第3章、現勢化と運動について詳述する第4章(今ここの途中)と続いているのだけれど、個人的に関心のある質料形相論的な話は当面出てきそうにない(笑)。で、そんな中、ピロポノス関連の書籍にそのあたりの話を取り上げたものがあると聞き、Google Booksで覗いてみる。デ・ハース『ピロポノスによる第一質料の新定義』(Frans A. J. de Haas, “John Philoponus’ New Definition of Prime Matter: Aspects of Its Background in Neoplatonism and the Ancient Commentary Tradition”, Brill, 1997)というもの。

さしあたっては購入しないけれど(苦笑)、Googleの内容見本表示をざっと読んでみると、なにやらピロポノスは第一質料に三次元的限定を導き入れている、みたいな話のよう。ほとんどこれ、『反プロクロス』の11章の内容の詳述という感じなので、ちょっと原文のほうを見ないと何とも言えないけれど、もしそういう話だととすると、これってトマスが個体化論で述べていた(ちょっと前のメルマガで出てきた)、次元として指定された(限定された)質料という考え方の「源流」のような印象も受ける。もちろんトマスがピロポノスを読んでいたなんていう文献学的な話ではなくて(それはちょっとありそうにない)、トマスのテキストが醸すある種のわかりにくさを、ピロポノスあたりを併読することによって和らげられないかとか、あるいはまた、キリスト教の側からのアリストテレス解釈のある種の「型」が浮き彫りにならないかとか、そんなことを思っているわけだけれど。

プセロス「カルデア古代教義概説」 – 2

4. Μετὰ δὲ τὰς ἴυγγας προσεχεῖς, φασίν, οἱ συνοχεῖς· καὶ αἱ μὲν ἴυγγες τάς ἀφθέγκτους αὐτοῖς ἑνώσεις τῶν πάντων ὑφιστᾶσιν, οἱ δὲ συνοχεῖς τὰς προόδους τοῦ πλήθους τῶν ὄντων ἑνίζουσι, μεταξὺ τῶν νοητῶν καὶ τῶν νοερῶν κέντρον τῆς ἀμφοτέρων κοινωνίας ἐν ἑαυτοῖς πηξάμενοι.

5. Προσεχεῖς δὲ τοῖς συνοχεῦσι τοὺς τελετάρχας τιθέασι τρεῖς καὶ αὐτοὺς ὄντας· ὧν ὁ μὲν ἐμπύριος, ὁ δὲ αἰθέριος, ὁ δὲ ὑλαρχης. Εἰσὶ δὲ αἱ μὲν ἴυγγες μονάδες μόνον, οἱ δὲ συνοχεῖς μονάδες ἤδη προφαίνουσι τὸ πλῆθος, οἱ δὲ τελετάρχαι μονάδες διῃρημένον ἔχουσι τὸ πλῆθος.

4. 彼らが言うには、ユンクスの後に続くのは「包摂するもの」である。ユンクスはみずからのために、あらゆるものから成る、言葉にできない統一を作り上げる。一方の「包摂するもの」は、存在の多数性への過程を作り上げ、知解対象と知性との間にあって両者に共通する中心を、みずからのうちに定める。

5. 「包摂するもの」に続いて、彼らは「司るもの」を置く。それらも三つあり、それぞれ火界(天上界)、エーテル界、物質界を司る。ユンクスは端的に単独(モナド)だが、「包摂するもの」はすでにして複数性を示すモナドであり、「司るもの」は区別を多数もったモナドである。

中世思想史のデカ盛り?

年末に出た、スコトゥス研究者八木雄二氏の新刊『天使はなぜ堕落するのか – 中世哲学の興亡』(春秋社、2009)は、一般向けにかみ砕いて説き明かした中世思想史への入門書だった。細かな点にこだわるというより、マクロな面での要衝を押さえようとする向きにはとても分かりやすい一冊。複数の著者による共同執筆の入門書ではこうはいかない。やはり入門書って、単独での著書のほうが、たとえ取りこぼしや偏りはあったとしても、断然個性的で味わいもあるなあ、と。で、本書の場合、どこかテイストが堀田善衛『ミシェル、城館の人』(集英社文庫)あたりに似ている気がする。堀田氏の描くこのモンテーニュ一代記を「小説」とするならば(昔そういう区分けになっていたはず)、この八木氏の新刊も、ある種の「小説」と見なしてもいいかもしれない……なんて(笑)。それほどに筆の運びが快調に滑っていく感じだ。

そして随所に光るオリジナルな視点の数々。普遍論争の唯名論・実在論の話が、そのまま世俗の大学と教会の対立にスライドしていったり、アンセルムスからトマスへといたる思索の限界を指摘してみせたり、一般通念とは逆に、トマスの特殊性が中世哲学の見通しを逆に悪くしているのではないかと述べてみせたり。トマスの批判者として括られるのが一般的なスコトゥスにしても、その先駆者であるオリヴィを介して眺めれば、フランシスコ会的な伝統に意外なほど忠実だということになるのだという。通説を疑ってかかり、ひっくりがえしてみせるところなど、なんとも「反・中世哲学」的でワクワクさせてくれる。新年早々のお薦め本かも。たとえて言えば、美味しい要素をふんだんに詰め込んだデカ盛りというところ(600ページ近い大部なのだけれど、一気にかきこんで食べることができ、お得感いっぱいなので(笑))。

領域横断

昨年4月に発足したという西洋中世学会の機関誌『西洋中世研究』(販売:知泉書館)創刊号を取り寄せてみた。目次を見るだけでも、かなり多岐にわたったラインアップであることがわかる。創刊号ということで、歴史・哲学・美術史・音楽史などの現状報告・研究動向に重きを置いた紹介という趣き。ほかの学会誌に比べて、図版が多数収録されて(一部はカラー!)華やかな印象も(笑)。個人的には中世哲学関連の報告もさることながら、音楽史関連の論文二本が注意をひく。カリクストゥス写本って、例のサンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼ガイドが入っている文書っすね。ガイド本は4巻目で、5巻目が楽譜なのだとか。また、修道女らの読書の問題を扱った論文も個人的には興味深い。そういえば、前から思っているけれど、思想史とそうした書物史・媒体史とかを結びつけるような研究ってやはりあまり見あたらない気が。こうした領域横断的な学会の誕生で、そういう風変わりなアプローチなども促されていくと面白いのだけど。うん、今後にも大いに期待しよう。