マルキオンダのギター

昨日取り上げたCDの奏者、マルキオンダ氏の演奏がYouTubeにあったので転載しておこう。収録曲の中でもひときわ印象的な(リフレインが耳から離れなくなった(笑))K 474を弾いている。

ギターアレンジ:スカルラッティのソナタ

スカルラッティというと、今年は親父のアレッサンドロがメモリアルイヤーなのだけれど(生誕350年)、今回はその息子(6番目の子だという)ドメニコ・スカルラッティ。このソナタをギターアレンジにして弾いている一枚を聴く。D.Scarlatti: Sonatas Arranged for Guitar / Stephen Marchionda [SACD Hybrid]。演奏はシュテフェン・マルキオンダ。普通のクラッシク・ギター奏者はあまり知らないのだけれど、アメリカのギタリストらしいっすね。自身によるアレンジなのだとか。古楽器ではないので、「びよんぼよん」と現代的な明朗な音が響き渡るし、全体にテンポが遅めの設定で、ちょっと古楽的な感じがしないのだけれど、でも確かにバロック的なテイストは随所に感じられるかも。音質自体はとても口当たりがよいし。うーん、なんだかオリジナルの鍵盤楽器での演奏が聴きたくなる(って、それはいいのか悪いのか……(笑))。

プセロス「カルデア古代教義概説」 -1

Τοῦ αὐτοῦ Ψελλοῦ
ὑποτύπωσις κεφαλαιώδης τῶν παρὰ Χαλδαίοις ἀρχαίων δογμάτων

1. Σύντομόν σοι τῶν χαλδαϊκῶν δογμάτων ποιοῦμενος ἔκθεσιν, περὶ ὧν ἐδεήθης γράψαι σοι, ἀπὸ τοῦ ἀρρήτου κατ᾿ ἐκείνους ἑνὸς τίθεμαι καὶ αὐτὸς τήν αρχήν.
2. Μεθ᾿ ὃ πατρικόν τινα ληροῦσι βυθὸν ἐκ τριῶν τριάδων συγκείμενον, ἑκάστης ἐχούσης πατέρα μὲν πρῶτον, δεύτερον δὲ δύναμιν, τρίτον δὲ νοῦν.
3. Μετὰ δὲ ταῦτά φασιν εἶναι νοητάς τε καὶ νοερὰς, ὧν πρῶτον μὲν εἶναι τὴν ἴυγγα, μεθ᾿ ἣν τρεῖς ἑτέρας πατρικὰς καὶ νοητὰς καὶ ἀφθέγκτους, διαιρούσας τοὺς κόσμους τριχῇ κατὰ τὸ ἐμπύριον καὶ τὸ αἰθέριον καὶ τὸ ὑλαῖον.

同じくプセロスによる
カルデア人における古代の教義の主な概略

1. あなたが書くよう要請した、カルデア人の教義についての簡単な説明をするにあたり、私もまた言い表し得ない一者から始めることにしよう。
2. 彼らはその後に、父なるものとして、三つの三幅対から成るある種の深淵を考えている。それぞれの三幅対は一つめに「父」を、二つめに「潜在性」を、三つめに「知性」をもつ。
3. 彼らはその後に、知解するもの、知解されるもの(の三幅対?)があると言う。その一つめがユンクス(注:魔力)である。その後に、それぞれ別の、父なるもの、知解対象、言葉にできないものが三つ続き、それらが世界を、火、エーテル、物質界へと三つに分ける。

九鬼哲学入門文選

ちょっと思うところあって、九鬼周造の偶然についての論考を読もうと思い、代表作『偶然性の問題』とかの前にとりあえず小論を、と考えて手にしたのが『偶然と驚きの哲学 – 九鬼哲学入門文選』(書肆心水、2007)。これはなかなか手頃で良質な文選(こういうものはもっといろいろ出してほしいところ)。『偶然性の問題』の要旨をまとめたような小論(「偶然の諸相」)が収録されていたのは予想通りだったけれど、まさかその序文と目次、結論まで入っているとは意外だった(笑)。偶然を必然すなわち同一性の否定ととらえ、必然の三つの相の裏返しとして、定言的偶然、仮説的偶然、離接的偶然を分けるという、九鬼偶然論の基本がよくわかる。さらに「驚きの情と偶然性」では、現実世界そのものに原始偶然を見るという境地になっている。これなどは、偶有(個体)をこそモノの存在様式の基本アスペクトと見るドゥンス・スコトゥスあたりとも共鳴させることができそうな感じで、個人的には興味深い。いずれにしても、こうして短い文選でもって読むと、やはりちょっと物足りない、読み足りないという気もしてくる。ちょっと全集版を図書館で見てくることにしようかと。

井筒俊彦エッセイ集

これも年越し本の一つ。『読むと書く―井筒俊彦エッセイ集』(慶応義塾大学出版会、2009)。いやー、なによりも今ごろに井筒氏のエッセイ本が出るとは。なかなか嬉しい。帯には入門に最適とかなんとか書いている(ただし値がちょっと張るのが玉に瑕だが)。実際そんな感じで、アラビア文化やイスラム哲学の概説的なエッセイのほか、言語論、若い時代の詩論、デリダやバルトなどについての批判的エッセイなどなど、収録されている文章はどれも短く、内容は実に多岐にわたっている。「アラビア科学・技術」(1944)では、アラビア科学と称されるものがギリシアやインドなどの科学の伝承であり、従事した学者もほとんどがアラビア人ではなく、回教(イスラム)を信奉する外国人だと述べ、「アラビア」と俗に言われているのはむしろイスラムと言い換えたほうがよい、といったことを述べている。時代はめぐりめぐって、今またアラブ思想みたいな言い方に戻ってきている感じもするだけに、なにやら感慨深いものがあるなあ、と。

拾い読み的に読んでいるのでナンなのだけれど、今のところとりわけ興味深かった文章として「神秘主義のエロス的形態聖―ベルナール論」(1951)が挙げられる。ベルナールの神秘主義が重要なのは当時の時代転換期にあって、その転換を敢行・超克していく時代史的光景にある、とした上で、その神秘主義(激情的な神への恋のようだとされる)の源泉が、実はギリシアに対するヘブライの神学思想にあるとして、著者はいきなり壮大なステップバックを行う。一神教的なものの成立におけるギリシアとヘブライの比較文明論的な対比(神から人間的被覆を除去するギリシア、人間性を留め深化させるヘブライ)を試みたのち、再びベルナールに戻り、その激情型の性格がいかにそうしたヘブライ以来の伝統をまっとうに受け止めているかを論じていくというもの。このステップバックは井筒氏のほとんどメソッドとなっている感じもする。たとえば「意味論序説―『民話の思想』の解説をかねて」(1990)という文章などでも、佐竹昭広『民話の思想』の「またうど」の意味構造の話をするために、ここでもソシュール言語学や意味論の源泉へとステップバックしてみせる。で、そこから再び表題の議論に戻るときには、カルマや「アラヤ識」の話をも引き連れて戻ってくるという趣向だ。うーむ、なんともしなやかで鮮やかな筆さばき。ちなみに書全体の表題になっている「「読む」と「書く」」(1983)は、よみかきを学的に重大な問題にしたてたロラン・バルトについての、やや両義的な立場で書かれた一文。バルトの姿勢に肌の合わなさを感じつつも、そこに東洋古来の哲学との一致を面白がっていたりする、なんて記述がなかなかに人間くさくて良いかも(笑)。