イスラム哲学の独創性

。一昨年のグーゲンハイム本(『モン・サン・ミッシェルのアリストテレス』)に対する反論本が昨秋刊行されていた。というわけで年越し本として読んでいるところ。『ギリシア人、アラブ人と私たち』(“Les Grecs, les Arabes et nous – enquête sur l’islamophobie savante”, dir. Philippe Büttgen et al., Fayard, 2009というもの。とりあえず半分くらいまで。第一部はフランスで大騒ぎになったグーゲンハイム本の余波の総括。同書の随所に観られた「反イスラム」的記述が、雑誌やらイデオロギー的に偏ったブログやらよって増幅された経緯をイレーネ・ロジエ=カタシュという人が詳細にまとめているほか、内容面での直接的な反論(エレーヌ・ベロスタによるイスラム圏での科学の受容に関する反論、ジャメル・クールグリによる翻訳問題についての反論)が続く。第二部ではより広範なスタンスからグーゲンハイム本への批判が展開される。マルワン・ラシドによる論考は、問題の著者には触れずに淡々と自説を展開していくもので、なかなかに印象的。中世のアラブ世界でギリシアのテキストが受容されたのは、イスラム世界で問われていた哲学・神学的問題があったからにほかならず(グーゲンハイム本では、イスラム世界へのギリシア哲学の受容は厳密にはなされなかった、みたいに論じていたっけ)、イスラムの哲学者こそが早くに哲学の(神学に対する)自立を主張したことを指摘している。

ラシドはそれに続き、10世紀までのイスラム哲学史を振り返っている。とくに9世紀のプラトン主義者たちとしてアル=キンディ、タビット・イブン・クーラ、アブー・バクル・アル=ラージーを取り上げ、それら三者がそれぞれ異なる視点から『ティマイオス』を活用している様を記している。アル=キンディは「世界の永続」論を論駁しようとし、タビット・イブン・クーラ(ラシドが校注本を準備中とか)は循環的形相という原理を唱え、アブー・バクルは原理を5つとして論を展開する。いずれもただ『ティマイオス』を受容するのではなく、それをもとに独自の思想を展開していることを強調している。さらにこれらとの対立軸をなすアリストテレス主義のアル=ファラービーも、運動の「連続性」という考え方から神による想像と世界の永続性という本来矛盾する説を調停しようとする。なるほど、中世イスラム哲学の創造性はかなり豊かだというまとめ。

年越しDVD:パーセル「アーサー王」

今年の年越しDVDは、エルヴェ・ニケ率いるル・コンセール・スピリチュエルのパーセル『アーサー王』(H.Purcell: King Arthur / Herve Niquet, Le Concert Spirituel, etc。これはまさに新年の初笑いにぴったり。パーセルのセミオペラをエルヴェ・ニケが脚色し、なんと幕間ではみずから歌ったり踊ったりの大爆笑(!)。モンペリエのオペラ座で2009年3月に収録されたもの。初めのうちは「こんなんでいいのかしら」なんて気もしないでもないが、とにかく演じているほうも観ているほうもむちゃくちゃ楽しいので、そういうことは途中からどうでもよくなってくる(笑)。演出もフランスのコメディアン、シャーリー&ディノによるものとか。舞台はキッチュというかパスティッシュというか。確かにパーセルの『アーサー王』はもともと話に起伏に乏しい歌劇(オペラ・コミック)だけれど、こういう形で盛り上げるというのは正直なところかなり斬新かも。舞台上で実際にものを食べながらの合唱とか、まさに前代未聞。ニケ本人の役者ぶりも堂に入っているし、これは年明けからいいものを観せてもらったなあ、と。

パーセルの『アーサー王』というと、78年の映画『モリエール』(監督はムヌーシュキン)の壮絶なラストで用いられた曲とかの印象が強く、どうもその映画のイメージのせいもあってか、かなり重苦しい印象をもってしまっていたのだけれど、今回の舞台ではそういう堅苦しいイメージも吹き飛んでしまった。そういえば2月にはこのメンツで「アーサー王」の来日公演が神奈川であるらしいけれど、幕間のやりとりとか日本語でやるのかしら?

年末はレヴィ=ストロースで

レヴィ=ストロース死去のニュースとほぼ時を同じくして出た渡辺公三『闘うレヴィ=ストロース』(平凡社新書、2009)を読了。前半はこれまであまりきちんと触れられてこなかった(というか寡聞にしてそういう参考書を知らないもんで)若き日の左翼活動家時代のレヴィ=ストロースをクローズアップした評伝。学生の闘士から人類学への接近というテーマはなかなかに興味深いものがあり、読み応えも十分。後半はその学問的な深まりをフルスピードで追っていくという印象。親族の基本構造から後の神話論理への流れがとてもわかりやすく整理されている。うん、改めて未読の著書とか読みたくなった(あるいは再読でもいいのだけれど)。入門書のいわば鑑っすね。

だからというわけでもなかったのだけれど、長く積ん読だった『見る、聴く、読む』(“Regarder Écouter Lire”, Plon, 1993を引っ張り出して読んでいるところ。すでに邦訳もあるけれど、とりあえず原文で。まだ半分ほどで、年越し本の一つになるのは間違いないけれど、すでにとても面白い。とくに音楽関係の論は個人的にも興味深く、「ラモーの和声理論は構造分析の先駆けだ」(7章冒頭)とか言われると、もうそれだけでシビれてしまう感じ(笑)。ラモーを扱った7章から9章には、いろいろと興味をそそる記述がある。たとえばラモーのオペラ「カストールとポリュックス」について、18世紀の聴衆が(今の聴衆とは違って)、3つの音でもって転調する大胆な音運びを、作曲家の意図を汲む形でちゃんと理解していただろうという話とか。うーん、レヴィ=ストロースも「よりドラマチックだ」と高く評価し、スコアの一部が同書に再録されている1754年版の「カストールとポリュックス」(初演版は1737年)はぜひ聴かなくては(笑)。

漢籍的教養……

当たり前だけれど、もうすっかり年末モード。この数年は年末に(年末以外にも時折やるけれど)2時間くらいかけて焼き豚風の煮豚を作っているけれど、今年もうまい具合にできた(笑)。ま、それはともかく。

年末読書ということで、最近出たばかりの『西田幾多郎歌集』(上田薫編、岩波文庫)を読む。西田幾多郎の創った短歌、俳句、漢詩、訳詩、さらに短いエッセイ、そして親族らの手記からなるなかなか興味深い一冊。特に長男の死を契機に増えたとされる短歌の数々は、いわゆる喪の仕事として切々たるものがある。少し前に道元の短歌についての入門本を読んだけれど、そこでの歌というものは、リファレンスの照応関係が織りなす万華鏡のようなものという感触だった。西田幾多郎の短歌はもっと近代的なものではあるだろうけれど、やはり詩作全体を支えているのは豊かな漢籍的教養。今ではすっかり失われている(と思われる)ような質の教養だ。それは同時に哲学的探求をも下支えしているのかもしれない、なんてことを考えると、あの難解な文章の数々もまた違って見えてきそうな気がする。一方、親族の手記から伝わってくるいかにも明治時代的な父親像というのも鮮烈だ。学問への取り組みは老いてなお常に若々しく、定年後にラテン語やギリシア語に本格的に打ち込んだ、なんてエピソードも見られる。

新刊情報(ウィッシュリスト)

久々にウィッシュリスト(笑)。この秋から冬にかけては例年に比べめぼしいものが少なかった。うーん、冬から春にかけては期待したいところだが……。