「カルデア教義の概要」- 6

/ Τὸν τε ᾅδην πολλαχῶς καταμερίζουσι· καὶ νῦν μὲν αὐτὸν θεὸν ὀνομάζουσιν ἀρχηγὸν τῆς περιγείου λήξεως· νῦν δὲ τὸν ὑπὸ σελήνην τόπον ᾅδην φασί· νῦν δὲ τὴν μεσότητα τοῦ αἰθερίου κόσμου καὶ τοῦ ὑλαίου· νῦν δὲ τὴν ἄλλογον ψυχήν, καὶ τιθέασιν ἐν αὐτῇ τὴν λογικήνμ οὐκ οὐσιωδῶς, ἀλλὰ σχετικῶς, ὅταν συμπαθῶς ἔχῃ πρὸς αὐτὴν καὶ προβάλλῃ τὸν μερικὸν λόγον. Ἰδέας δὲ νομίζουσιν, νῦν μὲν τὰς τοῦ Πατρὸς ἐνννοίας, νῦν δὲ τοὺς καθόλου λόγους, καὶ φυσικοὺς καὶ ψυχικοὺς καὶ νοητούς· νῦν δὲ τὰς ἐξῃρημένας τῶν ὄτων ὑπάρξεις. Τοὺς δὲ περὶ μαγειῶν λόγους συνιστῶσιν ἀπὸ τε ἀκροτάτων τινῶν δυνάμεων ἀπὸ τε περιγείων ὑλῶν. Συμπαθῆ δὲ τὰ ἄνω τοῖς κάτω φασὶ καὶ μάλιστα τὰ ὑπὸ σελήνην. /

/彼らはまた、ハデスを幾通りにも分割する。それを地上世界全体の主たる神と名付けることもあれば、月下世界をハデスと言うこともある。エーテルの世界と物質的世界との中間をそう呼ぶこともあれば、非理性的な魂をそう呼び、その中に実体的にではなく関係的に理性的魂を置くこともある。この後者が前者に対して共感をもち、特殊な理性を発するときである。彼らがイデアと考えるものは、「父」の思惟であったり、普遍的な理性、または自然学的、心的、知的理性であったり、存在の超越的な実体であったりする。彼らはまた、魔術に関する言葉をなんらかの至上の力から、または地上世界の物質から作り上げる。彼らは高き世界から低い世界への共感、とりわけ月下世界の共感があると言う。/

リュートtube – 10 「かの聖母を讃えよ」

アドベントのこの時期は、個人的にはシュトーレンとか食べまくり(笑)。……なんてことは置いておいて、例のノルウェイの奏者trolabe氏が、この時期ならではという感じの演奏(と映像)をアップしている。なんとも切ない旋律をしっとりと奏でていて秀逸。曲は16世紀の英国もの。これが入っているという「William Ballet’s Lute Book」というのは、1590年ごろの曲集だとか。アイルランドのトリニティ・カレッジなどに写本があるそうで、アイリッシュな曲なども収録されているものらしい。

このところの諸々(2)

*ヴィンチェンツォ・ガリレイ(ガリレオの父)が著した『フロニモ』(1584)の邦訳(菊池賞訳、水戸茂雄監修、東京コレギウム、2009)が出ている。これ、対話形式の音楽論なのだけれど、リュート譜がふんだんに差し挟まれているので、本当は楽器を弾きながら少しづつ読み進めるのが理想の本。ま、なかなかそうもいかないのだけれどね(苦笑)。個人的には先にリプリント版をゲットしたので、合わせて見ていきたいと思っているところ。なかなか時間が取れないけれど。

*その監修者でもある水戸氏(リュートの師匠)は、この秋に新譜『Let’s traval around Europe by Lute Music – Part II – Baroque Era』も出している。ゴーティエやガロといったフレンチものから、バッハ、ヴァイス、バロンまで、実に精力的な選曲。逆輸入になるけれど、アマゾンでは現在在庫切れ表示になっているのがちょっと残念(これって昨年出たpart I – ルネサンス編なのか、今年のpart II – バロック編なのかわからないのも問題だよね)。

*クリント・イーストウッドの新作『グラン・トリノ』をやっと観る(レンタルDVD)。いや〜、やっぱりイーストウッド映画は良いわ〜、と改めて素直に喜ぶ(笑)。本作は『センチメンタル・アドベンチャー』などに連なる系譜の作品。でも以前のどこかあざとい(なんて言うとちょっと語弊もあるけど)設定や演出はなく、とても自然に話が進む。ちょっと前に『チェンジリング』とかも観たけれど、「過去の問題を乗り越えようとしてさらに大きな問題を抱える」みたいな構図は健在ながら、その中にたとえ皮肉なものであっても、ごく小さなものであっても、なんらかの救いが示されるというのが最近の境地なのだろうなあ、と。

このところの諸々

*メルマガのほうで出てきたダマスクスのヨアンネスの小品『キリストの二つの意志、二つの本性、一つの位格について』は、TLGだけ見て「なんか見あたらないなあ」と思っていたら、Documenta Catholica Omniaのサイトにpdfファイルがあった(苦笑)。ファイルはこちら。イコン論とか『正統なる信仰について』などもいいけれど、ヨアンネスの小品というのもなかなか味わいがある。ギリシア語も比較的読みやすいし(笑)。小品めぐりをしてみるのもいいかもなあ、なんて思っているところ。

adam takahashi’s blogの9日のエントリで、τὸ θεῖον(神的なもの)のアラビア語訳がالشي الروحي(スピリチュアルなモノ)になっている場合があるという話を見て、ちょっと妄想気分が高まった(苦笑)。θεῖονを辞書で引くと、θεῖοςの中性形とは別に「硫黄」「硫黄の煙」を表す同形異義語があり、バイイの希仏辞書によると、古形に(疑問符つきながら)「息をする」の意味があったかも、みたいな話もある。ちょっとこのあたり、もう少し詳しく確認したいところだけれど(バイイでは、テオフラストスの『匂いについて』という書が挙げられていたりする)、案外この同形異義語が、アラビア語訳でのروح(スピリット、プネウマ)の訳語を導いた可能性もありそうな気がするなあ、と。さらに英語で「悪魔は硫黄臭がする」みたいに言ったりするのも(その表現、チャベス大統領がブッシュのことをそう言ったみたいな話もあったし、ホラー映画『エミリー・ローズ』とかにも出てきた)このあたりの絡みがあるのかもしれないなあ、なんて。

音楽史の書き換え……

就寝前読書から。石井宏『反音楽史』(新潮社、2004)を読了。18世紀から19世紀を中心に、音楽史のいわゆるビッグネームがいかに「ドイツ史観」に染まったものにすぎないかを示し、同時代的な実像はどうだったのかを切々と説いた一冊。西欧では長らく「音楽の本場はイタリア」とされていたのに、ドイツの音楽史家たちがその事実を黙殺・抹殺してきた流れがあるという。その礎を築いたのは、ロマン派系のドイツ人たちで、たとえばシューマンたちはロッシーニとかをかなり低く評価していた。ソナタ形式なども、本来はイタリアで成立したもの(オペラのアリア形式を器楽に取り込んだ)というが、いつの間にかそれがドイツ人の発明として「簒奪」されてしまうという。そんなわけで、たとえばヴィヴァルディが再発見されたのは20世紀になってからにすぎず、しかもそれをなしたのはレコード会社だったという。18世紀当時、大バッハが無名だったという話は有名だけれど、一方で同時代的に著名人となったのはバッハの後妻の末っ子ヨハン・クリスティアン・バッハなのだそうで、イタリア留学を果たし(ドイツの音楽家が世に出るためにはイタリアで箔を付けないといけなかったという)、ロンドンで名声を得ているという。今年がメモリアルイヤーだったヘンデルも、J.C.バッハに先んじて同じくイタリア留学を果たし、同じくロンドンで出世する。やはりメモリアルイヤーのハイドンは、そうした留学経験がなく、ハンガリー貴族のもとで50年あまりを過ごし、やっとのことで国際的評価を得る。けれどもそこに大量に寄せられた注文は、音楽会用序曲(シンフォニー:会場のざわめきを鎮めるためのもの)と弦楽四重奏曲(結局はBGM)にすぎなかった……などなど。

音楽史もまた様々なイデオロギー的影響を受けざるを得なかった、という話なわけだけれど、そうしたものとは別筋の歴史も徐々に書かれてきつつある感触もあり、同書などはそうした様々な知見をふんだんに取り込んでいる一冊ということになるのだろう。翻ってみれば、音楽史にかぎらず、中世史とか中世思想史、あるいはルネサンスや近世などについても、従来の「正史」の偏りや間隙などはこれからもやはり大いに問い直されていくのだろうなあと思う。いろいろと楽しみは尽きそうにない(笑)。