「カルデア教義の概要」 – 5

/ Εἱ γὰρ κατὰ τὸ λόγιον μοῖρα ἐστι τοῦ θείου πυρὸς καὶ πῦρ φαεινὸν καὶ νόημα πατρικόν, εἶδός ἐστιν ἄϋλον καὶ αὐθυπόστατον. τοιοῦτον γὰρ πᾶν τὸ θεῖον, οὗ μέρος ἡ ψυχῇ· καί πάντα φασὶν εἶναι ἐν ἑκάστῃ ψυχῇ, καθ᾿ ἑκάστην δὲ ιδιότητα ἄγνωστον ῥητοῦ καὶ ἀρρήτου συνθήματος· καὶ καταβιβάζουσι δὲ τὴν ψυχὴν πολλάκις ἐν τῷ κόσμῳ δι᾿ αἰτίας πολλὰς· ἣ διὰ πτερορρύησιν, ἢ διὰ βούλησιν πατρικήν. Δοξάζουσι δὲ τὸν κόσμον ἀΐδιον καὶ τὰς τῶν ἄστρων περιόδους. /

/神託においてそれが神の火の部分をなし、燃えさかる火、父なる思惟であるとするなら、その形相は非物質的であり、みずから存在する。というのも、神的なものはすべてそのようであり、魂もその一部であるからだ。またそれぞれの魂にはすべてがあり、それぞれが、言葉に発しえたり発しえなかったりする象徴の、不可知の個別性を擁している、と彼らは言う。それらはしばしば、羽根の落下や父の意志など、様々な理由から魂を地上世界へと降下させる。彼らは、世界は永遠で、星の周回も永遠であると考える。/

コンベンショナルな世界?

外出時などの空き時間読書ということで飛び飛びに読んでいた松本章男『道元の和歌』(中公新書、2005)。体裁としては、道元が詠んだ和歌を、その生涯のエピソードや歴史的背景、想定される道元の心象風景から解説するという、ある意味とてもオーソドックスな入門書。読み始めると、「こういうのを読むと和歌も作ってみたくなるなあ」なんて思ったりもしたのだが……(そう思うのはそれなりに歳食ったからかしら)(苦笑)。道元の和歌、一見すると意外に素朴な自然を詠んでいるように見え、逆にその思想的な先鋭性とどこか相容れない感じが次第に強くなってくる(道元の仏教的世界観での自然は、すべからく流れとしてある、みたいな話じゃなったっけ?)。で、同書の解説を追っていくと、徐々にそこからある種の技巧の体系という側面が浮かび上がってくる。あたかも一切がコンベンションの世界であるかのように……。

たとえば「都にはもみぢしぬらん奥山は昨夜も今朝もあられ降りけり」という句の解説には、都のもみじから奥山を思うという趣向の古い神遊びの歌や藤原俊成の句が紹介され、道元は「古来の歌の着眼点をいわば倒置しているところが新しい」(p.80)と記されていたりする。「冬草も見えぬ雪野のしらさぎはおのが姿に見を隠しつつ」という句では、中国の禅僧が夜を徹して雪の中で達磨を礼拝したという話を絡めて解説している。この句は垂訓ではないかというわけだ。それぞれの句がどれもこんな感じだとすると、表面的な詩句を指すのはもはや自然物ではなく、かなり複雑な参照体系ということになりそうだ。なるほどインターテキストって奴ですな。うわー、これもまた参照元を知らなければ何もわからないという世界かも(苦笑)。安易に和歌を作ろうなんて思ってはいかんかもね、と反省する。

「操作」の思想

ずいぶん久しぶりにスティグレール本を読む。『偶有からの哲学』(浅井幸夫訳、新評論)。新評論から『象徴の貧困』ほか数冊が出、主著『技術と時間』第一巻の邦訳も出たことは承知していたものの、どうも近年のスティグレール話は少し自分の関心とは違っていたこともあって(特に映画の援用とか)、邦訳にはあまり食指が伸びなかった。でもまあ、この『偶有……』はスティグレールのテーマ系がコンパクトにまとまっているという評判だったので、原書刊行時(2004)にもちょっと気にはなっていた。もとはラジオインタビュー。『技術と時間』第一巻の懐かしい話とかも出てくる(笑)。エピメテウス神話とルロワ=グーランの考古学的な知見から紡ぎ出される、人間の様態としての根本的欠如と、それを補綴するための諸機能の外在化(それが広義の技術ということになる)という問題領域。今読むと、欠如は前提ではなく外在化とともに成立するもので、エピメテウス神話はそのあたりのプロセスを実は隠すもの、という印象もあるのだけれど、ま、それはともかく。むしろスティグレールのそもそもの出発点がプラトン研究というところが興味深い。プラトンの「想起」を支えるものとして、人為的「記憶(ὑπόμνησις)に着目するなんていう解釈は、詳しい話を読んでみたいところ(『技術と時間』4巻がそれに当てられる予定、みたいな話が出ている)。技術論的な面でちょっと気になるのは、外在化や人為的記憶などのタームで語られる話において、操作の概念がさほど直接的には扱われていない印象を受けること。ヒトの世界との技術的な関わりとなれば、どうしても「操作」とはそもそも何かといったことは避けて通れないのでは、なんて。スティグレールが批判する「ハイパーインダストリアル」な社会も、過度の操作、操作対象の過度の拡大、操作の質的変貌などから見直せるような気もしたり……。

個人的な最近の関心から言うと、中世の魔術的思考なども、一方では普遍的で(「野生の思考」というか、ヒトがいつもやってきた側面をもつという意味で)、かつ他方ではかなり特殊な(時代的・文化的な文脈に依存したという意味で)「操作」の一様態と見ることもできる。そのあたりの関心から少しづつ異教的世界へのアプローチもしかけていきたいところだ。

エメラルド碑文

魔術関連シリーズというわけでもないのだけれど(笑)、ヘルメスの伝承のうちで名の知れたエメラルド碑文(エメラルド・タブレット)の様々な版を集めて仏訳した本が出ているのを最近知った(“La Table d’Émeraude”, préf. Didier Kahn, Les Belles Lettres, 2008)。エメラルド碑文というのは、1世紀の新ピュタゴラス派の哲学者・魔術師、テュアナのアポロニオス(アラブ世界ではバリヌス)に帰されるという『創造の秘密の書』の巻末に収められた短いテキスト。そのアポロニオスがヘルメス・トリスメギストスの墓で見つけた碑文とされる。ディディエ・カーンの序文によれば、『創造の秘密の書』は6世紀ごろのアラビア語訳という形で伝わっていて、ギリシア語の原典は失われているという。また、別のバージョンのエメラルド碑文が、偽アリストテレスの『秘中の秘』(8世紀)にも収録されているという。で、この両方の碑文がアラビア語ともども上の仏訳書に収められている。

『創造の秘密の書』は12世紀前半のラテン語訳(サンタラのフーゴ)のほか、別のラテン語訳もあり、この後者は西欧で最も普及したホルトゥラヌスの注釈つきのラテン語版(14世紀)に近いものなのだとか。『秘中の秘』は13世紀中頃の訳があり、ロジャー・ベーコンが注釈を付けている。上の仏訳本は残念ながら、それらは仏訳のみを収録している。さらに15世紀、16世紀の韻文での仏訳版、『ヘルメスの七章(黄金の章)』(16世紀の編纂)、『クラテスの書』(9から10世紀)が収録されている。うーむ、やはりラテン語版テキストがあるものはそれも合わせて収録してほしかったなあ。

「カルデア教義の概要」 – 4

/ Ἄζωνοι δὲ καλοῦνται οἱ εὐλύτως ἐνεξουσιάζοντες ταῖς ζώναις καὶ ὑπεριδρυμένοι τῶν ἐμφανῶν θεῶν· ζωναίοι δὲ, οἱ τὰς ἐν οὐρανῷ ζώνας ἀπολύτως περιελίττοντες καὶ τὰ τῇδε διοικοῦντες. Θεῖον γὰρ γένος ἐστι παρ᾿ αὐτοῖς ζωναῖον, τὸ κατανειμάμενον τὰς τοῦ αἰσθητοῦ κόσμου μερίδας, καὶ ζωσάμενον τὰς περὶ τὸν ὑλαῖον τόπον διακληρώσεις. Μετὰ δὲ τὰς ζώνας ἐστιν ὁ ἀπλανὴς κύκλος, περιέχων τὰς ἑπτὰ σφαίρας, ἐν αἶς τὰ ἄστρα. Καὶ ἄλλος μὲν παρ᾿ αὐτοῖς ὁ ἡλιακὸς κόσμος τῷ αἰθερίῳ βάθει δουλεύων· ἄλλος δὲ ὁ ζωναῖος, εἶς ὢν τῶν ἑπτα. Τῶν δὲ ἀνθρωπίνων ψυχῶν αἴτια διττὰ πηγαῖα τίθενται, τόν τε πατρικὸν νοῦν καὶ τὴν πηγαίαν ψυχήν. Καὶ προέρχεται μὲν αὐτοῖς ἡ μερικὴ ψυχὴ ἀπὸ τῆς πηγαίας κατὰ βούλησιν τοῦ πατρὸς· ἔχει δὲ καὶ αὐτόγονον οὐσίαν καὶ αὐτόζωον· οὐ γάρ ἐστιν ὡς ἑτεροκίνητος. /

/帯に対して独立した支配権をもち、目に見える神々の上位に座するものが「帯をなさないもの」と呼ばれる。また、天空の帯を離れて取り巻き、それを統制しているのが「帯をなすもの」と呼ばれる。帯をなすもののもとにはある種類の神がおり、宇宙の可感的部分を共有し、質料的な場所に特有の性質を帯びている。帯の次には不動の球が来る。それは七つの天球を取り囲み、そこに恒星が位置する。それらのもとにはほかに太陽的な宇宙があり、深くエーテルに支配されている。ほかに帯をなす宇宙があり、それは七つのうちの一つをなしている。人間の魂の原因としては二つの源泉が置かれている。父なるヌースと原初的魂である。彼らによれば、個々の魂は父の意志によって原初的魂から発出するのである。その実体はみずから生まれ自生する。ほかから動かされるものではないからだ。/