福本ワールド

『カイジ』の実写版映画公開に合わせてということなのだろうけれど、雑誌『ユリイカ』10月号は特集が福本伸行。福本ワールドは絵柄も話もどこか異形。その異形ぶりは同誌に再録された初期短編(絵柄はずいぶん違うが)にもほの見える。主人公の高校生はなんと朝から酒飲んで路上で寝ているという、ラブコメにはまるで似つかわしくないキャラクター。なにかこの、すさみ方がすでにして異形だ。で、『ユリイカ』誌だけれど、特集の対象がそういう異形世界なのだから、批評・論考も異形のものが期待される。個人的に目を惹いたのは、タキトゥスによる賭博についての一節から始まる、前田塁氏の論考。ギャンブル(麻雀など)を扱う小説やマンガが、結局は和了形から遡行して展開が逆算される以上、作品はいわば賭博の偶然性をどう消去していくかというプロセスに始終せざるをえないことを看破している。賭博の本質は「描かれない外部」としてあるということか。論考の末尾を閉じるのは、今度は『ゲルマーニア』の一節という、なかなか手の込んだどこか「異形の」論考。

お詫び:メルマガ(10月10日発行予定分)

体調悪化により、10月10日に予定していたメルマガ(No.158)の発行をやむを得ず見送りました。この号は2週遅れの10月24日に発行したいと思います。ご了承のほど、お願い申し上げます。

イスラム圏でのギリシア人

年二回刊行の『理想』最新号(No.683)は特集が「中世哲学」。聞き覚えのある執筆陣が並ぶ。内容も、ギリシア教父関連、アウグスティスヌ、トマス、エックハルト、クザーヌスなどなど、ほかの某学会誌に並ぶようなテーマというかタイトルが多いのだが、そんな中、個人的には三村太郎氏の論文(「中世イスラーム世界における『ギリシア哲学者』の存在意義とは」)がとりわけ目を惹く。アル・ファラービーがアリストテレス主義者だという話はよく聞くけれども、ではいかにしてファラービーはアリストテレス主義者になりえたのか、という問題設定。ここから、大きな歴史的動きが浮かび上がる。アラビア語でのキリスト教護教文献の登場とともにイスラム教との間に宗教の正当性をめぐる議論の場ができ(アッバス朝が率先して設けた)、そこにギリシア語話者のキリスト教系の医者たちが参加する。彼らは医学知識でもってパトロンに仕えていたものの、様々な助言をもする存在で、彼らがアリストテレス哲学(とくにオルガノン)を浸透させる役割を果たした、というわけだ。なるほどこれも、最近の研究動向というか、アラブ世界のアリストテレスの再発見にギリシア系の人々が一役買っていたという話に連なる研究成果。うーむ、やはり中世ギリシア圏は面白そう。

CEATEC 2009

今週はいろいろ立て込んでいて忙しい。仕事で幕張メッセのCEATEC 2009をちょっとだけ覗く。2000年から始まったというこれ、昔のエレクトロニクスショーっすね。そちらもずいぶん昔にやはり仕事がらみで行ったことがあったような……。台風のせいで予定を繰り上げた人とかもいたのかしら、会場はなかなかの盛況ぶり。ビジネススーツの人がたくさん。行きも帰りも海浜幕張の駅は混んでいる感じ。個人的には、会場がだだっ広くて疲れる。腰痛を抱えた身としては結構厳しい……。なにやら今年は最終日の10日が無料だそうで、子ども連れ向けのイベントなどもあるそうだ。面白そうなブースは……うーん、大手のところはたいてい時間区切って何かやっているみたいで、タイミングが合わないとつまらない感じも。全体はというと、展示の見た目とかは前身のエレクトロニクスショーとそんなには違わない気もするのだけれど(?)、90年代くらいには、「業界ずっぽり」ではない人にもなにやら将来的な期待感を煽るような、そういう空気があった気がする。今回のは、景気もいまいちのせいか、何かそういう空気が今ひとつ感じられないような……(?)。でもま、業界関係者には面白い祭典なんでしょうねえ、きっと。多少は目を惹くものないわけではないし。そういえば、ある一画でやたら目立っていたのがUQ WiMAXのブース。お姉さんたちが青いデカい紙袋を配っていた(もらわなかったけれど)。いよいよdemarrerという感じっすかね、WiMAX。

ニュートン……

積ん読になって久しかったフランク・E・マニュエル『ニュートンの宗教』(竹本健訳、法政大学出版局)を読み始める。ざっと本文の半分ほど。本文の後には補遺としてニュートンの論考の断片、手稿が続く。これらを通じて、ニュートンが宗教をどう自分のものにしていたか、宗教とどう(深く)関わっていたかを、通俗的な伝説排する形で(ニュートンが若いころから真摯に宗教に向き合っていた姿を描こうとしている)を追っていくというもの。原著は73年といい、実際この手の議論は伝聞的に広まっていると思うので、ある意味これは新古典という感じの一冊でしょうね、きっと。特に2章めの、自然と聖書という二冊の書物のメタファー(つまり科学と神学)についての話が面白い。ニュートンは、それらを分離せよという分離派の立場を取りながら、つまりそれらを総合しようとする汎知学の立場を批判しつつ、それらとはまた違う形で二つのメタファーの調和を見出す立ち位置にあった、という話(とても大雑把な要約だが)。このあたり、詳しい人にとってはもはや常識的なことなのかもしれないけれど、そういうちょっとずれているように見えて、その実、正攻法をなしているような立ち位置、というのが刺激的な感じ(笑)。もっと古い時代にも同じような例を見出せそうな感じもしなくない……なんて(?)。