中世の「啓蒙思想」

むー、相変わらずの腰痛。こういうときはなかなか集中できないのだけれど、とりあえず、ジェラルディン・ルー編『中世の啓蒙思想』(“Lumières médiévales”, dir. Géraldine Roux, Van Dieren Éditeur, 2009)というのを読み始める。思いがけずマイモニデスやイスラム系の話が主で、ちょっと嬉しい。3部構成の第1部をつらつらと眺めているだけだけれど、ユダヤ教の一部反律法・メシア待望論の人々が焚書に加担していた話とかが面白い(ダヴィッド・ブレジス)。当然、マイモニデスはそれを言語同断とはねつける。そういう蒙昧さに理性でもって立ち向かったというマイモニデス像は健在。編者のルーはマイモニデスが『迷える者への手引き』で理想として説いた「実践なき観想」についての考察。さらにいくつかマイモニデス関係の論考が続き、その後にはニュッサのグレゴリオス論(アラン・デュレル)。けれどもこれはなんだかさわりだけという感じで食い足りないっす(苦笑)。まだ見ていないけれど、第2部にはアル・ファラービー論やらエックハルト論などもある。ちょっと楽しみ。

iPod Touchでアラビア語

持病の腰痛が何年かぶりに復活したせいで、今週はちょっと引きこもり状態(苦笑)。そんな中、iTunes Storeを眺めていたら、なんとアラビア語・英語辞書(Aratools Arabic-English Dictionary こちら→Aratools Arabic-English Dictionary)が出ているでないの。お値段はちょっと高めだが(苦笑)、変化形から即引けるのがなかなか渋い。ちなみに、辞書引くには、iPhone OS 3.0以上で、設定からアラビア語キーボードをオンにしておく必要がある。まだちょっとしか触っていないものの、万年初級レベルの身としてはありがたい。アラビア語文献は最近ちょっとお休み中だったのだが(読みたいものはいろいろあるけれど)、そのうち少しリハビリしようかなあ、と。

メレオロジー

そのタイトルに惹かれて(笑)、中山康雄『現代唯名論の構築 – 歴史の哲学への応用』(春秋社、2009)を読み始める。とりあえず最初の3分の1にあたる3章まで。バリバリの難しい論考なのかと身がまえていると、想定読者に「君」と語りかけるスタイルで、入門書的な雰囲気を漂わせてくる。とはいえ、実際に「一般外延メレオロジー」の話に入っていく段になると、形式論理学っぽさが増してくるので、ちょっと読むスピードが落ちてくる……(苦笑)。同書の基本スタンスは、外的世界には個物しかなく、その個物をインスタンス(事例)として上位のクラス(類)を作るのは認識の働き、つまりは形式論理学的操作でしかないというのが出発点(だから唯名論ということになるわけだけれど)。で、部分と全体を形式論理的に考えるメレオロジー(部分論)が、その操作を説き明かすための基本体系として用いられる。個物は何かの部分をなし、それらが何らかの全体をなすのは、メレオロジーというある公理系に沿って操作されているからと説明できる、ということか。同書で用いられる「一般外延メレオロジー」、一見するとなんだか特殊な公理系のようにも見えなくもない。でも、「いやいや、これって日常の言語がやっている操作に近いでしょ?」ということを著者は示そうとしているようだ(というか、日常言語にある程度近くないと、形式論理の操作としては一般性を得られないことになってしまう?)。

クラスには様々なものがあり得るわけで、出来事や行為のようなものまで含まれるという(出来事や行為にも名前を当てることができるわけだから)。で、そういう時間の幅をもつものまで操作対象にするためには、部分としての時間も考えなくてはならない。その時間部分を考慮するために、同書でのメレオロジーは四次元主義と言われたりする。そう聞くとなにやら仰々しいけれど、とにかく言語的な処理の根源(形式論理)を解釈する以上、そういう時間部分の考え方は確かにある程度必要かつ有効そうには見える(ちょっと個人的には何かひっかかりも感じるのだけれど……それはまた別の話)。こうした道具立てでもって、副題にある「歴史」に向け、語りや記述などの問題がこの後論じられていくようなので、ちょっと楽しみではある(笑)。

断章31

Τὸ ὄντως ὄν οὔτε μέγα οὔτε μικρόν ἐστι – τὸ γὰρ μέγα καὶ μικρὸν κυρίως ὄγκου ἴδια -, ἐκβεβηκὸς δὲ τὸ μέγα καὶ μικρὸν καὶ ὑπὲρ τὸ μέγα ὅν καὶ ὑπὲρ τὸ μικρὸν καὶ ὑπὸ τοῦ μεγίστου καὶ ὑπὸ τοῦ ἐλαχίστου ταὐτὸ καὶ ἕν ἀριθμῷ ὄν, εἰ καὶ εὑρίσκεται ἅμα ὑπὸ παντὸς μεγίστου καὶ ὑπὸ παντὸς ἐλαχίστου μετεχόμενον· μήτε γὰρ ὡς μέγιστον αὐτὸ ὑπονοήσῃς – <εἰ δὲ μή, ἀπορήσεις πῶς μέγιστον ὄν τοῖς ἐλαχίστοις ὄγκος πάρεστι μὴ μειωθὲν ἢ συσταλέν - μήτε ὡς ἐλάχιστον - > εἰ δὲ μή, ἀπορήσεις πῶς ἐλάχιστον ὄν τοῖς μεγίστοις ὄγκοις πάεστι μὴ πολλαπλασοασθὲν ἢ αὐξηθὲν ἢ παραταθέν – ἀλλὰ τὸ ἐκβεβηκὸς τὸν μέγιστον ὄγκον εἰς τὸ μέγιστον καὶ τὸν ἐλάχιστον εἰς τὸ ἐλάχιστον ἄμα λαβὼν ἐπινοήσεις, πῶς ἅμα καὶ ἐν τῷ τυχόντι καὶ ἐν πάντι καὶ ἐν ἀπείροις θεωρεῖται, πλήθεσί τε καὶ ὄγκοις τὸ αὐτὸ ὄν <καὶ> ἐν ἑαυτῷ μένον· σύνεστι γὰρ τῷ μεγέθει τοῦ κόσμου κατὰ τὴν αὑτοῦ ἰδιότητα ἀμερῶς τε καὶ ἀμεγέθως καὶ φθάνει τὸν ὄγκον τοῦ κόσμου, [καὶ] πᾶν μέρος τοῦ κόσμου περιλαβὸν τῇ ἑαυτοῦ ἀμερείᾳ, ὥσπερ αὖ ὁ κόσμος τῇ ἑαυτοῦ πολυμερείᾳ πολυμερῶς αὐτῷ σύνεστι καὶ καθ᾿ ὅσον οἷός τε, καὶ οὐ δύναται αὐτὸ περιλαβεῖν οὔτε καθ᾿ ὅλου οὔτε κατὰ πᾶσαν αὐτοῦ τὴν δύναμιν, ἀλλ᾿ ἐν πᾶσιν αὐτῷ ὡς ἀπείρῳ καὶ ἀδιεξιτήτῳ ἐντυγχάνει κατὰ τε ἄλλα καὶ καθ᾿ ὅσον ὄγκου παντὸς καθαρεύει.

真に存在するものは大きくも小さくもない。大小は主に体積に関係する特性だからだ。それは大小を超越し、大きなものや小さなものの上位に、また最大のものや最小のものの下位にあって変わらず、最大のものや最小のもののすべてに同時に与るとしても、数としては一つである。その真の存在を最大とは考えてはならない(さもなくばあなたは、減少や縮小もなしに、最大の存在が最小の体積にどのようにして収まるかという難題に直面してしまう)し、最小と考えてもならない。さもなくば、増加や増大や拡大もなしに、最小の存在が最大の体積にどのようにして現れるかという難題に直面してしまう。むしろあなたは、最大のほうへと最大の体積を超えていくもの、最小のほうへと最小の体積を超えていくものを同時に把握し、それがどのようにして、最初に接するもの、すべてのもの、無限に拡がるものに見出され、複数のもののもと、体積のもとにあってなお、その存在はそのままであり続けるのかを、理解するがよい。というのもそれは、部分も大きさももたないというその特性において、世界の大きさに関係するからである。それは世界の体積に先行して、みずからの非分割性で世界のあらゆる部分を包摂するが、それゆえ世界もまた、多数の部分から成るというみずからの性質ゆえに、可能な限り、多くの部分でもってそれに関係するのである。ただし世界のほうは、全体においても、可能性のすべてにおいても、その真の存在を包摂することはできず、あらゆるものにおいて、無限かつ掌握しきれないものとして在るその真の存在に、別様に、なんらの体積をも伴わない形で出会うのである。

ペルゴレージからバッハ

ペルゴレージの「スターバト・マーテル」をバッハが編曲したというBWV.1083「いと高き神よ、わが罪を拭いたまえ(Tilge, Höchester, meine Sünde)」。これをソプラノのエマ・カークビー、カウンターテナーのダニエル・タイラー(さらにシアター・オブ・アーリー・ミュージック)で聴かせるという、ちょっと面白い一枚が『スターバト・マーテル』(Vivaldi: Al Santo Sepolcro RV.130, Stabat Mater RV.621; Pergolesi: Salve Regina, etc / Emma Kirkby, Theatre of Early Music, etc [SACD Hybrid])。編曲というか、歌詞がドイツ語になっている以外(詩篇51番)、ちょっと聴いた分にはオリジナルとなんら違わないでないの!ライナーによると、当時は刊行された楽曲は「公共財産」として扱われたのだそうで(なんともおおらかな時代だ)、バッハもペルゴレージのこの曲を転写し、若干の「改良」を加えて(当世趣味に合うようにアレンジし)レパートリーに加えたのだそうだ。なるほど、確かに最後の締めのアーメンがちょっと違うし、装飾などで派手さは増している感じがする。途中の順番の入れ替えもあったらしい(気が付かなかったが……(苦笑))。でもやはり利いているのは、もとのペルゴレージの凄さか。演奏としては聴き応えたっぷり。収録曲はこのほか、参考という感じで、ヴィヴァルディの『スターバト・マーテル』(RV621)と『聖なる墓で』というソナタ(RV130)、さらにペルゴレージからも『サルヴェ・レジーナ』。いずれも同じくなかなかの聴き応え。ちょっとお得感もある一枚。