モノに宿る力とは……

秋山聰『聖遺物崇敬の心性史』(講談社選書メチエ、2009)を読み始める。とりあえず前半。教会の拡張政策と相まって拡がり、中世の民衆の信仰にまで根を下ろした聖遺物崇拝について多面的にまとめた好著。聖遺物崇拝の起源、史的展開、演出・造形的変遷などが章ごとにつづられている。第二章でアインハルトの奉遷記の内容が細かくまとめられているのが個人的には興味深かった。なるほどすでにシャルル・マーニュの時代に、聖遺物ブローカーのような存在が教会関係者を相手に商売を始めているわけか。アインハルトが、隠棲のために建立していた教会も、思わぬ聖遺物の数々の入手によって大幅に計画修正させられたという話も。時代が下って12世紀ごろの聖遺物容器が人前に出されて、華麗な装飾を施されるようになると、学識者たちが賛否両論の見解を示すというくだりも興味深い。「ほとんど唯一の神学的論考」とされるエヒテルナッハのテオフリートの論というのも紹介されている。天上世界での栄誉にあずかる聖人には、地上でも相応の栄誉をもって扱わなくてはならないという、そうした華美の礼賛論らしいけれど、これなどは原文を読んでみたい気もする(笑)。

とにかく、聖遺物崇敬が聖職者も民衆も巻き込んだ大きな社会動向となっていたことが様々な具体例から窺える。見た目には時に貧相だったりする聖遺物に、神の力が働く媒体を見るという民衆的想像力。古代からの伝統的な信仰が起源とか言われるけれど、いずれにしても、それってもしかして時代が下ってからのインペトゥス理論のような、ごく自然の力もまた媒体に宿る・温存されるといった考え方の、はるか源流の一つになっているのかもしれないという気もしてきた。うーむ、このあたり、ちょっと検討してみるのも悪くないかもしれない……。

夏読書

このところの夏本番で、暑さにダレる。うーむ、いかんな。夏はどうしても効率は下がるけれど、なんというか気分的な余裕みたいなものがあって、ちょっとほかの季節とは違った感じで読書などにも取り組みたくなる。というわけで、今年も夏読書の季節。とりあえずの予定としては、まず、ピロポノスがキリスト教に入信してからの著書「世界の始まりについて」。3巻本で出ている希独対訳本(Johannes Philoponos “De orificio mundi”, Clemens Scholten (ubs.), Herder 1997)を入手したので、これを読み進めるつもり。聖書と新プラトン主義思想の融合……ではないようだけれど、聖書に見られる自然学を浮き彫りにしているという、ある意味希有の書とのことで、期待大。インペトゥス理論がらみの説明が入っているという話もあるので、ちゃんと確認しないと。もう一つ(というか二つだけれど)、これもメルマガでやっているインペトゥス理論関連かもしれないけれど、ブノワ・パタール編でジャン・ビュリダンとザクセンのアルベルトそれぞれのアリストテレス「天空論」注解(“Ionnis Buridani Expositio et quaestiones in Aristotelis ‘de Caelo'”, Benoît Patar (éd), Editions Peeters, 1996)(Alberti de Saxonia Quaestiones in Aristotelis ‘de Caelo'”, Benoît Patar (éd), Editions Peeters, 2008)をちょっと前に入手し、手をつけていないので、そろそろ目を通したいところ。2冊とも大部だけれど、まあ、一部分だけでも見ておきたいなあ、と(笑)。

リュートtube 5

今回はダウランドの「蛙のガリアード」。これも名曲よね。いくつかヴァリエーションがあるといわれるけれど、これはたぶん一番よく知られているバージョン。YouTubeではなぜかギターで演奏している映像が多い。でもこちらはちゃんとリュートで弾いている。YouTube上のリュートでの「蛙のガリアード」に関する限り(というか検索できたうちでは)、演奏の美しさではほぼ最強かな(笑)。弾いているのはTrond Bengtsonというノルウェーの奏者。すばらし〜。

動物と人間?

久々に青土社の『現代思想』誌(7月号)をめくる。特集は「人間と動物の分割線」。なんだ、基本的にはデリダ関連の特集なのね。昨年秋にフランスで刊行されたデリダ晩年の講義録『獣と主権者』を受けての特集となったらしい。同書は未読だけれど、結構面白そうだということがこの雑誌の収録論文から伝わってくる。うん、同誌に限らず昔の思想誌にはそういうドライブする感じがあったよなあ、としみじみ。ま、それはともかく。

ぱらぱらとめくってみた程度だけれど、バスルームで素っ裸の状態で、飼い猫と目線が会ったときの気恥ずかしさについてデリダが語っているという話が、いくつかの論考に出てくるようだ。たとえば、晩年のデリダの動物愛護に、本来の人間中心主義批判と食い違うのではないかとの問いを掲げ、それを人間のもとにある動物的な生の問題圏(生政治)に回収しなおそうという論文(宮﨑裕助「脱構築はいかにして生政治を開始するか)や、上の気恥ずかしさを単一ではない(複数の)絶対的他者(猫もまた神々しい他者そのもの)への責任論として、あるいはその他者のために他の他者を犠牲にせざるをえないという供犠的構造の議論として読み、デリダが何度か考察しているというイサク奉献の読解へとつないでいくもの(郷原佳以「アブラハムから雄羊へ」)など。うーん、その「気恥ずかしさ」の話のミソはやっぱり素っ裸というところなんでしょうね。ジャコブ・ロゴザンスキーの論考(「屠殺への勾配路の上で」)から借りるなら、人間性と動物性とのある種の連続性を探るアリストテレスと、動物は似姿ではなく痕跡(vestigium)として神に似ている以上、あくまで人間の下位におかれるのだとするトマス・アクィナスとの、まさに狭間に置かれるという経験か(笑)。ロゴザンスキーが示してみせる第三の道は、ヒンドゥー教にインスパイアされた、動物を神聖視するというトーテミズムの古層への「回帰」(ある種の)なのだけれど、これなどはまさしく、上の二論文が示す他者への責任論、生政治論へと重なってくる。なかなかに刺激的(笑)。

……でも、こう言うと顰蹙かもしれないけど、素っ裸で飼い猫と目があっても、個人的には気恥ずかしいとは思わない気がする……。うーむ、これは困ったことだ。前提が共有できないじゃないの。求められる神経の繊細さが一段も二段も違うのか?とするなら、哲学の途はかくも長く厳しいのか?ま、とりあえずは、そのうち読んでみるとしよう、『獣と主権者』。

新刊情報(ウィッシュリスト)

いよいよ夏本番が迫っている感じ。こうなってくると夏読書のためにいろいろと用意したくなってくる。というわけで、新刊情報から。