関係性としての三位一体……

以前読んだファルクの本で出てきたアウグスティヌスの三位一体論の要。それが「関係性」としての三位一体という話だったのだけれど、やっとそれを確認。フェリックス・マイナー社の哲学叢書の一つに、アウグスティヌス『三位一体論』(羅独対訳本)(Augustinus, “De trinitate”, u.s.Johann Kreuzer, Felix Meiner Verlag, 2003)があるのだけれど、これは抄録で、第8書から11書、14書から15書がメインなのだけれど、幸い、参考までにと第5書の一部が収録されている。関係性の三位一体論はその第5書に記されているので、とりあえず大まかなところは確認できる。確かにこれは興味深い。父が父と呼ばれるのはあくまで子に対してであり、子が子と呼ばれるのもあくまで父に対してであり、両者は関係性において成立している、というのが骨子。「人間である」「人間ではない」なんて言う場合には、その述語部分を実体的に肯定・否定しているわけだけれども、「父である」「父でない」「子である」「子でない」というような場合は実体的に肯定・否定されるのではなく、相互の関係性について肯定・否定される。けれども、実体的でないからといって重要でないわけではなく、たとえばその関係性自体は偶有的なものではないし(父と子の位相が変わるなんてことはないわけで)、またほかの友人や隣人といった関係性のように等質なものでもない。可変ではなく永続的ですらある……。

こういう議論の背景には、それまでギリシア語のμίαν οὐσίαν τρείς ὑποστάσεις(一つの実体、三つの位格)が、ラテン語でunam essentiam tres substantias(一つの本質と三つの実体)と訳されていたという事情もあったようだ。アウグスティヌスはこのunam essentiamのところを、essentiam uel substantiamと言い換えようと説いている。tres以下はtres personasにせよと(こちらについては「多くのラテン教父が言うように」とある)。さらにtres magnitudines とかtres magnosとか訳す例もあったようで、それに対しては神について大きさが異なるように言うのはおかしいとして排除している。いずれにせよ、こうして実体から関係を離すことによって、実体としての一者、関係としての三者を据えられるようになるというのが、アウグスティヌスのこの上なく見事な戦略と言えそうだ。

関西語訳(笑)

なにやらじわじわっと話題が広がっている(?)らしい、『ソクラテスの弁明 – 関西弁訳』(北口裕康訳、PARCO出版)。さっそくゲットしてみた。出だしのところをちょろっと眺めただけだけれど、これはなかなか良いんでないの?とてもこなれた訳になっている。一般向けはこれでまったくオッケーという感じ。そもそも翻訳においては、専門家向けと一般向けとで別々の訳が出るというのはある種の理想型。で、訳者も高名なセンセ(笑)とかだけでなく、誰が参入してもよろしい、みたいなのが理想型(なかなかそうなっていないところが問題なのだが)。その意味で、こうした訳出の試みには大いに賛同したいところ。

……とここまで書いてふと思ったのだけれど、これって関西語に「訳した」といういわばリライトもの?なぜそう思うかというと、原典訳にしては底本が示されておらず、参考文献ばかりずらずら載せてあるので……。うーん、ま、仮にそうだったとしても、そういうのもありかもね、という気もする。いずれにせよ、同書を読んでギリシア語原典に興味を持った人は、「Textkit」(ギリシア語・ラテン語学習支援サイト)を覗いて、ぜひルイス・ダイヤーの原典注釈本(pdf)をダウンロードしよう!(笑)

断章26 & 27

(Lamberz : 25 & 26; Creuzer=Moser : 26 & 27)

Περὶ τοῦ ἐπέκεινα τοῦ νοῦ κατὰ μὲν νόησιν πολλὰ λέγεται, θεωρεῖται δὲ ἀνοησίᾳ κρείττονι νοήσεως, ὡς περὶ τοῦ καθεύδοντες διὰ μὲν ἐγρηγόρσεως πολλὰ λέγεται, διὰ δὲ τοῦ καθεύδειν ἡ γνῶσις καὶ ἡ κατάληψις· τῷ γὰρ ὁμοίῳ τὸ ὅμοιον γινώσκεται, ὅτι πᾶσα γνῶσις τοῦ γνωστοῦ ὁμοίωσις.

知解における知性を超えたものについては多くのことが言われているが、知性の上位にある非知性でもって考察されれている。ちょうどそれは、眠っている状態について、起きている状態でもって多くのことが言われるものの、眠りによってこそ認識と理解がもたらされるのと同様である。というのも、類似するものは類似するものによって知られるからである。なぜかというと、認識はすべて認識対象に類似するからである。

Μὴ ὂν τὸ μὲν γεννῶμεν χωρισθέντες τοῦ ὄντος, τὸ δὲ προεννοοῦμεν ἐχόμενοι τοῦ ὄντος· ὡς εἴ γε χωρισθείηνεν τοῦ ὄντος, οὐ προεννοοῦμεν τὸ ὑπὲρ τὸ ὄν μὴ ὄν, ἀλλὰ γεννῶμεν ψευδὲς πάθος τὸ μὴ ὄν, συμβεβηκὸς περὶ τὸν ἐκστάντα ἑαυτοῦ. καὶ γὰρ αἴτιος ἕκαστος, ᾧπερ ὄντως καὶ δι᾿ ἑαυτοῦ ἐνῆν ἀναχθῆναι ἐπὶ τὸ ὑπὲρ τὸ ὄν μὴ ὄν καὶ παραχθῆναι ἐπὶ τὸ κατάπτωμα τοῦ ὄντος μὴ ὄν.

非存在には、存在から離れるときに私たちが生み出すものもあれば、存在に関係するときに私たちが先見的に知るものもある。存在から離れてしまった場合、私たちは存在を超越した非存在を先見的に知ることはできず、むしろ偽のパトスという非存在を生み出してしまう。それはおのれ自身から外へ出る者に生じる非存在である。というのも、実際に自分自身でもって、存在を超越した非存在へと高まろうとするのも、存在の失効である非存在へと接近しようとするのも、それぞれの責任だからである。

ヌメニオス

2日間ほど帰省。田舎では暇なので、たいてい何か薄めの読む本を持って行くのだけれど、結局読み切らずに持ち帰ることが多い(苦笑)。今回はBelles Lettresから出ているヌメニオスの断章の希仏対訳本(“Numénius – Fragmenets”, trad. Edouard des Places, S.J., Les Belles Lettres 2003)。で、今回は半分も進まずに持ち帰ってきた。でもこれ、内容的にはとても充実。2世紀後半ごろに活躍したヌメニオスは、新プラトン主義の成立そのものに貢献したなんて言われるけれど、その三神思想とかは実際にとても興味深い(Fr.21)。また、プラトン思想を標榜している当時の人々に、プラトンを正しく継承していないという厳しい批判を寄せたりもしている(Fr24)。ピュタゴラス思想との摺り合わせもあって、さらにモーセにも言及して、「プラトンとは、アッティカ語を話すモーセ以外の何者だろうか?」(Τί γὰρ ἐστι Πλάτων ἢ Μωσῆς ἀττικίζων᾿ ; )なんて言ったりしているという(Fr8)。うーん、このあたりの言及の中身はとても気になるところだ。とりあえず、後半もひととおり読むことにしよう。

廉価版も侮れない

昨日は恒例のリュート講習会。今年はクーラント2曲(ジャック・ビットネルほか)で参加。例によってコケ丸(笑)。ヘミオラの利いた三拍子の曲はなかなか拍子が取れないなあ。課題山積み。

で、これまた例によってクーリングダウンCD。今年はミゲル・セルドゥーラの演奏によりバロックリュートもの。『神秘のバリカード(内乱?)』。あまり期待していなかった廉価版(ブリリアント・クラシックのシリーズ)だったのだけれど、これは素晴らしい一枚。澄んだ音が響き渡る。ミゲル・セルドゥーラという人は若手ということで、期待していよう(笑)。ホプキンソン・スミスとかにも師事している。収録曲も結構奮っていて、ケルナーの「最長」とされるシャコンヌ・イ長調ほか、ヴァイス、クープラン、サン=リュック、エヌモン・ゴーティエのこれまた長い「カスケード」シャコンヌ、そしてジャック・ガロ。どれもいつか弾いてみたい曲。

Les Baricades Misterieuses -D.Kellner, S.L.Weiss, F.Couperin, J.de Saint-Luc, etc / Miguel Serdoura