異本の論理

……とりとめもなく。

昨日はテレビで『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』をやっていた。ちょうど日経新聞夕刊の映画短評が劇場公開中の『破』を褒めていて(絵も演出も素晴らしいみたいに書いている)、いやー、なんだかとても時代の空気の変化を感じますねえ……。『序』のほうは、なにやら細部は違うみたいだけれど、基本的にはテレビ版に準じていて、個人的にはいまさらあまり高揚感もなかった(苦笑)。基本的には異本という感じでしかないのだけれど……。結局、異本を読む(広い意味で)というのは、異本群(単に原本だけでなく)にそれなりの思い入れのあるマニアないし研究者でもない限り、それほど高揚できる所業ではないわけで。一方、作り手サイド(二次的な作り手も含めて)はというと、これは完結した作業について必ずどこか改訂したいという思いを抱き続けるものだと思う(たぶん)。こうして作り手と受け手の間に微妙な温度差が広がっていく……のかしら?あるいはそれが対流をなしていくとか?

そういえば、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』は、中世において広く流布したテキストだとされるけれど、本人自身が何度かかなりの加筆を行っているというし、流布したテキストというのもかならずしもどれかの完全版ではなく、一種の抄録版みたいなものがむしろ出回っていたみたいな話だった。テキストの受容は、その全貌でもって受容されるわけではない、というある意味ありふれた話なのだけれど、そういう一般的な作品受容という観点からすると、今の時代の映像作品も、時代も場所も対象も違っているといういのに、大きな流れとしては同じような道をたどるということになってしまっているのが興味深い。受容のパターンはそれほど違っていない……これって作品と人の関わりという意味で、媒介学的に(?)とても面白い現象・問題かも。

TLG

久々にTLG(Thesaurus Linguae Graecae)を見たら、サイトのデザインが変わり、今風になっていた。リアルタイムアクセスのウィジェットまで付いている……。ギリシア語文献の最大のデータベースは、今なお拡充が続いているようで、相変わらず素晴らしい。いつの間にか、無料アクセス版の著者リストも大幅に拡充されている(前にはなかったプラトンやアリストテレスも入ったし、なんともまあ、ニュッサのグレゴリオスや、ナジアンゾスのグレゴリオス、ヨハネス・クリソストモス、ダマスクスのヨアンネスなども入っている!)。

去年だか一昨年だかあたりから始まった新料金スキームはちょっと微妙な感じだった。それ以前はアクセス時間制で、一回料金を払うと24時間分だったか(?)が得られた。間延びなユーザなので、個人的にはまだ10時間くらい残っている。たまにしか使わないユーザにはこれは大変ありがたい方式なのだけれど、金銭を受け取る側にしてみれば、これは間延びのしすぎということになるのだろう。そんなわけで、いつの間にか、年限方式になったのだった。個人ユーザの場合、100ドルで1年、400ドルで5年。ま、使い倒そうと思うなら、サイトの利便性からすれば決して高くはないと言えるかもしれないけれど(月2000円くらい払う有料データベースもザラだしね)、欲を言えばもっと弾力性のあるスキームにしてほしいなあとか思っていた(3年分とか、格安の半年分とかのオプションもあってほしい)。でも上の無料アクセス版の拡充ぶりを見て(これってオープンソースとクローズドソースの併存モデルだよね)、そちらも今後もさらに拡充してくれるなら、このスキームでもいいかもねという気がしてきた(笑)。

「ニンフの洞窟」

本格的な寓意的解釈の嚆矢とも言われるポルピュリオスの『ニンフの洞窟』。これの希伊対訳本(“L’antro delle Ninfe”, a cura di Laura Simonini, Adelphi Edizioni, 1986)を、積ん読解除で読み始める。テキスト自体はそれほど長いものではない。まだ3分の1くらいだけれど、すでにしてなかなか面白い。ホメロスの『オデュッセイア』に出てくる一節をめぐり、洞窟やニンフの寓意、そこに古来より込められた多義的な意味をめぐる話が展開していく。ポルピュリオスの、これはコスモロジー系のテキストということになるのかしら。いずれにしても、洞窟はまずもって人間と神を繋ぐものであり、ヒューレー(第一質料でしょうね)の寓意であったり、質料から生成するコスモスの寓意であったりするという。その際の理屈が、洞窟は「自発的に形成される(αὐτοφυής)」からというのだけれど、考えようによってはこれはとても興味深いところ。原初的な形成(形相との混成?)がまずもって穿たれた「穴」として生じるというところに、ある種の形而上学的な可能性が感じられる(笑)。穴の形而上学というと分析哲学系の話題になってしまうけれど、「自発的」という部分も含めて「穿ち」の形而上学ということを考えることもできたりするんじゃないかしら、なんてね(笑)。とりあえずゆっくりとテキストの先に進むことにしよう。

物体としての本

今福龍太『身体としての書物』(東京外国語大学出版会、2009)を読んでいるところ。まずこの出版元。ついに外語にも出版会ができたようで(笑)、今後のラインアップも楽しみではある。大学の出版会も全般に懐事情は厳しい、みたいな話も聞こえてくるけれど、頑張ってほしいところ。で、この本。内容は、ボルヘス、ジャベス、ベンヤミンの書物論をきっかけとして、書物の受容というか知的営為との関わりというかを、書物のマテリアルな面との関係性で論じた一連の講義録。活版印刷以後を主に扱っているのだけれど、個人的にとりわけ引き寄せられた(笑)のは「口誦から文字へ」と題された第4章。ボルヘスの講演集を読み進める形で、プラトン以前となる古代の知の伝達の様が取り上げられている。ボルヘスは、口承文化の時代において「師の言葉は弟子を拘束しない、弟子は師の思想を自由に発展させることができた」みたいなことを言っているというのだけれど、うーむ、このあたりはどうなのだろう?口承による思想の継承というのは、ちょっと違う次元のものだったのではないのかしら、という気もしなくない(?)。師(というか先達)の思想をいじるということはそもそも、書物による知の伝達においてこそ導かれる、あるいは発想されるという気がするのだけれど……。注解書なんてまさにそういうものだし。でもまあ、確かに写本製作、とりわけ筆写作業などには、一方で口承性の残滓という面もあったのかもしれない……。

一般論だけれど、書物論が印刷本を主に論じるのは良いとして、やはりそれ以前の写本文化ももっと十全に視野に入れてほしい気はする。注解書が出てくるというのはもちろん文字文化の賜物だけれど、その前段の口承での知的伝達の伝統がどれほどそこに流れ込んでいるのかとか、とても気になってくる。ピエール・アドあたりをもうちょっとちゃんと読んでみるか……?

久々の文学論

久々に文学ものの本格的論考を読む。ラブレー論。折井穂積『パニュルジュの剣 – ラブレーとルネサンス文学の秘法』(岩波書店、2009)。いわゆる構造分析なのだけれど、従来はせいぜいフォークロア研究などで小さく使うことが多かった手法を、ここでは大胆にラブレーの『パンタグリュエル』から『第三の書』と、それが影響を受けたであろうとされるクレマン・マロの詩、マルグリット・ド・ナヴァールの詩に適用して、結果的にとても面白い問題系が浮かび上がっている。いや、お見事。絵画などにパラレルに見られる作品構造としての対称性に着目して、そこからラブレーの『第三の書』に、地獄めぐりのモチーフを見出し、さらに一種の性表現や、霊的な戦いについての思想が、絵画で言うステガノグラフィー(隠匿記法)として埋め込まれている様を明らかにする……というもの。もちろん、こうした分析は状況証拠の積み重ねの上に成り立っているわけだけれど、このように三種のテキストそれぞれの対称構造が示されると、ある種の迫力・説得力がある。そうした対称構造への当時の「こだわり」は、たとえばルネサンス期の楽譜などにも時に見られるわけで(ルイス・ミランとかね)、文学にそれが持ち込まれない理由は見あたらないように思われる(ま、ラブレーを専門でやっている人が読めばまた違う評価になるのかもしれないけれど)。仮に文学もそうであるなら、思想系のテキストはどうなのかしら、とふと思ったりもする。

余談1:ラブレーといえば、白水社からマイケル・A・スクリーチ『ラブレー – 笑いと叡智のルネサンス』(平野隆文訳)というのが出たようなのだけれど、この値段を見てびっくり。1000ページ近いとはいえ、2万円超とは……。これではちょっと手軽に見てみたいとはいかないじゃないの……。とりあえず目次のPDFだけ落として眺めてみると、こりゃかなり細かい注釈書のよう。

余談2:マルグリット・ド・ナヴァールの『牢獄』に、「神とは無限の円である。その中心はいたるところにあり、円周はどこにもない」という定義が出てくるそうで、なにやらクザーヌスを彷彿とさせるこの一節、出典は『24人の哲学者の書』という12世紀の偽ヘルメス文書だという注があるのだけれど、なんと、ちょうどフランスのJ.Vrin社から、羅仏対訳本(“Le livre des vingt-quatre philosophes – Résurgence d’un texte du IVe siècle”)が出たらしい。しかもこれ、マリウス・ヴィクトリヌスの先行テキストを再浮上させたテキストだという新知見が盛り込まれているらしい。こりゃ面白そうだ!