登攀せよ、類推の山

就寝前読書の本は、適度に面白そうだけれど実はそれほどでもない、というのがちょうど良いかも(笑)。それだと途中で放り出すこともなく、かといって眠らずに一気読みすることもない。でもたまにその中道から外れるものもある。で、久々に良い方に外れたのがルネ・ドーマル『類推の山』(巖谷國士訳、河出文庫)。すっごく遅ればせながら、一気読み。もとの邦訳は78年白水社刊ということで、文庫も初版96年だから、まあ多少ネタバレしても問題ないかな、と(笑)。これ、一種の冒険小説なのだけれど、なんだか学知探求の登攀の比喩のようにも見えてくる(笑)。通常のアプローチでは見えもしないしアクセスもできない超絶的な高さの<類推の山>。そこへの通路を、ある特殊な思弁(笑)でもって見出した一行。彼らは当然ながら、その山の登攀を計画する。そこに行くまでにもいくつもの逡巡があるのだけれど、そうして道の圏域に踏み出すと、またしても待ちかまえているのは麓での時間の無駄遣い(エントロピーですな)。それを脱して最初の小屋にまで登るも、新たなパーティにその場を受け渡すまでそこに止まらなくてはならないというルールが……。こうして登攀の行程はまだまだ先が長そうなのだが、作品は結局未完。うーん、少年老いやすく学成り難しというところか?登攀のための準備の描写がまたいい。最初、あれもこれもと荷物を詰め込む一行は、やがて結局は高度馴化が最も重要で、それを妨げるようなものをあれこれ持って行っても仕方がないということを悟るのだ。あ〜、なんだか身につまされるような気も……(笑)。

断章20 & 21

(Lamberz 9 & 17;Creuzer=Moser 9 & 18)

Ὁ θάνατος διπλοῦς, ὁ μὲν οὖν συνεγνωσμένος λυομένου τοῦ σώματος ἀπὸ τῆς ψυχῆς, ὁ δὲ τῶν φιλοσόφων λυομένης τῆς ψυχῆς ἀπὸ τοῦ σώματος· καὶ οὐ πάντως ὁ ἕτερος τῷ ἑτέρῳ ἕπεται.

死には二種類ある。一つはまさによく知られているもので、魂から身体が離れることであり、もう一つは哲学者たちが言うもので、身体から魂が離れることである。いかなる意味でも一方が他方に追従することはない。

Ἡ ψυχὴ οὐσία ἀμεγέθης, ἄυλος, ἄφθαρτος, ἐν ζωῇ παρ᾿ ἑαυτῆς ἐχούσῃ τὸ ζῆν κεκτημένη τὸ εἶναι.

魂とは、大きさもなく、質料をもたず、滅することもない実体であり、みずからが生命を担うその生において、存在をもたらすものをいう。

人文誌……

なんと、新書館の雑誌『大航海』は6月のNo.71(特集:ニヒリズムの現在)で終刊だそうだ。今回は終刊号ということで、巻末に総目次がついている。人文系の雑誌はどこもじり貧とは聞いていたけれど、これはいきなりの終刊でちょっとびっくり。うーん、個人的にはあまり忠実な読者ではなかったけれど、最近でも2007年のNo.62「中世哲学復興」とか、ちょっと思い入れのある号もいくつかあって、毎回密かに特集を楽しみにしていたりしたのだけれど……。最後の特集はニヒリズムで、なんだかとても示唆的(笑)。総目次の前の事実上の最終ページには編集長の三浦雅士氏のエッセイが。「時代という虚構を結晶させる触媒」としての典型(モデルってやつですね)は農業を基軸とする世界でこそ意味があるが、「世界は大きく変わった」とし、今や「価値を生むのは労働ではない。差異を見出す敏捷さである。範例のとなるのは農業ではなくむしろ狩猟なのだ」という。けれども逆に、そんな今こそ農業的な営みの論理が必要とされる気もする。狩猟の論理に抗いうる農業の論理の再生を見据えないまま退場するのは、あまりに寂しいのでは……?

特集そのものはまだちょこちょこと目を通した程度だけれど、三島憲一「「ニヒリズム」の話は無意味だからもうやめましょう」という文章がちょっと鮮烈な印象。日本のニヒリズム受容は、ニーチェのおおもとのニヒリズムから逸れた俗流(?)ニヒリズムの受容の一つで、戦後を通じてその底面には、西欧への参画や自文化の自画自賛というモチーフが隠れていたのだという。で、このやや偏った受容が、下手をすると安易に復古的・ナショナリズム的に折り曲げられてしまう危険を、アドルノの批判に託して表明している。そういうニヒリズム(俗流)なんてカテゴリーがそもそも不要なんだ、と……。

イスラム聖者の研究書

直接関係する領域ではないのだけれど、比較研究という観点から、イスラム方面の中世研究というのもやはり多少とも気になる。というわけで、私市正年『マグリブ中世社会とイスラーム聖者崇拝』(山川出版社、2009)を読み始める。北アフリカのいわゆるマグレブ地方に史料の範囲を絞り、主にスーフィズムが伝わる11世紀以降のイスラム聖者についてかなり包括的にまとめた労作。期待通り、比較という観点で興味深い記述がいろいろと見られる。たとえば次の点。「スーフィスムが土俗化する過程で、聖者崇拝が盛んになり、イスラームが民衆化した」(p.48)というのが一般的な説明とされているけれど、著者はこれは間違いではないとしつつも、その地域での初期の聖者崇拝は、イスラム教という比較的新しい宗教をもって入ってきたアラブに対し、現地のベルベル人が表面的にイスラム受容を取り繕いつつ、自分たちの伝統的信仰を守ろうとした、という側面もあったことを指摘している(p.47)。だとすると、キリスト教は土着信仰を吸収して拡大した、などと一般には言われているけれど、それなども案外、当初はキリスト教を装いながら土着信仰が温存されていったみたいな部分もあったのだろうなあ、と思ってしまう。また、聖者像の比較では、キリスト教での骨など聖遺物の崇拝に対して、イスラムでは骨の持ち出しは禁じ手で、結果としてキリスト教のように分骨などによって聖地が拡散するような事態はイスラム教ではありえないという(p.37)。

著者はこの後、聖人に付与されるバラカ(神の恩寵のような意味だという)の意味の変遷をまとめている。それによると、もとは広い意味での精神的・物質的祝福を意味したバラカは、イスラム教の成立後にはすべてアッラーに由来するとされて内面化・一元化されるようになるものの、マグレブでの史料からは、徐々にそれが再び拡散し物質化し始めることが窺えるらしい。このあたり、伝播・伝達の力学が垣間見えて興味深い。この後、さらに聖者の特徴づけや奇跡の分類、マグレブ社会と聖者の関係性などが各章で検討されていくようで、まだまだ面白そうではある。

有料データベース……

イタリアの学術系書店SISMEL – Edizioni del Galluzzoからのお知らせメールが届く。MIRABILEというオンラインの中世文献リソースができているという話なので、さっそく覗いてみる。基本的には登録制で、MEL(Medioevo Latino)、Bibliotheca Scriptorum Latinorum Medii recentiorisque Aevi(BISLAM)、Compendium Auctorum Medii Aevi(CALMA)の3つのデータベースが検索(有料:未登録でも件数は出るが、中身を読むには登録後、アクセスするためのライセンスを購入しないといけない)でき、ほかにEdizzioni del Galluzzoの定期刊行物の論文も検索できる(本文はやはり有料で、一本4ユーロだそうな)。データベースのライセンスは結構高い……。3日間有効の「お試し」アクセスで33,33ユーロだというので、まあ、そのうち試してみたい気もするが、とりあえず今回は見送り。論文一本4ユーロというのはどうだろう……まあ、単価としては多少高めかもしれないけれど、まずまず妥当なところか?とりあえず機関ユーザだけでなく、一般の個人でも購入できるというところはよいかも。こういう論文の単品購入方式はもっと増えてほしいっす。日本のCiNiiとかも単品購入になったりしたら面白いのだけれど……ってそれはちょっと無理って話だろうけど(笑)。