強勢リズム

昨日の酒井健『バタイユ』では、若き日のバタイユが古典ラテン語よりも「ラテン語からフランス語への変移をなす半ば不純性な言葉」に執着していた理由を、言語を変貌させる「発話者たちの生の力、この生の際立ち」にあったと論じていて、その変貌の実例としてロマンス語の母音変化を挙げている。ゲルマンの強勢アクセントのせいで、母音に強弱が生じ二重母音化する話と、強勢が置かれない語末母音が弱音化する話。ガリアのロマンス語は強勢アクセントが形作ったということになるのかしら(?)。

となると、音調アクセントではない強勢アクセントというのは本質的にどういう現象なのか、なんてあらためて素朴な疑問が湧くのだけれど(笑)、ちょうど大修館書店の『月刊言語』6月号(特集:リズムを科学する)を眺めていて、馬塚れい子「言語獲得の基盤をなすリズム認知」という興味深い論考に目をひかれた。これはリズムの話だけれど、乳児の音声獲得のレベルにおいてすら、英語などの強勢リズムと、フランス語ほかラテン系の音節リズムとが区別されているという、ちょっと「衝撃的」(笑)な実験結果が報告されている。うーん、ちょっとびっくり。日本語などはさらに別の「モーラリズム」というものだそうだが、音節リズムの変種とする考え方もあるのだそうで、音節リズムとモーラリズムの区別は新生児にはできなかったりするという。

この強勢・音節・モーラの話について、ちょうど同じ『月刊言語』の同論文の話を、宗教学者でバロック奏者の竹下節子氏がブログで「フランス語の歌詞の聴き取りにくさ」という観点からまとめている。うん、確かに面白い。たとえば誕生日のときに歌う「Happy birthday to you」は、フランス版だと「Bon anniversaire」となるけれど、英語版が「ハピー・バースディ・トゥ・ユー」と強迫ごとに単語の切れ目が作られるのに対して、同じ強迫区切りを無理に仏語版に持ち込んでみると「ボナ・ニーヴェル・セー・ルー」みたいになって単語の切れ目がどこだかわからない(笑)。同じように、フランス語を学びたてのころは、フランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」も「メロディへの語の当てはめ方がなんか変」とか思ったりしたものだ(英語からの類推のせい)。音節単位で音符に当てはめていくということがわかれば、どちらも納得できるんだけれど(笑)。

バタイユの中世

酒井健『バタイユ』(青土社、2009)を読み始める。というか、「中世」と題された第5章から先に読む(笑)。バタイユが中世にこだわっていたという話は知ってはいたものの、内実はあまり知らなかった。で、同書によると、そこに見られるバタイユの関心は、『エロティシズム』などにも共通する「生の連続体」の探求だったという。たとえば中世の武勲詩。バタイユはそれを文字に定着しただけのテキストとは見なさない。口承の語りのパフォーマンス、しかも演じるトゥルヴェールやその聴衆をも巻き込んだ、情動の発露としての生きたテキストを念頭に置いているのだという。そうした情動・情念の共有によって成り立つ共感、その一体性・連続性。まさにそれはバタイユの一環したテーマ系で、こよなく愛したというガリアのロマンス語で書かれた「聖ウーラリ哀歌」(同書に原文と訳が収録されている)や、レミ・ド・グールモン編纂の『神秘ラテン語』(口語ラテン語詩のアンソロジー)の愛読にも通じるものであり、また、イタリアの女性神秘家アンジェラ・ダ・フォリーニョの神秘体験への共感にも通底するという(それは新プラトン主義の流れの中にあるという)。

情念への傾倒、連続性への志向ということで、バタイユの中世へのアプローチはある種一貫したテーマとして描き出されている……。うーん、けれどもバタイユ自身もまた、中世の言語や詩作品、神秘思想などがそうであるように、どこかシステマティックなものから逃れ、逸脱していくような印象がつきまとうのだけれど……。その意味では、脱線と回帰を繰り返していくような同書の論述の脈路もまた、あるいはそうした逸脱感を体現しているのかもしれず、かくもバタイユは論述の困難な対象なのかもなあ、と改めて思ったりもする。その上で思うのは、自分でもかつて一時期こだわろうとしたことのある(大したことはないのだけれど……苦笑)、言語芸術の生きた側面へのアプローチという観点を、再び忘却の淵から引き上げてみたい気もするなあということ……か。

断章22 & 23

(Lamberz : 23 & 12、Creuzer=Moser : 24 & 12)

Τῆς οὐσίας ἧς ἐν ζωῇ τὸ εἶναι καὶ ἧς τὰ πάθη ζωαί, ταύτης καί ὁ θάνατος ἐν ποιᾷ ζωῇ κεῖται, οὐκ ἐν ζωῆς καθάπαξ στερήσει, ὅτι μηδὲ τὸ πάθος ἦν ὁδὸς εἰς τὴν παντελῆ ἀζωίαν ἐπ᾿ αὐτῆς.

それが生命のもとにあれば存在となり、それを受け取れば生の数々をなすような実体にあっては、死すらもなんらかの生命の一部をなすのであって、決定的な生命の欠如をなすのではない。(生命を)受け取ることもまた、生命の完全な欠如への道ではないからである。

Οὐ μόνον ἐν τοῖς ἀσωμάτοις (σώμασι) τὸ ὁμώνυμον, ἀλλὰ καὶ ἡ ζωὴ τῶν πολλαχῶς· ἄλλη γὰρ ζωὴ φυτοῦ, ἄλλη ἐμψύχου, ἄλλη νοεροῦ, ἄλλη φύσεως, ἄλλη ψυχῆς, ἄλλη νοῦ, ἄλλη τοῦ ἐπέκεινα· ζῇ γὰρ κἀκεῖνο, εἰ καὶ μηδὲν τῶν μετ᾿ αὐτὸ παραπλησίαν αὐτῷ ζωὴν κέκτηται.

同じ名前は非物体(物体?)にのみあるのではなく、生命もまた複数の名で呼ばれるものに属している。植物の生命、動物の生命、知的動物の生命、自然の生命、魂の生命、知性の生命はそれぞれ別ものだからである。超越するものの生命も別ものである。というのは、それもまた生きているからだ。たとえそれより後に生じるものは、それと同等の生命をもはや得ていないにせよ。

新刊情報(ウィッシュリスト)

久々に新刊・近刊の備忘録。

ファルマコン

うーん、これはどうなのか……。ヒルマン『麻薬の文化史』(森夏樹訳、青土社)を読んでみた。センセーショナルなタイトル。でも一応、古代ギリシア・ローマにおけるファルマコンについての概説書という感じではあるのだけれど、とにかくファルマコンを「ドラッグ」と英訳しているらしい(邦訳では「麻薬」)(笑)のがかなり気になる……。植物性の薬をなんでもかんでも今風の「麻薬」の範疇に入れてしまうのはちょっと作為的だし、そういう現代的な意味合いのドラッグに引き寄せた解釈はときに強引で、かなりの断定口調を帯びたりもし、例として示されているテキストからも逸脱した解釈になっていたりする印象……。いくつか挙げてみるなら、たとえばテオフラストスの『植物誌』とかプリニウスの『博物誌』とか、伝聞による記述も多々含まれているにもかかわらず、著者はそういう点を軽くスルーして、記述内容が「あきらかに向精神性のものだ」という点だけを強調してみせる(p.93)。ニガヨモギについてのルクレティウスの説明では、医者が子供に飲ませる(薬としてでしょう)際の話なのに、著者は「古代世界は、それを飲むことをけっしてやめなかった」と、話をすり替えてしまう(p.112)。矢毒を口にしたときのニカンドロス『毒物誌』の記述も、矢毒を英気回復薬として常用していたから中毒症状をよく知っていたのではないかと、ただ推測のみで言い放つ(p.123)。引用されるテキストとその前後の断定口調の説明文は、なんだか必ずしも呼応していないような……(苦笑)。

植物が幅広く医療行為に使われ、また一種の嗜好品にもなっていたという点はもちろん疑いえないわけだけれど、だからといってギリシア人・ローマ人をみな「麻薬常習者」(章のタイトルになっている)のように見なすのは行き過ぎだろうし、学問的な意義も感じられない……(ま、たとえばドラッグ合法化のためのイデオロギーにとっては意味があるのかもしれないが(?))。たとえば『オデュッセイア』でキュクロプスに飲ませるぶどう酒が「麻薬入り」だったと著者は状況証拠を重ねて述べるけれど(p.159)、それをもって当時麻薬がふんだんに使われていたというような議論にもっていくだけなのはちょっといただけない……。むしろより広範な古代の植物利用全般という文脈で考える筋合いのものなはず。そしてそういう文脈で考えるのなら、麻薬うんぬんという話でいたずらに煽るのではなく、たとえば植物がらみの象徴体系とか当時の魔術概念とか、もっと多面的なアプローチから(もちろん緻密に)論証してほしかったように思う。テーマはなかなか興味深いだけに、ちと惜しいんではないかしら、と。同書のベースは論文審査で書き直しを命じられた博士論文だというけれど、なんだかこの扇動ぶりを見ると、ペケをくらった理由も、著者が言うようなアカデミズムの偏狭さのせいというより、やたらと扇動的・断定的なその語り口、論述方法のせいだったのでは、なんてつい勘ぐりたくもなるというもの(笑)。

……余談だけれど、ちょうどプリニウスの『博物誌』の邦訳が刊行されている。植物編植物薬剤編(いずれも大槻真一郎訳、八坂書店刊)。これはぜひそのうち。