現象学的思想史?

マリオンに続いて、やはり現象学系の関連でエマニュエル・ファルク『神、肉体、他者–エイレナイオスからドゥンス・スコトゥスまで』(Emmanuel Falque, “Dieu, la chaire et l’autre – D’Irénée à Duns Scot”, PUF, 2008を読み始める。まだ5分の1程度だけれど、これもまたすでにして刺激的。古代末期から中世の神学思想に、現象学的なテーマを読み込むという野心的な論考。とはいえアナクロニズムではなく、神学と哲学の境界ぎりぎりのところに浮かび上がる形而上学的な微細かつ重大な問題を、細やかに検討していくというもの。なにかこう、現象学的思想史(一種の言葉の矛盾だけれど)という様相を呈していたりもする。通常の思想史的な議論とはまたひと味違うのは、結果的にそれらがいかに現象学的なテーマを形作っているかが明らかにされるから(かな?)。こうしてまず第一章ではアウグスティヌスの『三位一体論』から、位格についての考察が取り上げられる。アリウス派への反論として神は実体ではない(付帯性ではいっそうない)とするアウグスティヌスは、第三の道として神は関係性であると論じる–これはまさに革新的な議論となるのだけれど、しかし一方で「ガリレオのごとく」(と著者は述べている)すぐにそれを再び基体としての実体に結びつけて埋もらせてしまう。その議論が神学と形而上学との緊張関係を明るみに出してしまうからだ。かくしてその緊張関係は、解消しえない問題として後世に残される……。

次いで第二章ではヨハネス・スコトゥス・エリウゲナが取り上げられる。そこでは、エリウゲナが偽ディオニュシオス・アレオパギテスの翻訳作業を通じて、後者の否定神学のいっそうのラディカル化を図ったことが指摘されている。存在の直接的な否定にすぎなかった「否定」は、そこで「非・存在」と解釈され、さらに慈悲による存在の彼方への接近も、善そのものが超えられない「無」そのものと同一視される。無としての神と、そこから生じた存在としての世界……。著者の言うように、まさにこれは存在論を超え出でて現象学へといたる動きのようでもある。

この後の章ではエックハルトが議論されるし、第二部では遡ってエイレナイオス、テルトゥリアヌス、ボナヴェントゥラ、第三部ではオリゲネス、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥスなどが取り上げられる。というわけで、また面白い部分があればメモしていきたいと思う。

西田哲学

少し前からの続きという感じで、西田哲学についての比較的新しく入手しやすい参考文献(というか入門書・概説書)をずらずら眺めてみる。ベルクソンやドゥルーズとのパラレルな問題機制を取り上げた檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』(講談社現代新書、2005)は、西田哲学のキータームをめぐりながらタイトル通り「生命論」としての側面に光を当てている。初期の意識論的な議論から中期・後期の論理学的・トポス論的な議論への移行に、生命論的な側面が介在しているというふうに読める、ということか。これと対照的なのが、永井均『西田幾多郎–<絶対無>とは何か』(NHK出版、2006)。こちらはむしろ意識論の中核部分から言語哲学の面を拾い出し、その延長線上で絶対無などのタームを考えていこうとしている。こちらはヴィトゲンシュタインなどが引き合いに出されたり。どちらの本も現代的な問題圏からの読みということで、重なる部分も多いものの、置かれている力点の違いが西田哲学の「いろいろな読まれ方」を示唆していて興味深い。

で、そういう読みができるようになる土壌が整ったのは、やはり中村雄二郎の著書あってのことかと思われる。83年の『西田幾多郎』は岩波現代文庫で『西田幾多郎 I』となっているけれど、西田哲学の全体像のまとめや同時代的な言及(中江兆民とかまで)、その概説の批判的な冴えなどからしても、やはりこれがスタンダードな入門書かな、と。同書を見て、上の二書とも違う方向性に引っ張るとしたら、それは「媒介」論のほうではないかという気がした。媒介概念は結構重要な位置づけになっていると思うけれど、それを軸にして全体を見直す、みたいなことも可能ではないか、と。これは案外興味深いものになるかもしれないし。とりあえずは、87年の『西田哲学の脱構築』が『西田哲学 II』として同じ岩波現代文庫に入っているので、これも近々見てみることにしよう。

断章14

Τῆς ὕλης τὰ ἴδια κατὰ τοὺς ἀρχαίους τάδε· ἀσώματος – ἑτέρα γὰρ σωμάτων -, ἄζωος – οὔτε γὰρ νοῦς οὔτε ψυχὴ οὐ ζῶν καθ᾿ ἑαυτό -, ἀνείδος, ἄλογος, ἄπειρος, ἀδύναμος. διὸ οὐδὲ ὄν, ἀλλὰ μὴ ὄν· καὶ οὐχ ὅπερ κίνησις μὴ ὄν ἤ στάσις μὴ ὄν, ἀλλ᾿ ἀληθίνον μὴ ὄν, εἴδωλον καὶ φάντασμα ὄγκου, ὅτι τὸ πρώτως ἐν ὄγκῳ τὸ ἀδὔαμον· καὶ ἔφεσις ὑποστάσεως καὶ ἑστὼς οὐκ ἐν στάσει καὶ τὸ <ἐναντίον> ἀεὶ ἐφ᾿ ἑαυτοῦ φανταζόμενον, μικρὸν καὶ μέγα καὶ ἧττον καὶ μᾶλλον, ἐλλεῖπον καὶ ὑπερέχον, ἀεὶ γινόμενον καὶ οὐ μένον οὐδ᾿ αὖ φεύγειν δυνάμενον, ἔλλειψις παντὸς τοῦ ὄντος. διὸ πᾶν ὃ ἐπαγγέλλεται ψεύδεται, κἂν μέγα φαντασθῇ, μικρὸν ἐστιν· οἷον γὰρ παίγνιόν ἐστι φεῦγον εἰς τὸ μὴ ὄν· ἡ γὰρ φυγὴ οὐ τόπῳ, ἀλλὰ τῇ ἐκ τοῦ ὄντος ἀπολείψει· ὅθεν καὶ τὰ ἐν αὐτῇ εἴδωλά ἐστν ἐν εἰδώλῳ χείρονι, ὥσπερ ἐν κατόπτρῳ τὸ ἀλλαχοῦ ἱδρυμένον ἀλλαχοῦ φανταζόμενον καὶ πιμπλάμενον, ὡς δοκεῖ, καὶ ἔχον οὐδὲν καὶ δοκοῦν <τὰ πάντα>. 

古代の人々によれば、質料の属性は次のようになる。すなわち非物体で(物体とは異なるからだ)、生命をもたず(知性でも魂でもなく、それ自身において生きてはいないからだ)、形もなく、理性もなく、際限もなく、潜在力もない。ゆえに存在ではなく、むしろ非存在なのである。とはいえ運動がそうであるような非存在でも、静止がそうであるような非存在でもなく、真に非存在なのである。大きさの幻影、見かけなのだ。というのも、第一に大きさのもとにあるのは潜在力をもたないものだからである。またそれは、具体化への動きでもある。静止状態であるのではなく、つねにみずからを大・小、多・少、過・不足として反対物で表し、つねに生成途上にあってとどまることがなく、いっさいの存在を欠いているため逃れ去ることもできない。ゆえに、それについて告げる者はすべて誤りとなってしまう。大きいと見えれば、実は小さいのだ。なぜならそれは、非存在へと逃れる子供だましのようなものだからだ。というのも、その逃れとは場所において生じるのではなく、存在から脱するようなものなのだ。そのため、そうした幻影にあるものは最悪の幻影に置かれるのである。ちょうど鏡において、ある場所に置かれているものが、ほかの場所にあるような幻影をなすのと同じである。また、鏡が一杯に満たされているように思えるのに、何一つそこにはなく、ただすべてがそこにあるように見えるだけであるのと同じである。

備えあれば……というが

イタリアの地震被害はかなりの規模になっている模様。それにしても建物の崩れ方などを写真や映像で見ると、素人目にも耐震補強などなされていなかったように見える。イタリアって地震国なのに、やはり何もやっていないのか……。もちろん日本も耐震補強工事なんて、言われ出したのも最近で、何もやっていないようなものだけれど……。そういえばベルルスコーニはG20でどこぞのナカガワばりのひんしゅくを買ったとかいう話だし、なんだか両国は嫌なところばかり似ているのかも……。

この国の場合にはさらに、実効性を伴わないようなことでも、とにかく形だけで対応する、なんてのがまかり通っていたりもする点も問題か。北朝鮮のミサイル話で登場した迎撃システムなども、ある意味その典型。まあ、秋田では同システムを配備しようとして、自衛隊の演習場に隣接する野球場に誤って突っ込んだとか、例の誤報騒ぎとか、冗談としか思えない話ばかりが続いたけれど、実効性という点で考えればかなり空恐ろしい話でしかないわけで。そろそろ形じゃなく、ちゃんと実効性のある対策を考えてほしいところ。

実効性のある対策を否定するなんてのももってのほか。少し前にアフリカを訪問したローマ法王が、エイズ対策にコンドームは役立っていないばかりか、疾病を蔓延していると発言して問題になったけれど、これなどはその最たるもの。代案として教会が示しているのが節制だというのだけれど、そこで精神論・理想論に向かっても何も解決しないわけで……。ミサイルの脅威を前に対話路線だけを云々するのも同様か……こんなところも似ていたりとか……(ため息)。

* * *
……ちょっとこんな時に不謹慎という気がしないでもないが、ラクィラといえば、個人的にはちょうど16世紀初頭のリュート作曲家マルコ・ダ・ラクィラとかが気になっていたところ。ポール・オデットによる録音がiTunesで出ているけれど(”Lute Music Volume 2, Early Italian Renaissance Lute Music” -> Paul O'Dette - Lute Music, Volume 2: Early Italian Renaissance Lute Music)、フランチェスコ・ダ・ミラーノ(個人的にはそのリュート曲はとても好きなのだけれど)あたりとはまた違う作風で、なかなか興味深い。

あまり意味はないが、都内某所の桜の写真も。
sakura_090406c

戴冠式アンセム

今年はヘンデルイヤーでもあるわけだけれど、最近はあまりヘンデルは聴かない……凄いメロディ・メーカーではあるのだけれど、なんだかあまりにストレートすぎて繰り返し聴くという気にならない……なんて思っていたら、ザ・シクスティーンの新譜『戴冠式アンセム集(”Coronation Anthems”)』はなかなか渋くていい感じ(ハリー・クリストファー指揮)。これは思わず繰り返し聴く(笑)。UEFAのチャンピオンズ・リーグでアレンジ版が使われている「司祭ザドク」ほか4つのアンセム(1727年のジョージ2世と王妃キャロラインの戴冠式用)は、どれも勇壮な雰囲気。さらにオルガン協奏曲ヘ長調やその他の収録されていて、ちょっと面白い構成になっている。

Handel: Coronation Anthems, Oratorio “”Solomon”” HWV.67 -Arrival of the Queen of Sheba, etc / Harry Christophers, The Sixteen