続Mandrivaなど

工人舎マシン(SA1F00A)に入れたMandriva。scim-m17nパッケージなどを入れて、これもギリシア語入力を気分よくできるようにしたりしていたのだけれど、ここへきて問題が。上部のバーに通知アイコンが出て「2009.0 winterが出ました〜」というお誘い。うんうん、そりゃ良さそうだと思ってアップグレード(ネットワーク経由なので数時間かかる)したところ、なんと外付けの無線LANもイーモバイルのモデムも認識しなくなった!カーネルも当然バージョンアップしているわけだけど、どうもドライバ周りが違ってしまったようだ。そんなわけで翌日、再び数時間かけて2008.1 springをインストールし直し、現状復帰。うーん、アップグレード=改良になっていないのはWindowsと一緒ではないの(苦笑)。Linuxも気軽にアップグレードしてはいけなかいかも、という教訓。 また、この数日、思うところあって、MovableTypeの3.37をローカル(自宅LAN)のMacOS Xで動かすという作業をやっていた。これがまた結構面倒。全体的手順は「R-STYLES.NET」というサイトを参考にさせていただいた。mySQLとphpMyAdminは少し前に別の用途で入れたあったので(「MacOSXでサーバ稼業」というサイトに、手順やらツールやらがあって重宝した)、DBIのインストールから。基本的にコンパイル作業ということで、まあ、configure、make、make install一発という感じではあるけれど、いくらUNIX系も使い良くなったとはいえ、このあたりの手作業感覚はやっぱりなくならないのね、としみじみ。今回初めてFinkというオープンソースソフトの自動コンパイルツールを使ってみたわけだけれど、確かに楽になったとはいえ、コンパイルに要する時間は結構半端ではなく、こういうのを見ると、生のUNIX系の普及は結局難しいか、というようなことを改めて思ったりもする。FinkCommanderが、「Xcodeが古すぎる」とか言ってきて、それも更新したりと面倒が続く。Appleの開発者のサイトからダウンロード(すっごい久々にアクセスした(笑)登録したのって何年前だろう?)。結局FinkでのImageMagicのインストールはちょっとコケた。そもそも、一個のパッケージをインストールしたいだけなのに、依存関係にあるライブラリをすべてコンパイルしてインストールしようとするところは厄介。なにせ、使わないXウィンドウシステムまでコンパイルされてしまう(!)。ま、ImageMagic自体はMTの中では画像のサムネイル操作ツール扱いなので、別になくても構わないかなというわけでパスした。MTはどうやら無事にローカルで動く。

finkcommander

世界は思いなしで動いている……か

今年の春先にちくま学芸文庫で出たネルソン・グッドマン『世界制作の方法』(菅野盾樹訳)。現代の唯名論者ということで、ざっとだけれど読んでみた。個物だけが実在し抽象概念などが表すものの実在は認めないというのが中世の唯名論だけれど、現代世界でのそれは、抽象概念は構築されるものなのだから、いくつものバージョンがあって構わないということになるらしい。構築論・相対論ということか。これは多元宇宙論ではなくて、現実世界は個物の集積としてあるものの、それを人が認識する網目は多様なのだということを、グッドマン本人が述べている。そもそも人間の言語や知覚自体が、そういう開かれたものとしてあるではないか、とグッドマンは言う。その知覚についての一節である実験が紹介されていて、光の点灯で図形を描く装置で、継起的にたとえば小さな丸と四角が一定の条件下で明滅すると、人はそれを連続して変化したもののように感じたりするが、結局それはあくまで思いなしであって、人はその「あいだ」を補って理解するのだということが論じられている。なるほど人は実はデジタル的なのに、一方でそれは補完的にアナログ化するというわけか。外部世界を切り取る知覚それ自体はきわめてデジタルなものでしかないのに、それを認識の次元でアナログ化するということ。よくテレビのバラエティーで、「じっと見ていると一部だけが変化しますよ、それはどこでしょう?」とか言って、部分的なモーフィング映像を流したりするけれど、これがなかなか難しいクイズなのは、知覚がかくもデジタル的な処理だからなのかもね。補う「あいだ」が見つからないと、意外にも人は落ち着かなくなる?というか、そういう「あいだ」を無理にでも見つけようとするとか?

そういえばレベルは全然違うけれども(笑)、先週の大統領選についての海外メディアのフィーバーぶりもまったく「思いなし」の産物という気も。ル・モンド紙の校正係がやっているブログ「Langue sauce piquante」の11月6日のエントリでは、オバマに対する賞賛の念は「latrie」(神にのみ捧げられる表敬の意)にまで達したと、やや皮肉な調子で述べている。黒人大統領の誕生は確かに歴史的だとはいえ、その前後の騒ぎっぷりは金融バブルと同じような肥大した期待かも、と。

言葉からのアプローチ

前に『アナロギアの考案』(”Inventio analogiae”)が面白かったジャン=フランソワ・クルティーヌを、久々に読んでいるところ。『存在の諸カテゴリー』(J.-F. Courtine, “Les catégories de l’être – Études de philosophie ancienne et médiéval”, PUF, 2003)。『アナロギア……』に先立つ論集。ここでもまた、οὐσίαの意味論的変遷とか、「存在のアナロギア」が導かれる前提条件としてのネオプラトニストの注解とか、言語的アプローチから哲学的な意味を引き出すという方法論が見事に冴えわたる。ウーシアに関してはボエティウスの翻訳と、さらに先立つクィンティリアヌス、アウグスティヌスの場合の意味の変遷が問題になっているし、「存在のアナロギア」説では、アップストリームに位置する初期注解者たちの偏向が問われる。アフロディシアスのアレクサンドロスやアスクレピオスらは、συνώνυμοςとὁμώνυμοςの関係性の解釈の中で、プラトンを批判するというアリストテレスの意向を文字通り反転させてしまうのだという。このあたり、なかなかに味わい深い分析が展開する。

で、とりわけ興味深いのが、アリストテレスのカテゴリー論の受容でのヨハネス・スコトゥス・エリウゲナの立ち位置。10のカテゴリーに対して神はどこに位置づけられるのかという中世的な問題に、エウリゲナは否定神学的な立場からむしろそのカテゴリーの組み替えを提唱し、しかもそれに際して、これまた長い思想的伝統のある「場所と時間」の特異性をはっきりと打ち出していくのだという。そういえば、先々月記したヴァジリウ『透明なるもの』でも、エリウゲナがディオニュシオス・アレオパギテスをベースに、真にアリストテレス思想的な知覚論を展開していたとされていたのだっけね。うーん、エリウゲナは気になるなあ。ちゃんと読んでみようか。

心機一転

サイト全体をリニューアルしました。

……いや〜まいった。このサイトはあと数日で5周年で、それを期に前面リニューアルでも、と思っていた矢先、サーバ側(ロリポップ)がPHPほかのリニューアル作業を行ったついでに、バークレーデータベース(Berkeley DB)を消してしまったらしい。Mediologや旧メルマガ・アーカイブは超レトロ(?)なMovableType 2.62をBerkeley DBで動かしていたのだけれど、そんなわけでMTの管理画面にも入れなくなってしまった(エラーが出て、DBが見つかりませんとか……)。どうしようかとあれこれ考えた末、仕方ないのでMTを今更ながらアップグレードすることに。親ページに使っているWordPressは1つしかブログが作れないので、結局MTで行くことにする。で、DBからmySQLに移行するためのCGIが含まれているという理由で、これまたちょい古い3.37を入れることにした。でも結局、SQLが古いのか、エラーが出て取り込めずじまい。しかもそのツールを使うと、インストールで作られたmySQLのデータベースがいじられるらしく、管理画面へのログインを受け付けなくなってしまう。結局、SQLに出来たMTのデータベースを消したりしながら、都合3回もインストールを繰り返した挙げ句、DBからmySQLへの移行は断念。新たにまっさら(でもないが)な再スタートと相成った(苦笑)。うちのサイトはエントリ数が1200に達したところだったのだけれど、聞くところによるとBerkeley DBでは3000エントリくらいが限界らしく、それ以上になると再構築も何もウンともスンとも言わなくなるらしい。ま、やっぱり放っておかないで、早めにバージョンアップとかするべきだったかも、とちょっと反省。

というわけで、MedioLogはこのトップページSilva Speculationisに融合し、またメルマガのログはメルマガ・アーカイブ2に移行した。で、ついでにmsearchによるサイト内検索を、これまでの書庫(archive)だけでなく、旧MTで作っていたブログすべてに拡大してみた(右のバーから検索できる)。

哲学から言語を考える

中世の言語論とのからみで、ジョルジョ・アガンベン『言語と死』(G. Agamben, “Il linguaggio e la morte”, Piccola Biblioteca Einaudi, 2008)を読んでいるところ。もとは1982年刊。いや〜、これがまた実に面白い。まだ途中なのだけれどね。ハイデガーとヘーゲルによる「言語の外部」についての考察を追うというのがメインストリームなのだけれど、分析のための手がかりを得るべくにいったん古代・中世にまで遡及し、そこから取り出してきたある種の言語論の根底をもとに、あらためて両者にアプローチするという構成。で、その根底として、まずは修辞学的な文法の隆盛が挙げられる。これは古代以来の形而上学と密接に結びついていたといい、とりわけ重要なのが中世における代名詞の扱いで、「純粋存在」(神はそういうものだとされるわけだけれど)の形而上学の成立と代名詞の意味論的な考察とは時を同じくしているのだという。とくに指示詞、シフターとして、発話行為そのものが指示されるような場合だ。このあたりはとても示唆的(多少アガンベン独特の横滑りも感じられるけれど)。存在するものから存在への形而上学的な超越の関係は、体系的言語に対する発話行為の関係と対偶のような配置になる、という次第。

次に指示詞のいわゆる「指示」とは何かを考えていけば、言葉を乗せる声(それは言語が有する場だ)そのものにいきつく。声は行為であり、古代からすでに意味への志向と捉えられてきた。かくしてそれは、再び形而上学の基礎へと返り咲くことにもなりうる(デリダを超えて?)。さらにまた、それはまだ意味する手前の段階として、大きな意味の裂け目を開くことにもなる……とまあ、一貫して言語の外部を考える同書は、ある意味、哲学の目線から再び言語を見直すことを促しているとも言えそうだ。その昔、記号学などが流行った当時には、ある著名な言語学者が「哲学的な存在論はしょせんBe動詞をめぐる考察にすぎない」などと勝ち誇った雄叫びを挙げていたものだけれど(苦笑)、ことはそう単純ではなく(中世などに遡及すると、そのことはよく見えてくると思う)、哲学と言語学(あるいは記号論)相互の視線の応酬がときに根底的な問題を焙り出すこともありうるわけで、そのあたり、改めて押さえておきたいところ。