アラブ世界でのゾシモス

ゾシモスの『炉と器具について』を見ているわけだけれど、それとの関連でこんな論考を見始めているところ。ベンジャミン・ハルム『アラブのゾシモス—アラブ/イスラム世界におけるパノポリスのゾシモス受容』(Benjamin Hallum, Zosimus Arabus: the reception of Zosimus of Panopolis in the Arabic/Islamic world, Warburg Institute, University of London, 2008 )。今ちょっと忙しいのであまり時間が取れず、とりあえずゾシモスについての先行研究の概要と問題をまとめている序論部分だけ覗いてみた。ゾシモスで問題になるのは、まずその実像に関する情報がきわめて乏しいこと。年代も正確には知られておらず、ただ四世紀よりも後ではないだろうと推測されるのみ。基本事項としては、この『炉と器具について』はテオセベイアなる「精神的な妹?」に向けて書かれた書簡の形で、精神的な救済と、ダイモンによる影響を避けることを主要なテーマとしている、と。ゾシモスの宗教的なスタンスは諸教混合主義(シンクレティズム)的・折衷的とされる……。

錬金術の文書がどのような流入経路でアラブ世界に入ったのかも、まったく知られていないらしいという。ゾシモスが与えたであろう影響も同様。そんなわけでなされるべき探求は多々あるとのことだ。アラブ世界におけるゾシモスについての記載は、論文著者によれば (1) 逸話・名言のおおもととしてか、(2) 伝記的記述の主体としてか、(3) 秘められた知識の源泉としてかのいずれかに分類されるという。で、まずはその各々について具体的な文献を検証していく、というのがこの論考の本体になるらしい。

ゾシモス『炉と器具について』第一書 2

2. テオセベイアのゾシモスが常に健勝であらんことを。時にまつわる染色は、婦人よ、『炉について』の書を冷笑へと転じせしめた。というのも多くの人は、各人のダイモンからの厚遇により、時にまつわるもの[染色]において成功しうる立場にありながらも、『炉と器具について』の書をも、あたかも真理ではないかのごとくにあざ笑うからだ。また、各人のダイモンが語らず、時に即して彼らの運命を変え、彼らに害をなすダイモンに代わられるのでもなければ、いかなる論証的なロゴスも、それが真理であると彼らを納得させはしない。彼らの技術も幸運[善きダイモンをもつこと]もすべて遠ざけられ、同じ言葉が不運によっていずれかの方向に曲折すると、やっと彼らは、みずからの運命によって明らかにされて、以前に考えていたこと以上の何かがあると認めるのである。

・「時にまつわる染色」としたκαιρικαὶ καταβαφαίは、仏訳の注によると、βαφαίが染めることを意味し、καταがついていることで「深々と染めること」ではないかという。時間をかけて奥まで染める技法のこと?
・全体的に時の支配が問題にされているような印象の箇所。「言葉」としたῥῆμαは、同じく仏訳注によれば、その染色を行うために術者が用いる処方のことだとされている。これが時宜的な運・不運によって、成功するか失敗するかするということのようなのだが……。

イアンブリコスの霊魂論

Giamblico. «De anima». I frammenti, la dottrinaルクレツィア・イリス・マルトーネ『イアンブリコス「魂について」—断章、教義』(Lucretia Iris Martone, Giamblico. «De anima». I frammenti, la dottrina, Pisa University Press, 2014)を読んでいるところ。イアンブリコスの霊魂論の断章本文の校注・翻訳(同書の中間部分)を含む、総合的な研究書。イアンブリコスの霊魂論がドクソグラフィー的(魂をめぐる諸説を集めたもの)だという話は前から聞いているけれど、その残っている断章を見ると確かにそういう感じではある。アリストテレスの教説に対してプラトンおよびプラトン主義者の説を対置していたり、さらにはプラトン主義陣営内ので異論なども拾ってみせている。もちろんそれら以外の学派や思想家たちについても取り上げている。

たとえば魂がいくつの部分から成るかという問題。アリストテレスが魂のの不可分性を取り上げるのに対して、プラトンは魂が3つの部分から成るとする(断章13)。機能的区分ならば、ゼノンなどは8つを区別し、アルキュタスやピタゴラス派は3つ、アリストテレスも5つを区分しているとまとめている(断章14)。プラトン主義陣営内の異論ということで言えば、運動機能などをめぐって、プロティノスやポルフュリオスは、形相や生命、諸作用が単一の秩序(調和)、単一のイデアに帰結すると考えているのに対して、ヌメニオス、アッティコス、プルタルコスなどは論戦を張っているという(断片23)。このあたりの相違などを詳細を読み解くのが、同書の後半をなす著者マルトーネによる教義についての論考ということになる。もちろんイアンブリコス自身の考え方も復元の対象に。

同書の前半部分は研究史などを批判的にまとめている。それによると、基本的にこれらの断章がドクソグラフィー的なのは、それらを収集・編纂した五世紀のヨハネス・ストバイオスの方針のせいなのだという。本来イアンブリコスは、様々な異論を取り上げた後に自説を展開していただろうというのだけれど、残された断章にはあまりそれが取り込まれていない。そんなわけで、あまりにも長い間、イアンブリコスは折衷主義的(アリストテレスとプラトン主義の)で哲学的には見るべきところがあまりないと一蹴されてきたという。状況が変わったのはつい最近(70年代くらいから再評価の兆しがあり、とくに顕著になったのが1990年代以降)で、そのプラトン神学の議論がプラトン主義陣営内の対立などを反映しているとして再評価を得たのだ、と。霊魂論に限っても、その全体的な構成について、従来のものを批判的に捉え異なるかたちで復元の試みがなされている。

余談だけれど、前回のエントリーで触れた、プロクロスの先駆とも位置づけられるイアンブリコスの『共通数学について』(De Communi Mathematica Scientia)もネット上にある。これも後で読みたいと思っている。

プロクロスによる数学と想像力

Études sur le commentaire de Proclus au premier livre des éléments d'Euclide前にも出たけれども、原論の注解書でプロクロスは、数学が扱う対象(より正確には幾何学が扱う対象)を感覚的与件でも純粋な知的対象でもないとして、両者の中間物、つまり想像力の対象として規定している。注解書でこれに触れている部分は、序論第一部の末尾あたりから序論第二部。現在鋭意読み進め中。で、これに関してとても参考になる論考があった。ディミトリ・ニクーリン「プロクロスにおける想像力と数学」(Dimitri Nikulin, Imagination et mathématiques ches Proclus)。所収はアラン・レルノー編『エウクレイデス「原論」第一巻へのプロクロス注解書の研究』(Études sur le commentaire de Proclus au premier livre des éléments d’Euclide, éd. Alain Lernould, Presses universitaires du Septentrion, 2010)。プロクロス注解書に関する2004年と2006年の国際会議にもとづく論集で、先の普遍数学史本の著者ラブーアンをはじめ、様々な論者が多面的にアプローチしているなかなか興味深い一冊。で、ニクーリンの論考は、なにやらわかったようなわからないような感じの「感覚的与件と知的対象の中間物」について、その諸相をプロクロスの本文に即してうまく整理してくれている。

それによると、プロクロスのこの数学的対象の議論は、どうやらイアンブリコスの『共通数学について』という書の議論を取り込んだものらしく、さらに遡ればプトレマイオスの『アルマゲスト』に行き着くということらしい。中間物というだけあって、その対象は感覚的与件に見られるような、生成流転の途上にある不安定な特徴を備えるとともに、推論にもとづく思惟の対象であるロゴスの特徴も併せ持つ。たとえば円が与えられたとして、現実の円形のものが感覚的対象であるなら、知的対象は円という抽象概念であり、数学的対象はというと、延長をもち分割可能な、想像力における一種の像(σχῆμα)をなし、と同時にそれは現実にはない完全な円として思い描かれる。質料形相論的には、それは想像力を質料として成立する実体として、物理的世界の対象とは別物の扱いになっているという。プロクロスはまた、その質料をなす「想像力」をアリストテレスが示唆する「受動知性」(霊魂論、III, 5, 430a10-25)と同一視しているともいう。うん、このあたりは個人的にもなかなか興味をそそる部分だ。

『原論』第五公準

ポアンカレ予想 (新潮文庫)これも夏読書の残滓だけれど、ドナル・オシア『ポアンカレ予想 (新潮文庫)』(糸川洋訳、新潮社)。まだ途中までしか読んでいないのだけれど、現代数学史というか、サイエンスルポとしてとても面白い。で、これのわりと最初のほうに、エウクレイデス(ユークリッド)『原論』の第五公準(『原論冒頭に記された公準の一つ)の話が出てくる。第五公準は「二つの直線にもう一つの直線に交わるとき、最初の二つともう一つの直線がつくる同じ側の内角の和が直角二つ分よりも小さい場合、最初の二つの直線をどこまでも伸ばしていくと、その直角二つ分より小さい角の側で両者は交わる」というもの。早くからこれは公準ではなく証明が必要だとされ、盛んに試みられた経緯があるという(アラブ世界など)。はるか後世の19世紀になって、これが必ずしも正しいとは限らないのではないかという話が出て、非ユークリッド幾何学を導くことになる(有名なリーマンの講演)……というのが同書のストーリー展開。なるほど、この第五公準はとても重要な出発点をなしているわけだ。で、そもそも「それが公準でない」という指摘はプロクロスの注解書でもなされているという。そんなわけでさっそく確認してみた。

底本はネット上にあるもの(Procli Diadochi in primum Euclidis Elementorum librum commentarii, ed. Gottfried Friedlein, 1873)(ついでに英訳本のPDFも)。プロクロスはいきなり、これは公準(αἴτημα)から消すべきだと始めている。定理だからだ、と。しかもそこにはいくつもの疑問があり、それについてはプトレマイオスがそれらの解決を図っているという。ゲミノスの言として、想像力をやみくもに信用して幾何学で受け入れられた理拠とするわけにはいかないという指摘もなされている。アリストテレスとプラトンの喩え話に触れた後、プロクロスはこう続ける。内角が直線二つ分(180度)よりも小さいときに、その直線(εὐθεῖα)が傾くというのは必然だが、やがてもう一つの直線と交わるというのは、本当らしいけれども必然ではない。どこまでも傾きはするが、交わらないという線(γράμμα)もありうるetc。そしてこう結論づける。いずれにしても論証で確実になるまで、いったん公準から除外するのが筋ではないか、と。プロクロスは、第五公準が実際に使われる命題(命題二九)のコメントまで、その証明についての話を先延ばしにしているようだ。